私の主張 12

ー 故内田正人氏に捧ぐ,揚水発電の黎明期を思い ー

(2000/6/19)


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私事で申し訳なし,元関西電力建設部長内田正人氏の訃報を聞いて,氏の指導を密接に受けた者の一人として,当時の揚水発電所の黎明期を思い出しながら,一文を捧ぐ,いつか書き残しておかなければ,と考えていた揚水発電について。取り急ぎでメモが十分に手元に揃っていないので日付が曖昧である。今から31年前,1969年のある日,内田建設部長のお供をして,阿河俊夫副長(現西宮カントリー支配人)とともに,通産省の発電課(現エネ庁電力技術課)を訪ね,電力施設計画のヒアリングをしていた席上だと思う,内田部長は,「当社は純揚水発電所の開発に踏み切る」と静かに,居並ぶ通産省の幹部を前に言い切られた。実は当時社内でも,揚水発電所の開発については議論百出で,まだかなりの包蔵水力が残っている段階で,揚水発電所に踏み出して良いものかどうか,社内を2分していた。阿河副長や私が揚水発電所開発の急先鋒で,今後の需給バランスから見て,揚水発電所を作らなければ,とても供給を満たすことは出来ない,と言う意見に対して,多くの人は反対の立場にあった。内田部長も,我々の揚水派の過激な発言には批判的で,その日東京に着いても,内田部長が揚水に踏 み切っておられるとは,少なくとも私は知らなかった。それが突然,我々が部長の前で机をたたきながら主張していたことを,通産省に対して表明されたのだから,それこそ晴天の霹靂であった。今でも私は不思議だ,どうして部長は事前に我々に言わなかったのだろうか。


1.山また山を駆け回って揚水の素材探し


私は,昭和34年入社で,入社と同時に木曽川に放り込まれた。時あたかも黒四の最盛期で,そこに行くつもりであったが,同期の竹村陽一君(現ニュージェック常務)が黒四に回って,私は木曽川の現場に張り付けられた。工事中であった読書第2を皮切りに,三尾発電所,木曽発電所と都合5年間,木曽の山奥に住み着いていた。一生現場マンでもまっいいか,と思いながら働いていたが,昭和39年4月,突然に大阪の本社に呼び戻された。当時の水力計画課は,水力開発についての理論家が机を接していたが,内田んさんが東海支社土木課長で,「足立を大阪に帰せ」と主張されていたらしい。私の代わりに木曽に放り込まれたのが原田稔氏(現関電常務)で,彼も水力計画課で一人の専門家として既に足場を築いていたので,「そんな現場育ちの人間なんか役に立たない」と交代に反対したのが阿河俊夫氏と聞く。大阪に帰ったときは,皆私に冷たい顔をして,あまり相手にしてもらえなかった。辛い時期である。

当時水力計画課の筆頭に近い席で皆に睨みを利かせていた阿河さんは,電気事業連合会や中地域協議会の席で,他の電力の方々と揚水発電所について研究されていたが,当時の情勢は,米国のアリスチャーマー社が,可逆式ポンプ水車(発電機水車を逆転すればポンプになる)の適用範囲を落差400mまで広げている,との研究成果が出ており,400mならば相当の経済性を達成することが出来て,近い将来のピーク供給力の主流となる可能性がある,と言うことであった。原田稔氏を私の大阪転勤で取り上げられた阿河さんは,冷たく私を無視していたが,揚水を始めるとなると,使えるのは足立しかいないと言うことになったのであろう,ある日突然,「どうだやってみないか」と持ちかけられて,やっと大阪人の仲間に入れて貰うことが出来た。

このとき阿河さんがうち立てた原則は,最大落差は400mだ,大阪の需要を満たすためには揚水の位置は200km以内,と言う二つに加え,「何も大きな流域は必要ではないのではないか,小さい流域同士でそれを繋げばよい,水は工事中にためればよい」という,今から見ればコロンブスの卵だが,当時としては画期的な発想をしていた。事実,当時の揚水は,既設のダムを利用することで意見は一致しており,二つのダムを新たに作るというような発想はなかった。この3原則で走り始めたわけであるが,後に他の電力から「雨水揚水」とあざけ笑われる。当時の通産省は,鈴木篁氏が水力課長として指揮を執っておられ,今同様鈴木課長は水力エネルギー重視で,揚水を作るならば下池に十分なエネルギーをとれる混合揚水以外まかりならん,と主張され,東京電力はしばらく混合揚水に集中することになる。中部電力は,下に池が必要なら海だ,とばかり,紀州の南部に新鹿(あたしか)地点を策定して,「雨水揚水」とあざける中電に対して,「塩水揚水」と言い返していた。

さて,我々の作業は昭和39年の10月頃に始めたと思う。大きな地図に阿河さんの言うように200kmの円を書いて,その中に入る5万分の一の地形図を揃えて,400mの落差をとれるところがないか,虱潰しに当たっていった。これに5万分の一から分かる範囲で経済性をまずはじき,全部で100ヵ地点に絞り込んだ。そうしてこのうちから経済性の順番に40ヵ地点を選定して,この全40ヵ地点を現場で確認する作業に入った。10月に始めた作業も,この段階にはいると冬になっており,特に,琵琶湖周辺では吹雪にさいなまれた。積雪の中をスキーを履いて歩いたところもあったが,私はある程度スキーの経験者で,歩くことには不自由を感じなかったが,阿河さんなんかは,まず函館山スキー場で練習してから行くと言うことになり,いくら途中で待っても着いてこず,結局現場を確認したのは私だけ,という地点もあった。落差400mだから,大体山を直登りで400mのぼるのに1時間,というペースで,毎日毎日歩き回ったが,実に若かったと思う,29歳の年である。

行ってみると能勢の山奥にミサイル基地があったとか,琵琶湖を下池にして延暦寺の根本中堂を浸ければ良い地点になるとか,琵琶湖を海面と間違えていて落差が誤りだったとか,いろいろエピソードもあるが,今考えてみると,環境という言葉は出てこなかった。環境を厳しく言われ出したのは昭和45年頃と記憶している。この一連の作業の成果として着工した奥多々良木発電所の工事中に,上部と下部を連絡する道路を建設して,工事の終わり頃に,環境破壊の見本として多くの人が見学に来たことを思い出すと,当時の状況としては,逼迫する電力需給に対処するためには,根本中堂を水没させかねない勢いであった。「原生林は大切である」という新聞記事があって,あれっと思って切り抜いて当時の吉田登取締役(故人,後に関電副社長)との会議に見せると,取締役をはじめ皆に無視されたことを思い出す,これが後の挙原地点難航の源であったとは,当時殆どの人が気がついていなかった。

現地を踏査した結果,中には5万分の一の地形図が誤りではないか,と思われるものもあったりして,結局8ヵ地点を選んで航空写真図化をすることとなった。5千分の一で作ったわけであるが,当時航空写真からそのスケールの地図を作ることは,必ずしもまだ評価が得られていなかった。東大の先生方を巻き込んで,どのような補正作業を行えば使える代物になるか,研究した時代である。


2.1000億クラスの地点が陸続

私がこの作業の中で主張したのは,池の容量はある程度大きくしたい,と言うことであった。当時から需要のピークは8時間とされていたが,揚水発電所は夜間に水をあげるから,その時間と揚水の効率を考えると6時間対応が精一杯であった。しかし当時企画部の森さん(自動車事故で若くして故人)が,当時の統計手法を駆使して,土曜日曜に水を揚げて置けば日8時間対応は可能,との理論を述べられてそれに乗ったわけである。このためには月曜の朝には満杯にして置くわけだから15時間分の池が必要との計算になる。この考え方で具体的に地点を洗ってみると,6時間ぎりぎりに計画した方が経済性が良い地点と,少々池を大きくしてもあまり経済性が落ちない地点とがあることが分かった。ピーク時間は出来るだけ多く持つことが,もし揚水発電所の投入比率が増えても,出力が潜在化しがたいとの考え方で,私が大きな池を主張したような気がする。結局,この6時間の池と15時間の池の組み合わせで開発して行くというコンセンサスが得られていた。

我々がこの作業の結果で最初に目を付けたのは,京都府の芦生京大演習林の中に上部池を作り,これを若狭湾側に落として100万KWのピークを生み出そうとするもので,需要が逼迫しているところ,これを早急に開発するとの社内同意を取り付け,現地調査に入ったわけである。我々は,関電と京大は親戚だと思っていたから,この演習林の中にダムを造ることがそれほど困難ではなかろうと考えていた。ところが,時あたかも環境の嵐が巻き起こり,原生林の保護が大きなテーマーになってきて,その後の先輩たち,特にこの問題と戦われた近藤元関電専務(現近畿コンクリート会長)らの奮闘にも関わらず,未だにの目を見ていない。

この挙原地点の着工に失敗し,受給が逼迫している中,早急な手当が必要となり,市川と円山川の上流を結ぶ次善の策,奥多々良木発電所の着工が取り決められ,わずかな期間の調査を経て,昭和44年に着工に持ち込まれた。ここはたまたま堅岩地帯で,殆ど地質調査がなくても大丈夫だろう,と決を下したのは,横田潤氏(元関電建設部長,故人)であった。私も,現場の土木設計係長として木曽以来2度目の現場を踏むこととなる。この地点は,私は15時間として計画したのだが,その後,横田建設事務所長に3時間ほど食われてしまって12時間の池となり,その後増設によって,原田現常務や手塚現支配人の手によって食われてしまって,6時間にやせ細っている。関電に行くと,「足立さんありがとう,あんたが15時間にしてくれたから助かった」と言われるけれど,私は何もそのようなために15時間を主張したのではない。

その後,大河内や奥吉野があいつで着工,完成しているが,私はそれを見ることなく,ODAの世界に身を投じた。

何とも,単なる思いで話だけに終わって申し訳なし,内田正人氏の死を悼み,またいつの日か,当時の急激な経済成長と戦ってきた戦友たちと,当時を偲びたいと思っている。内田さん,どうか安らかに。 合掌。

以上

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