エピローグ〜女性という欲深なイキモノの小宇宙『やおい』
2006年の夏コミ(同年8月11〜13日・第70回開催)でも、筆者はゲーム系中心の1日目、女性向け中心の2日目、男性向け中心の3日目、3日間ともフル参戦。
3日間で3万5千サークルもの参加がある中で、自分にとって価値のある本を出しているとおぼしきブース及びサークルを峻別。なんといっても数が多いので、前もってのカタログチェックは欠かせない。
1日目・2日目は一般参加、3日目は友人のサークルの手伝いとしてサークル参加。"手伝うにょ〜売り子だにょ〜"と言いつつ、実際にはひたすら買い物に出て店番なんか果たしやしない。これを[出たきり同人]という。
また、コミックマーケット準備会代表・米沢嘉博氏の急逝という残念な有事が降りかかった2006年の冬コミ(同年12月29〜31日・第71回開催)は、それでも大きなトラブルにみまわれることなく無事閉幕を迎えていたが、ここ1・2年で顕著になってきている[一般参加者の減少]を如実に体感した回であった。
相変らず凄まじい人!人!人!の肉弾状態の人いきれは感じるものの、
"どの列へ逃げても容赦なく肉体の津波と渦に飲まれて全く身動きとれない!きつきつ連綿乗車エスカレーターは遠くから見てトコロテン状態!"
……というかつてピーク時の2000年代前半に見られた事態は、ここにきてとんと見られなくなった。
'05年夏開催[68]の3日目最終日の入場者は18万人。
'05年冬の[69]の2日目最終日は19万人(一見増えているが2日間開催だからもっと増えないとおかしい)。
そして'06年夏の[70]の3日目最終日は17万人であった。
それらの数字から推察すると、この度の[71]3日目は、多分15万人くらいになるのではないか。
※おっと、その後カタログで発表されたデータによると実際には16万人だったべ!
コミケ参加者減少の理由は、ホームページやブログ、ミクシィなど、同人誌媒体以外でもインターネットで自己表現が年々たやすく気軽に行えるようになってきていること。
それともうひとつ、同人のみならず、商業世界のコンテンツがオタク化してきたため、需要が同人以外でも間に合う側面が多くなってきた、とも指摘できる。
現にマニアックなアンソロジーやBLコミックが普通の書店で台頭しているし、私の地元でも同人専門店やメイド喫茶が人気を博しているのだから。
でもこれは決して憂いではなく、ただならぬ過剰需要事態が収束を迎え、同人文化が一般層に浸透し始める安定期に入ったと考えて良い。実はネット・書店・TVなど、各情報媒体が同人文化に侵食され始めている、ということも言えるのだ。
それはともかく、2006年の夏コミにしろ冬コミにしろ、3日間合計で10万円近い同人誌の買い物をさせて頂いた。
やおい本・BL本の隆盛は相変わらずで、流行もののアニメは移れど、常に内容はカップリングと受け攻めへの萌えで全て出来ていることは、永遠に変わりはないのだろう。
今回買った某アニメのやおいカプ本の中でも苦笑してしまったのが、唐突に自分の好きなJポップの歌詞をそのまんまつらつらと書き出してしまっている女性向け同人誌。これもやおい本としては非常にベタで類型的。
"それが自分のカプのイメージだから"と、そのアニメには無関係、しかも誰も分かんないようなJポップアーティストのベタ甘ラブソングの歌詞を、わざわざ花模様の紙替えまでして、延々と転記して陶酔してしまっている。
その本の冒頭でカップリングを標榜する捏造設定もかなりキており、
『××は○○より年上という設定です』
『××は○○に激しく片思い中です』
『○○をかなり幼児化してあります』
などという妄執設定を累々と列挙。
……そういった数々の設定やシチュエーションは箇条書きにして定義するのではなく、漫画の中でうまく描出することによって読み手を説得させて欲しいのだが。
本のタイプとしては、固定カプ設定を自分の萌えるシチュエーションへ自分の中だけでどんどん醸造し過ぎてしまっていて、冒頭の一方的カプ設定や注意書きを読まないと読者側は全然とっつけない、というタイプのやおい本である。
そのアニメのジャンルブーム後半期によく見かける、特定カプ捏造設定夢想型やおい本の典型の1冊。
特に、脈絡なく無関係のJポップ系ベタ甘ラブソングの詩をダラダラ転記するくだりのベタっぷりは、なかなかのアイタタタぶり。
他にも石化させてもらったのが、あるジャンルのブースで配布されていた、とあるアニメのオンリーイベントの告知チラシ。
……なぜ、オンリーイベントの申し込み用紙にあるアンケートって、時々重症な程お花畑系な質問項目が平気であるのだろうか。
例えば、
『あなたが無人島に行く際奴隷にしたい攻めキャラは誰?』
『お城を建てておきさきにしたい受けキャラは?』
『2人の愛の巣で作られるお味噌汁の中身の具を答えて下さい』
……のような、こういったヒドい設問を時々みかけるのだが。参加サークルの人たちはよく怒らないな。それって、
“申し訳有りませんが、貴女と同じ系統の電波を受信していないため、お答え致しかねます”
としか書きうようがないと思うのだけれど。
同人ヲトメというものは、世の中の森羅万象ありとあらゆるもの全て、なんでもカップリング、何でも受けと攻めで物事を測ろうとする生き物なのだ。
徒然的ながら、もうひとつ気がついたことを。
とある地方のワイド型生放送ラジオ番組で、女性はアダルトビデオのどういった箇所で性的興奮をするか、という議論を、男のパーソナリティと男のリスナーが生放送で論議を交わしていた。
詳細は忘れてしまったが、複数人数の男に攻められているものではないか、など喧喧囂囂うんぬんかんぬん、どれも男だけの見地から脱却できない、的外れなものばかりであった。
この本で事細かに述べてきたように、同人でいうヲトメ・腐女子というイキモノは、直接的な性描写への傾倒は二の次である。
[受け]と[攻め]の役割を固着させた上でのベタ甘ダイアローグや、もつれる三角関係・受けキャラの奪い合い・蹴落としあい、集団内で渦巻く嫉妬・痴情・横恋慕が複雑に交錯した群像的痴話劇。
恋敵を蹴落とし、踏みにじり、あざ笑い、結婚・出産・育児を経て恋人・妻・母の座を勝ち取る女の勝ち組みストーリーのフルコースの踏襲に、エロスとして過剰な性的興奮を覚えるのだ。男性のリビドーとはシステムが違いすぎる。
全く別のジャンルで当てはめてみよう。
その昔、巷のゲームセンターへは女性が全く寄り付かない時代があった。
ゲーセンが新商売であった1970年代半ば頃から'80年代にかけての時期である。業者たちもゲーマーたちも、"くらい・こわい"と女性たちに神経過敏なほど避けられるゲームセンターのていたらくを憂慮すべく、「どうしたら女性をゲームセンターに呼べるか」と、時節のたびに議論が交わされていた。
『パズルゲームやアクションゲームのキャラをキティちゃんみたいに可愛くしたらどうか』
『ゲームの画像をカラフルにしてみてはどうか』
『店内を明るく清潔にしたらどうか』
『高級感溢れるメダルゲームジャンルを充実させてみてはどうか』
……と言ったアイデアが浮上しては実施されていったが、どれも決定的にゲーセンにおける女性の居場所を確立するには至っていなかった。
ところが、'90年代半ばに、アトラス社とセガ社が共同開発した大型筐体「プリント倶楽部」が出現する。
最初男のゲームマニアたちからは、
『自分の姿を写真に撮ってシールにして何が楽しい』
『こんなクソ機械ゲームでもなんでもない!アーケードの風上に置けるか』
『こんなふざけた筐体置くくらいなら格闘ゲームやシューティングゲームの新作いれろ』
……等々、異口同音に総スカンであった。
しかし女性たちの間で徐々に「プリント倶楽部」の存在が口コミで広がり、いつしかゲームセンターの一角が、年頃の女性たちの人だかりによって溢れかえることになるのだ。
それどころか、'90年代前半の格ゲーブーム(ストU&バーチャファイター以降)と'90年代末頃の音ゲーブーム(初代ビートマニア)の狭間の時期における、アーケード低迷の氷河期を救うほどのジャンルブームへと化けていったのである。
"アクションゲームのキャラをキティちゃんにすればいいのかな"
ぐらいの思いつきが関の山だった男性次元の発想からは、自分や友達をモデルの如く可愛く演出・可愛くグッズ化してくれるシール写真機における女独特の性の恍惚など、微塵も思い描けなかったのだ。
閑話休題、このプリクラの逸話をアダルトビデオの例に当てはめてみよう。
アダルトビデオを女性に受け入れてもらいたいなら、スクロールシューティングや格闘ゲームなど男性向けのゲームとは全く発想も根幹も性質も異なる、[写真シール機]なる異色の筐体を、非難や嘲笑を押しのけてゲーセンに置いてしまうくらい、全く次元の異なった発想でAVを撮るべき、ということだ。
おたくの女性たちは、なぜあのような[やおい・ボーイズラブ]をオナペットにできるくらい悶えるのか。それを鑑みれば、AVのみならず、様々な業種の商品に変革的なヒットセールがもたらせるはずである。
[やおい]は日本の経済も情勢も、いやもしかしたら世界をも変えうる、ビッグバンやホワイトホールの如く爆発的な可能性を秘めた、女性という欲深なイキモノの小宇宙なのだ!