ラハイナのメインストリート“フロントストリート”、
マウイの王様カメハメハ2世・3世の時代はハワイの首都として栄えた場所と知る人は、意外に少ない。史跡が31ヶ所もあり、史跡巡りも面白い。またラハイナの港は貿易港として栄え物資だけでなく外からの文化や宗教もここから入り、始まった。ハワイ王朝の歴史上とても重要な場所であった。捕鯨でも栄えた町である。今日では「アートの町」とも呼ばれたくさんの画廊、店、レストランが立ち並ぶ。マウイに来たら一度は訪れないと!!のんびり散歩がてら出かけてみよう。

観光に参加してみる?   ディナーに出かけよう!  上野さんのLAHAINA写真

 LAHAINA「昔はLELE・レレと呼ばれた」
 ハワイ語で「灼熱の太陽」の意味、ここはマウイの
 中でもとても暑い場所です。軽装で出かけよう。


カメハメハ大王による、統一王朝
クックによって、発見された当時のハワイは、各島が「アリイ・ヌイ」と呼ばれる世襲制の大族長が統治していた。一番強力だったのは、「マウイ島のカヘキリ」だった。彼は、ハワイ島を除く全てを統治するまでに力をつけていた。その後、「カメハメハ」は1790年に勢力を結集し、ハワイ諸島の統一支配に成功した。

カメハメハ大王について
有名な酋長アラバイの孫としてハワイ島で生まれる。カメハメハの生まれる前日、空にはココイキという星があらわれた。現在ではその星はハレー彗星と考えられている。そのことから彼の生誕は1758年とされているが定かではない。カメハメハとはハワイ語で「とても孤独な者」を意味する。その名前はある予言に関係している、彼が生まれるにあたり祭司はこう予言した。「この子は裏切りの子であり、いつか酋長を裏切るであろう」その予言を聞き、アラバイはカメハメハを殺すように命ずる。しかしカメハメハはひそかに育てられる、そのため幼年期から彼は孤独な生活を余儀なくされた、こんな環境の中で成長した。アラバイの死後カメハメハが酋長になりハワイ島の北半分を治めた。1792年、カメハメハ34歳の時戦争に勝ちハワイ島全土を支配下に置く。カメハメハには外交手腕があった。ハワイにあるビャクダンの木を輸出し、財をなしそのお金で火器を手に入れた。火器を手にしたカメハメハ軍に敵はなし、あっという間にマウイ、ラナイ、モロカイと手中に治めていく。1795年5月、有名なヌメア・パリの戦いでカメハメハ軍は火器にものを言わせ、あっという間にオアフ軍をヌメア・パリの崖まで追いやりオアフ軍を壊滅させた。そしてカメハメハはハワイ諸島全土を統一した初めての王となる。カメハメハには20人以上の妻がいた。一番愛したのはカアフマヌ女王。1759年5月8日、ハワイ島カイルアで亡くなる。(61歳)

カメハメハ王朝首都時代
イアオ渓谷の戦いに勝ったカメハメハ大王は、カアフマヌ王妃と共にラハイナに住む。1819年カメハメハ大王が亡くなると、カアフマヌでないもう一人の王妃の子リホリホがカメハメハ2世として王位継承、ラハイナを王国首都とする。1845年まで中心地として栄える。19世紀当初のこの土地は小さな田舎町で、やしの葉ぶきの小さな家のほとんどが現在の港ある場所に建っていた。まわりにはタロ芋畑や、砂糖きび’畑が広がる。ここにカメハメハ大王はカアフマヌのためにレンガ作りの二階建ての宮殿を建てる。(ハワイ最初の西洋風住居)(1802年の一年しか住まなかった。カアフマヌはここに住むことを嫌った)宮殿のそばには王家のために家が建ち、今のパイオニア・インのある場所は王族専用のタロ芋畑だった。

カメハメハ王朝の成立
1778年、ジェームス・クックという探検家が欧米人では初めてハワイを訪れた。当時、ハワイ諸島はいくつもの部族集団から成り立っており、部族間での争いが絶えなかった。カメハメハ一世は、ハワイ島の有力部族の首長の甥であった。カメハメハ一世は首長の死後勢力を伸ばし、1795年にはハワイ本島を完全に制圧し、ハワイ王朝を樹立した。 カメハメハ一世が他の部族に勝利した背景にはハワイを訪れた西洋人の協力があった。特に重要な人物はアイザック・デーヴィス、ジョン・ヤングという二人のイギリス人である。二人はカメハメハ一世の希望でハワイ島に居住し、大砲や銃の提供と共にその使用法を教えた。また、カメハメハ一世も、彼らに土地や高い地位などを与え優遇した。 その後カメハメハ一世は、1810年にハワイ全島の統一を成し遂げた。

カメハメハ三世の政治
1824年に位についたカメハメハ三世は、様々な改革を行った。彼は本格的な西欧近代化政策を取り、1839年にはイギリスのマグナ・カルタを手本にハワイの権利宣言を公布した。さらに、翌年にはハワイ初の憲法を設立し、これによりハワイに立憲君主制が成立することとなった。また、1850年には外国人が不動産を永久に所有することが認められた。そのため、白人移住者は次々と土地を購入し、1886年には政府が所有する領土の約3分の2までが彼らの手に渡った。土地を所有した人々は、大規模な砂糖きびのプランテーション経営を始め、1820年代から行われていた捕鯨と共に砂糖きび産業がハワイを支える産業となった。産業が盛んになったことを受けて、教会や学校が相次いで建てられ、文化的にも一層の西欧化が進められた。カメハメハ三世の改革は、白人の協力のもとにあり、彼は白人の官僚を多く雇った。その結果、白人達の勢力が強まり、ハワイは次第に民主化へと傾くことになる。

カメハメハ王朝の滅亡
白人がその勢力を増すなかで、最も力を持っていたのはアメリカ人であった。彼らは、ハワイを民主主義国家にすることを望み、王朝の縮小を求めた。しかし、カメハメハ四世・五世が目指したのは、これと異なるイギリスの貴族主義的君主制であった。カメハメハ五世は、1864年に新しい憲法を制定し専制的な政治をしたが、1872年に若くして死んでしまう。彼には子供がいなかったため、跡継ぎには王族のルナリオ王が選ばれた。ルナリオ王は、カメハメハ四世・五世とは逆に、アメリカ寄りの政策をとったが、在位一年で死去する。その跡を継いだカラカウア王は、アメリカと通商互恵条約を結び、アメリカへの依存度を高めていった。しかし、同時にアメリカ勢力を驚異と見た彼は、アジア・太平洋地域に同種族の連合を形成し、ハワイ王国を世界に認めてもらおうと考え、世界周遊の旅に出発した。彼はこの旅で日本にも訪れており、明治天皇に日本人移民の要請などをしている。その結果、1885年に日本人が移民されたが、あまり効果はなく、1887年にはアメリカ勢力によって強引に新憲法が承認された。カラカウア王の死後、彼の妹であるリリウオカラニ女王が王位を継いだ。彼女は王朝存続のために、ハワイ原住民の権利を取り戻す憲法を発布するなどの精力的な活動をみせたが、強大なアメリカ勢力には抗えず、1893年にはアメリカ勢力の暫定政府が樹立された。その翌年には、新しい憲法が発布されハワイ共和国が誕生し、1895年リリウオカラニ女王は王位を放棄した。これにより、百年近く続いたカメハメハ王朝は、その歴史に終止符を打った。その後、ハワイが正式にアメリカの領土として併合されたのは1898年のことだった。

キリスト教伝来と近代化
ラハイナが王国首都となった同年1819年、アメリカの捕鯨船が初めてハワイ諸島に来航する。1840年代ラハイナはアメリカ捕鯨漁業船団の基地となる。同時にアメリカ本土から宣教師たちがやってくるようになる。彼らは学校や教会を建て英語を教え、宣教活動に力を入れ、ハワイの人々は大きな影響を受け急速に西洋文化を取り入れる。宣教師の作った代表的な学校はラハイナルナ学院。(1831年開校)はじめは大人のための学校だったがだんだん小中学生のためのものとなり、現在は高校として残る。

クジラ捕りの街
1844年には326隻の捕鯨船がラハイナに入港、1846年には400隻がマウイにやってきた。(クジラは油、骨細工に利用された)1850年代がピークとなるが、石油発掘が始まると一気に後退する。これに代わってマウイの主要産業となったのが砂糖きびプランテーション。1860年にパイオニアミルが建設だれ世界各地から多くの移民達がプランテーションで働くためにマウイにやってくる。その後静かな港町となったラハイナだが、1962年ラハイナは、国立歴史保護地区に指定され、注目をあびるようになり現在に至る。

 

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