私の主張 19

「戦艦大和と乗員足立光男」を読んで
― 私の幼年期の戦争体験とダブらせて ―

(2004/05/22)


2003年7月26日,日本航空717便バンコク行きの機内,私は,嘗ては旧日本軍の死闘の場であった当時のビルマ,現在のミャンマーの電力を調査するため,その機上にあった。成田を出て1時間と少し,機長のアナウンスが何の感動もなく静かに響き渡る,「間もなく左手の窓から沖縄本島が視野に入ってきます。」。ぷかりぷかりと浮かぶ小さな白雲の群れの中,真夏の太陽に照らされた海面にそれと認識できる連波,何とも平和な沖縄の海の景色であるが,梅田義孝氏の書かれた「戦艦大和の乗員足立光男」の文書の存在を知った私には,58年前のその海面で,断末魔,のたうち回る戦艦大和の艦影が見える想いである。この記録は,「足立隼夫の主張」と言うよりは,かなり私事に属することで,しかも私の幼年期の戦争体験をつづったものであるが,これも既に半世紀以上がすぎた嘗ての大戦の伝承の一部と思い,ここに記録にとどめておきたいとの気持ちである。この記録の発端は,鈴木篁氏のご努力によるものと,更に,旧三高の同窓会誌に貴重な記録をとどめていてくださった梅田義孝氏に負うところが大きい,特に梅田義考氏には氏の書かれた貴重な原稿の一部を大量に引用させて頂いており,心からお礼を申し上げます。

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プロローグ

今年,2003年6月25日の時事通信は,「戦艦「大和」の最期、克明に=米で秘蔵写真・記録発見」のニュースを配信,「太平洋戦争末期の1945年4月、沖縄水上特攻作戦に出撃した旧日本海軍の象徴、戦艦「大和」が、九州南西沖で繰り広げた米空母艦載機群との死闘の模様を撮影した米軍側航空写真と戦闘記録が24日までにワシントン郊外の米国立公文書館で見つかった。戦史家の原勝洋氏が入手したもので、対空戦闘で世界最大の46センチ主砲を発射する大和の艦影が映し出された未公開写真もある。また、右舷に命中した魚雷が巨大な水柱を上げる生々しい瞬間や、爆煙に覆われてのたうち回る断末魔の姿が米軍機によって克明に捕らえられている。」と報じた。この配信を見た私は,ある想いから,私の運営するホームページに,次のような文を載せた(一部修正)。

「戦艦大和の記事が出たところで,やや私事に属するが,これも戦争に関する伝承なので,この場を借りて一筆,●明治39年生まれの私の父潔は,小学校に奉職していたために戦争に行っていないが,少し若かった父の従兄弟3兄弟は,3人とも戦争に行き,二人が戦死している,●その3兄弟は早くして親を失って,私の父が面倒を見ていたが,苦労して京都の第三高等学校に入った末子光男は,英文学を志しながら,太平洋戦争の末期に海軍に動員される,●海軍の幹部候補生になって英語を生かして暗号解読を担当していたが,大和の特攻出撃で出陣した,●父によると,特攻出撃に際して,幹部候補生は全員,呉で下船したが,光男は暗号解読のためか降ろされなかった,●最後の面会に行った父によると,光男は,日本海軍きっての大艦だから絶対に沈むことはない,自分が死んだら日本は負けたと思ってよい,と言ったそうだ,●間もなく光男の戦死の公報が届いた,父は,負けるのかなあ,と独り言とも付かず私に語りかけていた」

このHPの記事をきっかけに,思いもかけない話が展開する,その始終は,嘗て同じ海外の仕事に身を投じた鈴木篁氏のHPにまとめられているので,それをそのままお借りしたい。氏は,サマーセットモームの「人生はペルシャの織物のようなものだ!」を引用しながら,氏のHP,
http://www4.justnet.ne.jp/~tasuzu/info6h.htm
の中で次のように以下を繋いでいただいている。

「私は、足立隼夫のこの記事を読んで、三高生・足立光男と言う活字に何かどこかで見た記憶がかすかにありまして、色々探してみたところ、三高同窓会会報80号で梅田義孝(S19文丙)の寄稿を発見しました。そこですぐ、足立のHPの「電源開発情報掲示板」の次の様な記事を投稿しました。

「戦艦大和と乗員足立光男」 投稿者:鈴木 篁 投稿日2003年06月26日20時25分51秒
03年6月25日付け足立HPの前文に「−−−その3兄弟は早くして親を失って,苦労して京都の第三高等学校に入った末子光男は,大和の特攻出撃で出陣し−−−」とある。三高生・足立光男の名前をどこかで見た記憶があり探してみた。ありました。三高同窓会会報80号(平成6年)に梅田義孝(S19文丙)が、薄幸悲運の後輩足立光男の短い生涯のうち、戦死間近の動静とその背景について「戦艦大和と乗員足立光男」と言うかなり長い記事を投稿している。

「要約すると、光男は、苦学して昭和18年4月難関の三高文甲に見事合格した。しかしその秋には戦局急迫して文系学生の徴兵猶予処置が廃止され12月10日入隊と決まり、光男の三高在学はわずか8ヶ月であった。教育訓練によって彼は英語力とモールス符号の名人の名を欲しいままにし、戦艦大和が昭和20年3月29日15時呉軍港を出発、沖縄西方海面に向かうときに、彼の特技が実戦に必要欠くべからざるものとして選ばれて乗艦したのである。一機の上空援護もない無防備の戦艦大和は400機の雷撃機、約1000機の敵空軍の集中攻撃を受けて、戦わずして沈んだ。梅田は最後に、足立光男は入営当時三高一年生のため在学中死亡となり、同窓会名簿にその名はない。苦学力行して國に殉じた彼の名を三高の中にとどめてやりたいと切望すると、結んでいる。

「続いて、足立隼夫から、6月26日E-mailで次のようなお礼状が来ました。
「鈴木さん,光男の件,感激しました,ありがとうございました,●鈴木さんも三高と言うことは知っていたので,それでも随分年齢が違うので,関係はないなあ,と思っていました,●父潔は,長い間,「光男が生きていたら,今頃は京大の英文学の教授だろうな,」と残念がっていました,●本当にありがとうございました,書いてよかった,」

「又その後6月27日の彼のHPの前文に次のような記事が出ていました。
「一昨日,戦艦大和のニュースのついでに,私の父潔の従兄弟で大和ともに沈んだ足立光男の話を書いたところ,三高出身の鈴木篁氏(元通産省水力課長で今でもそのHPで水力開発の必要性を説き続け,多くの賛同者)からメールを頂いた,曰く,●「戦艦大和と乗員足立光男」の話はどこかで聞いたことがある,云々,●これは心から感動しました,まだ寄稿文は読んでいないが,鈴木さんに感謝,●あの当時,男の子を持つと,多くの兄弟が揃って戦死をしていった,光男も,次兄義男の遺骨を埋葬して後,三高から海軍に召集されたが,終戦間際,大和とともに沈み,その盛大な町民葬(今考えると5人ぐらいのまとめた戦死者の葬儀であった)に当たっては,小学生であった私が,遺骨を捧げて墓地まで運んだ,でも骨箱の中には灰はなく,光男が愛用して手垢の付いたコンサイスの英和辞典が一冊あるだけで,光男の遺体は今も南の海の深淵にある。

「この物語を聞いて、足立光男とは昭和18年、同じ校庭のどこかですれ違がっていたかも知れない。寮歌を歌っていたかも知れない。それが又畏友足立隼夫氏の血縁の人とは。この世は色んな縁で繋がっている事をしみじみ感ずる。・・・・」

私は,ミャンマーの旅から帰国後,8月半ば,お盆のまっただ中に帰宅して,鈴木篁氏がコピーしてくださった梅田義孝氏の「戦艦大和と乗員足立光男」と題した長文の寄稿を読むことになる。これは,梅田氏の「薄幸悲運の後輩足立光男の短い生涯」への想いがつづられて,私には胸に迫るものであったが,同時に,幼年期にあった私(昭和10年生まれ)の切れ切れの記憶をつなぎ合わせてくれる紡ぎ糸のような役を果たしてくれた,ああ,あれはあのときだったのか,と頷きながら,読ませていただいた。若くして逝った光男には,僅かに甥である啓二(熊本大学副学長)が残されているが,彼啓二も戦後生まれで光男とのこの世での接点はない,もっとも光男を愛した私の父潔もいないので,まさしく私しか,その思い出を持っているものはいないのである,それも切れ切れではあるが。ここに,梅田義孝氏や鈴木篁氏のご厚意にも報いる意味も込めて,私の幼年期の戦争への思い出の中で,「薄幸悲運の足立光男」を語ってみたい,手元には,親戚の古い写真帳からコピーされた足立光男の学生姿の赤茶けた写真がある。

1. 山陰の山奥で,勉学の鬼光男

梅田氏の文書の中では,足立光男は幼いときに両親を失って,「隣村の八鹿に住む伯母夫婦」に育てられた,とあるが,私隼夫にはこの人たちの記憶がない。おそらく私がまだ生まれないころの話だと思われるが,私隼夫が物心ついてからは,光男は私の祖母かずえの元で生活していた。そこは,円山川の右岸の支流で米地川の最上流にある山間の村落(今は,兵庫県養父市奥米地,となっている)で,私の家はそのまた最上流,円山川本流の養父町から4kmほどのところで,その途中に,梅田氏の文章に出てくる光男の故郷中米地582番地がある,この光男が私の祖母かずえ(かずえはこの中米地の出)のところに身を寄せていた場所は,通称は高中,正式には奥米地547番地である。田舎のことで大きな家であったが,更に私たちが「部屋」と呼んでいた離れがあり,私が物心ついたころは,光男はこの「部屋」で一生懸命勉強していたのだと思う,ちょうど梅田氏の文章にある「専検試験に合格する」直前であったのだろう,昭和17年,私隼夫が7歳のころだろう,私の父の勤務の関係で,祖母をここに残して,私たちは近くの町に住んでいたが,私たちが帰省すると,「部屋」から出てきた和服姿の光男がにこにこしながら迎えてくれた情景が残っている。今考えると,私の祖母かずえや父潔が,光男に残された財産を管理しながら,光男の成長を見守っていたのだろう,長兄実,次兄義男は既に応召していたのであろう,私の記憶には生きて復員した長兄実の戦後の人生しか覚えがない。

この「離れ」は,後に私の大学受験勉強の部屋となるのだが,そのときもまだ光男の遺品が数多く残されていた。もっとも目を引いたのは壁一杯の本棚に入った英語の原書の蔵書である。18歳ぐらいの年頃でどうしてあのように原書に囲まれた生活が出来たのか,大学生になっても読めない私の身と比較しながら,ほとんどに目を通された痕跡のある蔵書群,彼は専検試験の前にこれを読み上げたのだろう,それと同時に,それをあの田舎にあってどうして手に入れたのか,不思議であるが,光男の実の親が残した財産が,おそらく父潔の元で管理されていて,それがあれだけの蔵書となったのだろう,と勝手に推測している次第である。梅田氏の「末弟光男は郵便局に勤める」に対しては,私には記憶にないが,おそらく,郵便局を止めて専検試験に挑む決意を固めたころからの光男しか,私には記憶がないせいだろう。それと,これは後のことであるが,おそらく梅田氏の言われる「昭和19年12月25日全員(海軍の)通信学校卒業となった」時に送られてきた膨大なノートや教科書のたぐい,それは全く理解できない数字や記号の羅列で,「暗号の作成と解読論」の資料だったのだろう,長い間この「部屋」で主の帰りを待っていた。

一度か2度,この「部屋」に上がり込んだことがあるが,机に向かっていた光男の手元には,子供の私には珍しい製図用の精巧なコンパスなどが置かれていて,ノートには三角や円の製図が書かれていた,おそらく幾何の勉強をしていたのだろうが,後に父潔から聞いた話では,光男が「離れ」で勉強しているころに,早死にした私の祖父峯吉の墓石を作っていて,その墓石の上に掘られた家紋は,光男がデザインしたものだと聞いた,文系であったと考えられる光男は,このような幾何の勉強でも,才能を発揮していたものであろうが,58年前に戦死した光男の遺品となる家紋が今でも田舎の私の家の墓地に残っている,と考えると,思わず光男の意志を感じてしまう。梅田氏のあの文章が印象的である,「我ながら,足立(光男)の出自,生い立ち,よく調べられたものだと今は不思議です。何とか明らかにせねばと言う思いだったのですが,誰に何を聴いたのか,今は全く思い出せないのです。理系の人には非科学的,非合理的と思われるかもしれませんが,あれは足立(光男)が教えてくれて書かせたのだと,私は信じ込もうとしています。拙稿なくば,足立(光男)のことはやがて忘れられ,大和で戦死という公式活字以外,どこにも記録は残らぬはずです。」

2.次兄義男の戦病死

光男の長兄実が,また次兄義男がどのように出征していったのか,私には記憶がない。当時の「大東亜戦争」は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃で始まっているから,私は6歳,まだ幼稚園だったのだろう,かすかに,家の前を日章旗を振りながら多くの人の行列が通って行った情景が残像のように残っていて,周りにいた女中さんに,「何があったのか?」と聞いた覚えがある,答えはよく覚えていない。とにかく,この前後に光男の兄たちは出征して行くのだが,鮮烈に記憶に残るのは,光男の次兄義男の戦死である,当時,「戦病死」と言う注釈付きで呼ばれていた。ここのところは,梅田氏の寄稿の中に詳しい,引用させていただく。

「次兄は北海道で演習中に殉職したそうだ。両親のない兵士の遺骨は誰が引き取りに行くのか。育ての親か,兄弟か。結局,未成年だが実弟の光男に引き渡して貰う。戦死という白い遺骨箱での帰還が日常化したその当時でも,両親はなく長兄は出征中で次兄は殉職,その遺骨を抱く末弟光男の孤影は,里人の涙を誘ったという。」,私はこの文章を読んで,梅田氏はどのようにこれを取材してきたのか,誰がどのように梅田氏に語ったのか,それが知りたいと思うが,これは梅田氏に言わせれば,「あれは足立光男が梅田氏をして書かせた」と言うことなのだろう。このとき私は間近にこの光景を眺めており,今でもはっきりと記憶に残っているのである。梅田氏は,「遺骨の帰還が日常化」と書いておられるが,田舎町では,戦死者を出すと言うことは,まだまだその家族にとって誇らしい時代であった。

この一連の私の記憶は,深夜の父母の騒ぎから始まる。その日は何度か北海道の病院から「危篤」を知らせる電報が私の家に舞い込んでいた。夜になって私は寝込んでいたようだが,父と母が,本棚のそばで写真帳をひっくり返しながら,「病院も,もう電報を打つ以外に手がないのであろう」と会話している,見込みなしと考えて,葬式のための写真を探していたのだ,あるいは死亡の知らせがあったからかも知れない。あの当時の交通事情を考えると,心では焦っても誰も北海道まで駆けつけるだけの手段がなかったのだろうと思う。このとき光男はどうしていたのだろうか,あるいは私の両親と連絡を取り合って,どこかまで遺骨を迎えに行ったのだと思う,私の記憶は,遺骨の帰還の情景に代わってゆく。

私は着飾っていた,父親に手を引かれていたような気がする,養父町の一つ手前の和田山の駅まで列車を迎えに行った,戦病死した義男の遺骨は,2等車,今のグリーン車の車掌室みたいなところに,花束とともに飾られていた。誰かがそのそばに付き添っていたような気がするが,それが弟の光男であったかも知れない,光男はおそらく出来るだけ遠くまで迎えに行ったはずだ,まだ三高には入っていないと思うので,光男としてはまだ身分が安定しない状態で次兄の遺骨を迎えたわけで,悲しみも大きかったと思う。それに続く公葬(確か戦死者の葬儀は町村が執り行っていて,公葬と言っていたような気がする)は,家族にとっては晴れがましく,田舎町ではまだ戦死者の公葬は大変な行事であった。中米地の公会堂で一休みし,それから葬列を組んで山のお墓まで行くが,途中で遺骨を抱いた光男が後ろを振り返って幼い私を気遣った場面を鮮烈に思い出す,後ろから声がかかって,「光男さん,葬式の時は後ろを振り返ったらだめだよ」,それから3年後か,今度は光男の遺骨が同じ道を行くことになる。

当時の子供の私にとって,家族の戦死は晴れがましかった,戦死者だけはそのお墓に小屋が建てられ,その中に納められることになる,墨痕鮮やかに,「陸軍兵長 故足立義男」と書かれた真っ白な杭が,残像として残っている。

3.三高生の光男

梅田氏の文章にある,「昭和18年4月,足立(光男)は三高文甲に見事合格。難関をもってなる三高には,商業学校卒でさえ困難なのに,まして小卒の専検資格者はいったい何人受験して何人合格できたろう。毎年皆無では?三高に入学した足立を,三年生であった私は知るよしもなかった。」。昭和18年,私は8歳の国民学校2年生だったのか,前記の鈴木篁氏をして,「足立光男とは昭和18年、同じ校庭のどこかですれ違がっていたかも知れない。寮歌を歌っていたかも知れない。」と言わしめているし,「昭和18年4月」と言う時点でそれぞれの思いが,同じ一点に集中する,その僅か12年後,京大の吉田分校に1年間学んだ私は,やはり光男の幻影をそこに見ていたような気がする。

三高時代の光男について,私に残る記憶は,三本の白線の入った破帽(新入生なのになぜか学生帽は破れかけていた)をかぶった凛々しい光男の写真と,一時帰省したときの,父潔を入れた会話である。光男のあの写真は,いつまでも私のうちの写真帳に貼ってあって,今でもはっきりと頭には残っているが,実物は手元にはない。私がいて私の父潔が左にいて前に学生服の光男がいた,父潔,誇らしそうに光男を見ながら,「隼夫も勉強して三高に入るんだぞ」,光男は私を見ながら,「隼夫ちゃんは,もっと上を行くよな」。はっきりと光男の顔と言葉を覚えている。

ただ,このころか少し後であったと思うが,陸軍の少年用雑誌「若桜」と海軍の「海軍」が発刊されて,父に頼んで海軍を購読し始めた。「隼夫がこんなものを読み始めたよ。」と父が母に言っているのを覚えているが,何気ない言葉でも,今考えれば,自分の子供が軍隊にのめり込んでいく姿は,何とも寂しいものであったと思う。

梅田氏の文章を借りる,「かくして足立(光男)は海軍に入隊した,三高在学は昭和18年の4月から11月の僅か8ヶ月弱であった」。光男は,年齢から一般召集として海軍の水兵からスタートするわけであるが,出征の前,高中の家で開かれた家族による壮行会,出征当日,皆の見送りの中,万歳三唱,覚えているようでよく覚えていない。しかし,いずれにしても当時のことであるから,決して暗いものではなかったし,むしろ,「勇ましい」の雰囲気であった。

4.短剣を吊った海軍士官

足立光男が召集後,昭和19年1月31日未明,零下15度の旅順に到着して,「旅順方面特別根拠地隊海軍予備学生教育部」で基礎教育を受け,昭和19年7月10日,「咲き誇るアカシアの花の香りに包まれつつ,白手袋白軍装で隊門を出た」光男は,「数十人の特信要員と一緒に久里浜の海軍横須賀通信学校に直行した」と言う梅田信孝氏の記述で,正確な時点も含めた光男の動きを確認して,自分の記憶と照らし合わせながら,深い感銘とともに,梅田氏の寄稿を読ませていただいた。梅田氏は,光男を描写して,「足立(光男)は中背より少し低めで色白,がっちりとして口数は少なく,見るからに真面目そうで,がんばり屋の相十分だった。」と述べられているが,三高時代のほっそりとした感じの光男から,「がっしり」とした光男に変貌していったのであろう。

光男が私や私の父潔の元に帰省したのは,どの時点であろうか,梅田氏は,「横須賀に直行した」と書いておられるので,そのときではなくて,「昭和19年12月25日,全員通信学校卒業となった。(中略)足立(光男)は育ての親の住む兵庫県の山奥遠くへ,飛脚のごとく往復したはずだ。往復日数は(3日の)休暇にプラスされていたと思う。」と梅田義孝氏が述べているときだったのだろう。その前に20人ぐらいの海軍士官が居並んだ記念写真が送られてきて,父潔は誇らしげに我々家族に見せていた。そうして,海軍士官足立光男の実物が私たちの家に現れた,海軍にあこがれ始めた私は,神様が舞い下ったような錯覚に陥ったものである。畳にくつろいだ光男は,吊ってきた短剣を壁に掛けたが,それを手に取った私の父潔は「なんだ,これは自決用じゃないか」,と冗談を言って皆を笑わせていた。これが,私が生きた光男を見た最後となるのである。父潔は大和が出航する直前,もう一度会うことになる。

5.父潔,軍港呉へ,大和出撃

その後の光男は,梅田義孝氏の文章を追うと,「足立(光男)は,新米特信士官として,十数人の仲間とともに,連合艦隊第一連合通信隊大和田通信隊に配属され,」,「あれは3月中旬であったであろうか,通信隊に人事異変が起こった。傍受部の足立光男と同部ボイス班の(米国生まれ2世)川崎忠に戦艦大和への乗艦転勤命令が出た。」のである。このときの梅田義孝氏の文章は,私は平常心では読めないほどの感動を味わった,それは私たちの知らなかった足立光男の一挙手一投足を描写しているからである。是非ともここに引用することを許していただきたい。

「私たちは4人の壮図を激励して隊内で酒盛りを開いた。(中略)大和の出動は一種の興奮と緊張を引き起こした。酒の席で足立(光男)は,平常通り物静かで寡黙のようであった。いつもだが,たいてい私の方から話しかけるが,はっきり応答して少し笑顔を見せる。」,また,梅田氏は伝え聞いた話として,「大和は呉出向だから,赴任の途中で国によって母親に会える,と足立(光男)は喜んどる。」と書き,更に続けて,「私は足立親子の再会を好ましいことと喜んだ。同時に,乗艦を控えてどんな気持ちで会うのか,と切なく思った。足立(光男)は円山川の鮎が好きで,所望したそうだがそれはこのときか,任官時休暇の時か。季節はずれで口に入たろうか。」と最後まで光男の気持ちを推し量ってあまりある。

父潔は,確かに最後に光男に会っている,それは今までは,出航前の呉に面会に行ったとばかり思っていたが,梅田氏の文章を読むと,あるいはこの最後の赴任途中でどこかで会ったのかも知れない。出航前に,面会に行くなど,当時としては考えられないから。いずれにしても父潔は,大和出撃が決まった後で光男に会った,そうして,光男は父潔を慰めたのか,本当にそう信じていたのか,あるいは自分自身に言い聴かせていたのか,「大和は帝国海軍最高の戦艦だ,沈むことはないから安心してくれ,私が死んだときは日本が負けるときだ」,家族に当てた光男の最後の言葉が,父潔に伝えられるのである。

父潔は私に後で,「大和が出撃するとき,幹部候補生は全員下船したはずだが,光男は降ろされなかった,暗号の特殊技能のせいだろう」と語っていたが,今回の梅田義孝氏の文章から,父の間違いであることがわかった。降ろされたのは海軍兵学校出身の新任士官で,光男と二世で英語が出来た川崎忠は,最初からこの任務のために選抜されて行ったのである。

6.戦死の公報,海軍中尉の公葬

何月だったのか,暑い日だった,学校から汗びしょびしょになって帰ってくると,大きな高中の家の2階,農産物を始末していた祖母かずえが,声を上げて泣いていた。光男戦死の公報である。私も悲しかったが,もう軍国少年に育ちかけていた私には,少し誇らしかった。「私が死んだら日本は負ける」と聴かされている父潔は,複雑な気持ちで光男の戦死の公報を受けたと思う,「大和が沈んだのか」と言う疑問だったのだろう。その父潔は,自分を慰めるように,「司令部付きだったから,戦闘の早い段階で,司令塔で爆死しているだろう」と呟いた。

もう既に国民学校4年生で,「海軍」と言う雑誌の付録に付いていた予科練への応募用紙に書き込んで,年が大きくなって行くのを待っていた私には,光男の戦死はただ誇らしいばかりであったような気がする。そのころには戦死者の数が増えて,町で行う公葬は,一人一人でなく,団体葬であった。光男の公葬は,5人ほどの団体葬になっていたが,田舎町では「海軍中尉」と言う将校の公葬はほとんど例がなかった。5人の中で最右翼にまつられた大きな海軍士官の写真に,本当に私は感動していた。

葬儀が始まる前に,戦死公報のみで遺骨のなかった光男のために,父潔が,光男が勉強した「部屋」でコンサイスの辞書を探してきて,遺骨の代わりにしたような記憶がある。その白木の箱を抱くのは私の番であった。2年前に光男が次兄義男の遺骨を抱いて歩んだ道を,今度は光男が白木の箱に入って,私に抱かれて進んでいった。私は,今度は後ろを振り向かないように,慎重に進んで行った。


終わりに

今回のこの足立光男にまつわる話が,梅田義孝氏と鈴木篁氏の手で浮かび上がらせられたことに,本当に感謝している,偶然が重なって私の手元に帰ってきたのだが,梅田義孝氏が言われるように,本当は足立光男の霊が我々をここまで導いてきているのだろうか。鈴木篁氏からは,足立光男の生年月日をはっきりさせろ,とせかされているが,どうしてもわからない生年月日が,光男の人生と運命を示唆しているような気がする。

ただ,今回の梅田義孝氏の文章を読ませて頂いて,光男は短い生涯ながら,何度かこの世に生まれてきたことの幸せを噛みしめた時期があった,と私は考えて,その凝縮された人生を立派に生き抜いたのだ,と考えて少し安心している。それは,「働きながら独学に励み,あっぱれ専検試験に合格する」ときであり,「難関をもってなる三高文甲を専検資格者で合格した」ときであり,「旅順の士官教育を終えて,咲き誇るアカシアの花の香りに包まれつつ,白手袋白軍装で隊門を出た」ときであり,「通信隊で,妙に惹きつけるここ武蔵野に住んで,非番のときには戦争を忘れるほどだった」ときであり,「大和の出動に一種の興奮と緊張を引き起こした中での,壮図を激励しての隊内での酒盛り」での主役のときであったと思う。

「群青」の歌が戦艦大和を弔うものである,と言うのは,本当の話であろうか,あれを聴くたびに,浜辺に立って光男の帰りを待つ父潔の姿が浮かんで仕方がない。

合掌


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