百字書評
Vol.1: No.0001-0050
Vol.2: No.0051-0100
Vol.3: No.0101-0150
last modified on 02/08/31
伊達綱宗に仕えた、椙原品を巡る鴎外の覚え書き。綱宗は十九才で家督を継ぎ、二十一才で蟄居を命ぜられ、実子亀千代と伊達騒動を純客観的に傍看せねばならかった。生涯付き添った品は怜悧で気骨ある女だった。(by Pal Mac:01/09/19)
ミルキ国では十八時になると全国民が30分間の音楽浴で、効率的な仕事が支配者に忠実になった国民によって成し遂げられていた。博士コハクの大いなる野望はそこに止まらず、ついに大統領との衝突に至ってしまう…。(by Pal Mac:02/02/23)
超短波長廻折式変調受信機から流れてくる手に汗にぎる異星「球形の世界」からの放送は「10分後に異星が消滅する」という衝撃的な内容。受信機の開発者天野祐吉は自身に降り掛かる危険を知らずに傍受しつづけた…(by Pal Mac:02/02/23)
杏の若葉越しに土間まで日射しの差し込む午後。突然動かなくなった柱時計をなおしてくれた唖の清二。迎えに行ったぬいは一緒に帰ってくるのが心配だった。言葉でできない気持ちの交流を灰に書いた文字に託す。(by Pal Mac:02/02/23)
お道は旗本へ嫁して四年。今年三つの娘お春を連れて、兄のもとへ。毎夜枕元に散らし髪の若い女が真っ蒼な顔をして現れ、お春は「ふみが来た、ふみが来た」とその名を叫ぶ。事件は半七の手助けを得て意外な結末に。(by Pal Mac:02/02/23)
弘法大師・空海が留学僧として唐に渡り帰国する事蹟(804-806)を追い、唐代の航海、運河、陸路の困難、都長安の様子を、東洋史家桑原自身の留学経験(1907-1909)を交えて語る、1921年大師降誕記念会での講演筆記。(by はまなか:02/08/31)
十三世紀、蒙古人は未曾有の世界帝国を築く。当時大陸を往来したマルコ・ポーロら欧州人の記録より、蒙古人の風習を紹介。例えば、蒙古人は極めて小食。飢えからの忍耐力が、戦争での機動力を発揮したとか。(by はまなか:02/08/31)
◆桑原隲蔵『東西交通史上より観たる日本の開発』(PC, Palm)0108
九世紀中頃アラブ人の地理書に記載されてから八百年間、日本は黄金国として世界に注目され、貿易で金銀を失った。しかし日本は外国文化を取捨選択し、自国に同化した。この和魂漢(洋)才主義を評価する。(by はまなか:02/08/31)
後世の儒家から暴君とされて来た秦の始皇帝を、客観的に評価する。悪名高い焚書坑儒を再検証すれば、焚書の損害は紙のない秦代にそれほど大きくなく、坑儒は不死の薬を騙った方士を処罰するのが第一義だったという。(by はまなか:02/08/31)
◆桑原隲蔵『支那史上の偉人(孔子と孔明)』(PC, Palm)0110
釈迦、キリスト、マホメットの予言や奇跡が伴うのとは違い、ただ人間修養の手本を示したのみで、後世崇められた儒教の開祖孔子、そして死ぬまで忠義を尽くした諸葛亮、二人の言行一致の高潔さを紹介。(by はまなか:02/08/31)
後漢の将軍で西域諸国を帰順させた班超(33-103)の事蹟、人柄としての魅力を紹介。わずか三十六人の手勢で匈奴の使節百余人を襲撃、その際『虎穴に入らずんば虎子を得ず』と部下を激励したのは有名。(by はまなか:02/08/31)
中国では太古から食人肉の風習が続いている。理由としては飢饉・戦乱による極度の飢餓状態のほか、嗜好、憎悪、病気治療などを挙げる。唐末黄巣の乱で、官軍は沿道の良民を捉え、食糧尽きた賊軍に売り払ったとか。(by はまなか:02/08/31)
◆桑原隲蔵『支那人の文弱と保守』(PC, Palm)0113
1900年前後、中国の近代化を阻む国民性を指摘する。軍人蔑視の気質を歴史的に検証し、『好鉄は釘に打たず、好人は兵に当てず』という諺を挙げる。また過度の保守尚古思想が原因で硬直化した社会となったと指摘。(by はまなか:02/08/31)
◆桑原隲蔵『支那人の妥協性と猜疑心』(PC, Palm)0114
1900年前後、近代化を阻む腐敗した社会を歴史的に指摘する。例えば、内乱鎮圧が徒らに長引く理由を妥協性とし、王朝の創業に功績のあった将軍・権臣が弾圧されることを猜疑心が強いからと指摘する。(by はまなか:02/08/31)
◆桑原隲蔵『晋室の南渡と南方の開発』(PC, Palm)0115
南北朝時代、北中国は異民族に支配され、多くの貴族が南中国に移動した。政治的には北朝出身の隋唐が統一するが、文化的には南朝が凌駕する。例えば、唐代の孔穎達『五経正義』では、南朝の註釈が採用された。(by はまなか:02/08/31)
印刷術、製紙法、航海術、火薬は、すべて東洋(中国)で発明されたと、一つ一つ考証を加える。東洋では惜しいことに、これらの改良が加えられず、西洋での改良進歩に屈することになる。(by はまなか:02/08/31)
◆桑原隲蔵『歴史上より観たる南支那の開発』(PC, Palm)0117
古代から近代に至るうちに、文化の中心が北中国から南中国のに移ったと力説。原因を北中国は北魏、金と異民族王朝をいただき、漢族の文化が停滞したとする。南宋以降の南北の文化の差は歴然としている。(by はまなか:02/08/31)
異民族の風習、辮髪が漢族に強要されたのは、金代まで遡る。それから元代、清代と辮髪を強制した。清代初め、江南の人々は強く抵抗し、幾千人の死人を出すが、中晩期には漢族は辮髪を重んじるに至る。(by はまなか:02/08/31)
男性生殖器を切除し、後宮で働いた宦官。皇帝の側仕えという立場から、絶大な権力を持ち、多くの弊害をもたらしたけれど、二十世紀初めまで廃止されなかった。中には明代の鄭和の如き華々しい事績を残した者もいる。(by はまなか:02/08/31)
五経の一つ書経(尚書)には、儒教の経典でありながら、孔子の思想と矛盾するものがある。それは、孔子以後、他の思想家との競争で、より古い篇を加え、戦国の各王にすり寄ろうとして覇王の篇を付けたためだと結論する。(by はまなか:02/08/31)
◆内藤湖南『大阪の町人学者富永仲基』(PC, Palm)0121
湖南の業績の一つに富永仲基の再発見がある。後出の学説ほどより周到なものになり、よって思想は発展するという、加上の原則を仲基が考え出したと、湖南は高く評価する。湖南自身、のちに加上説を中国学に応用した。(by はまなか:02/08/31)
◆内藤湖南『学変臆説』(PC, Palm)0122
「天運は循環するか、意うに其の循る所の環は、完全なる円環にあらずして、寧ろ無窮なる螺旋形を為す者たらん」、歴史も同じく螺旋状に変遷と主張。桑原武夫が講談社学術文庫『日本文化史研究』の解説で紹介する。(by はまなか:02/08/31)
◆内藤湖南「寧楽」(PC, Palm)0123
大阪滞在中、奈良への二度の古寺巡りを紀行文にしたもの。東大寺、興福寺、法輪寺、法隆寺を参詣、天平期、それ以前の飛鳥期の伽藍、彫刻絵画を目にしたことを記す。また、明治二十年代、汽車の旅の辛さも伝わる。(by はまなか:02/08/31)