第二十六号 ある老農夫の話
それは、まだ肌寒さの残る、冬の終わりの朝のこと。
まどろみの残るまぶたをこすり、羊の小屋を空ける。
子供たちは自立して家族を持ち、今は殆ど帰って来ることもない。
妻は今日もあの丘で静かに眠っていることだろう。
笑顔が花のような人だった。
彼女の微笑みを見ていると、何か春の空に舞う綿毛のように、
ふわりと心が軽くなるような気がしていた。
「随分疲れやすくなったわ、年かしら」
かわらぬ笑顔で言っていたのが、思い出される。
今思えば、それが小さな兆候だったのかもしれない。
けれども収穫の終わりのその日だったから、
お互い様だなと笑いあい、いつもと同じ夕暮れ、気づかず背中を向けた。
数日かかる町への仕入れの日。
とても久しぶりに、ささいなことでけんかをした。
彼女はあまり文句などいわない人だったから、
私も余計な意地を張ってしまった。
馬車の上から横目にすぎる、小さな赤い背中。
それが最後に見た、生きている彼女の姿だった。
白い花の香り。
黒い服の人々。
小さな手と大きな手。
何もわからぬまま日々は過ぎ、
気づけば彼女の庭に花が咲いていた。
そして、
感謝してもしきれないことを、毎日のように、見つけた。
つまらぬ意地や羞恥はどこから来ていたのか。
なぜ、たった一言、優しい言葉をかけてやることも、
最後すら、看取ってやることもできなかったのだろう。
私は。
私は。
ぼんやりと歩いているのを心配して、古い友人が訪ねてきた。
とても楽しい時間と慰めに、
もう大丈夫だと感謝を込めて言ったが、
少しずつ、少しずつ、罪悪感と思い出が心の中に降り積もっていくのを感じていた。
最近、私は少しおかしいのかもしれない。
何度情けなくも、涙を流しただろうか。
季節が季節ならば、仕事に、疲れに身をゆだねることもできたのだろう。
しかし、冬になり、考え事にふける時間が増えれば増えるほど、
彼女のいなくなった日に近づけば近づくほど、
とりつかれたように、私は彼女のことばかり。
夢を、見たいわけではない。
ただ、ただ、
…もう、一年だ。
いいかげん落ち着かなくてはいけない。
けれども、忘れようとすればするほど、
深くそれは染み込んで、
吐き出された白い息が、不気味に笑んだ。
幾たびも幾たびも、考えつく先は同じ。
夜の闇色をしたざわめく何かが、背中に忍ぶ。
風の音 海の香り 死神の誘う手
これではいけない。
これは、ただ自分の身を軽くするため、
これではいけない。
罪悪感から逃れたいが為の願いだ。
君に謝りたい。
ありがとうを言いたい。
いや、目の前に立ったら、また、言えずにいるだろうか。
そうだね、私は馬鹿だから。
冷たい足先を引きずるように、よろよろと歩き、
気づけば彼女の眠る丘。
なぜ、あのとき、なぜ。
何度目の問い。
先には海に至る、崖。
ああ、すまない。すまない。すまない。
闇色の手が揺れる。
これではいけない。
羊たちの声が遠く聞こえた。
りん。
ふと、澄んだ音色が響いたような気がした。
りん。
目の前は風と海。
何も無いはずのそこに、
ふわりと、
少女が、
降り立った。
「こんにちは。」
そう微笑んで言った。
私があまりのことに驚き、何も言えずに佇んでいると、
少女は、その身にはどこか不釣合いな大きな緑のかばんから、
きれいな木綿の包みを取り出し、私に向けた。
「どうぞ。」
「‥‥?」
「この手紙を、承ってきました。」
宙に浮く少女
霞む目に飽和する光
私は夢でも見ているのだろうか。
「私に、手紙?
一体、そんな酔狂な人は、誰、かな?」
息子たち?僅かに残る友人たち?
どちらにしてもよい知らせではないだろう。
しかし、やっと出た言葉に返ってきたのは、
「奥様から。」
そんな返答だった。
奥様から。
ふわりと少女は大地に降り立った。
「…は」
「?」
「はははは!
妻は、妻はいないよ、ここには‥ここ‥。」
なぜ笑いがこみ上げるのだろう。
自分で自分がわからない。
ほら、少女も困った顔をしている。
「…どこにも?」
「…ああ。どこにも。
だから、何かの、間違いだろう。」
少女は、私の後ろへ流れてゆく。
彼女の墓。
まるで、慈しむように、
あるいは懐かしむように、
その石に手をすべらせると、
「ここに…?」
そう私に問い掛けた。
「そう…そうだ。ここ、ここに眠っている。だから…」
「…」
「だから、それは何かの間違いだ。 」
いたたまれなくなり、
背中を向けて歩き始めた私に、
「 いいえ。いいえ。これは月書簡ですから。」
何が不思議であるのだろうかと、そんな声で言った。
「?」
「月書簡、ですから。」
「月書簡…?」
「はい。奥様は、とても心配されていましたよ。とても。
誰が見ても落ち込んで、見ているのが悲しいと。」
「な、にを?妻が…」
「だからきちんと渡さないと、怒られてしまいます。」
そういうと、私の目の前に降り立ち、
「…私こそ、申し訳ないことばかり言ってしまった。
一言も告げられずに去ってしまったと。 」
「…な…なぜ…何が…どうして…それに…君は…」
混乱する私を尻目に、少女は少しまた微笑んで、
「…とても照れ屋だから、あまり表情が表に出ないで、怖がられてしまうけれど、
本当はとても優しい人だから、心配だと。」
「……そ、そ…んなこと、ありえない。いつの…いや、 何かの作り話かい?」
「いいえ!」
「妻が?いや、彼女は死んだ。もういない。私は…なにもでき…できなかった。 」
「…」
「大切だったんだ‥本当にとても。」
「…」
「けれど、日々の忙しさにかまけて‥私は‥」
「…」
「私は…
………
……………………………アンナ……」
何かが溶け出していくように、
私はとめどなくあふれる気持ちを抑えることが出来ず、泣き崩れてしまった。
その間も少女は何も言わず、静かにそっと空を見つめていた。
「…すまないね…情けないところを見せてしまった。」
「いいえ」
「ところで、君は…」
小さな思考を積み上げて、問う。
「君は、天の、使いなのか…?それとも…
いや…やはり、からかって…いるのか…?」
少女は、困ったような微笑みを見せ、
「いいえ。とてもまじめなことです。」
そうはっきりと言った。
「…なにも、わからない…」
「無理もありません。
けれども真実は、いつもそこにあるものでしかないのです。
私がここに立つように。 」
そういって、彼女はくるりと空を舞う。
りん、 と、また静かな音がした。
少女は、混乱しぼんやりそこにあり続ける私に、
やさしいその目を向けると、
再び空を見上げ、
「ああ、朝焼けが。
今夜は曇りになりそうですね…。」
そんな奇妙なことを言った。
「さあ、私にはもう時間がありません。
明日か明後日か、空から月の光の降り注ぐ晩に、
その光をこの手紙に当ててあげてください。」
「月明かりに?」
「はい。」
「いや、しかし、こんな…君は…」
「私はただの配達人に過ぎません。何も考えず、ただ行うだけ。」
「…」
「さあ、受け取ってください。」
木綿に包まれた、まるで月の形をした書簡。
手を出しかねている私に、少女はそっとそれを握らせると、
水のような、空気のような不可思議な感触が、手に滑り込む。
一瞬ふれた手は、とても冷たいものだったけれど
何もわからないまま、呆然と見上げた私に、彼女はにこりと微笑んだ。
心なしか、それは妻の、彼女のそれに似ていて…
私も、つられるように、
けれども、あたたかな気持ちで、
微笑んだ。
めー。
は、と気を取り戻す。
瞬きの先には、ただ一陣の風。羊の群れ。
眠っていた?
私は夢を見ていたのだろうか…?
かさり。
掌に残る感触に、目を、落とす。
月、書簡。
やわらかな色。
夢ではない。
耳の奥に、かすかに残る、
透き通る、この朝の風が歌うのにも似た、鈴の音。
土の上、ぱきりと涙のあとが笑った。
ぼやけた視界の中で、静かにそっと空を見上げれば、
朝焼けの日に空が色を取り戻していた。

(お互い不器用だったけれど、わたしはあなたと一緒にいることができて、とても幸せだったのよ)