ヒルトン(金山駅) |
▲画的には恐ろしく古い時代に見える写真だが、ウィリアムス'90年製「ワールウィンド」や「ノックダウン'90」がある通り、時期的には'90年代以降であることが分かる。実際の撮影は'92年である。2台筐体が並ぶポールポジションやスペシャルフォースにも万感が迫る |
▲ワールウィンドとリヴァーボートギャンブラーのプレイフィールド。哀しいことにワールWはサイドフリッパーが弱体化して全く使えない。一方リヴァーBは重要箇所すべてが稼働していたのでどうにか遊ぶことができた。しかしフリッパーラバーのテープ止めに店のメンテ姿勢が伺える |
●中区金山の《ヒルトン》は、ゴルフ場、パチンコ店、雀荘といった“遊技場”経営の明和興産を経営母体としたゲームセンター。 '80年代から'90年代半ばにかけ、金山駅前でもっとも貫録のあったロケーションである。 場所は現アスナル金山の西側。今では同社運営《大都会ビル/コムテックスクエア》に建て替えられている。 近年同社コムテックは一時期、収益低調なパチスロ店舗だった1Fを閉めて、写真シール機とプライズ専門のアーケードフロアに改装。 不景気に抗い頑張っていたものの収益には実らず、2015年にはコンビニにテナントを明け渡してしまった。 しかしそれでも2F・3Fのアーケードフロアは現役営業中である。 掲載写真の撮影は1992年の春ごろ。 この時のピンボールマシンラインナップは「リヴァーボート・ギャンブラー('90)」「ザ・マシーン〜ブライド・オブ・ピンボット('91)」「スペシャル・フォース('86)」「ワールウィンド('90)」の4台編成。 中でも、一度はバリー社を解雇されたデニス・ノードマンが、自分の首を切ったプレジデントが入れ替わってミッドウェイ系列となったのを見計らい、映画「ランボー」のピンボール企画を持ち込んで製品化したという逸話を持つ「スペシャルフォース」が、希少性という点で一頭地にマニアの目を引きつける。 しかし同店の整備状況はかなり劣悪で、残念ながらこの時すでに遊べる状態ではなかった。 ピンボーラー評価が非常に高い伝説作「ワールウィンド」の状態も重症であった。 こちらも漫然と手をこまねいていた訳ではなく、フィ―ルド図をメモに書いて異常個所を克明に記し、社長が女性ということもあり係員全員が初老のオバサンやお婆さんという独特の態勢を構えるお店側に渡して交渉してみたりもしていた。 しかし、“あらーごめんなさいね〜わたしとくわねー” と愛嬌よく対応してくれるものの、結局その後メンテナンスが改善される兆しは全く見えなかった。 どうしたものかと思案する中、'95年には閉鎖されて取り壊さてしまった訳だが、それでも「リヴァーボートギャンブラー」がまずまず楽しめる状態をとどめていたし、アミューズメントブーム隆盛期の'93年頃には「ホワイトウォーター」「ザ・ゲッタウェイ」「フィッシュテールズ」…と新台差し替えが花盛りに。 それに加えて雰囲気は非常にアットホームだったので、筆者にとってそれなりにいい思い出となっている。 晩年、なぜかそれは同社系列のどこにも入荷されていないのに「ノー・フィアー('95)」ピンボールのポスターが入口に貼られていたのは、何とも不思議であった。 ところで、今日ほどインターネットやSNSが普及しているにもかかわらず、'90年代・'80年代当時、大いに隆盛した各々ゲームセンターの写真を、文化的資料性にしろ追慕にしろ、ネットにアップロードしている人が、恐ろしいほどさっぱり見当たらない。 ヒルトンもピエロもキャロットも、せいぜい備忘録的なメモ書き程度しかヒットしない。 本当に誰もいない。当時通っていた店の撮影写真など、誰も残していないのだ。 例えばゲーム少年たちが、みんなで写真撮ろうぜイェーイっていう、スキーやサーフィンのサークルのような気風で無いのはよく分かる。 1人でお店にやってきて、テーブル筐体にぽつんと着席。黙々とゲームに勤しむ気質からして、そういうノリにならないのは深く頷ける。 でも、誰一人として、あれほど足しげく数年間、毎日のように通った地元ゲーセンの記念写真すら、1枚たりとも残していないなんて……。 '80年代前半頃の自分たちのことを思い出す。 ゼビウスの隠れキャラであるソルやスペシャルフラッグの位置に関する考察や論戦がコミュニケーションノートで交わされる中、 「キング&バルーンが10円で出来る駄菓子屋があるよ」 などと書こうものなら、 “何を今更、古臭い!” と皆に笑われて馬鹿にされたような時代の話だ。 「キング&バルーン」は「ゼビウス」より僅か2年前の製品である。 当時のゲーマーたちの気風と言えば…… “今月のベーマガCHALLENGE-HIGH-SCOREには誰の名が!?……畜生!またあの連中に1位をやられた!こんなのすぐ抜かしてやる!” ……とライバル視するグループ同士で角逐の火花を散らし、熱気が熱気を呼び、やがて多くのプレイヤー団体が林立。 全国あまたのゲームマニアたちが逆巻くような熱量と気概を放っていた時節。 しかし、ゲームの攻略やハイスコアより、そのゲームセンター一軒一軒こそ、のちに失われてゆく希少な文化そのものであるという考え方は、皆の脳裏にはよぎりすらしなかった。 当時の同人誌をひも解いてみても、したためられているのは図解攻略や隠れキャラ暴露、宝箱の出し方、女の子ゲームキャラのイラストばかりに終始しており、ご当地店舗の写真や自分たち自身の記念写真は、各誌揃いも揃って1枚たりとも残されていない。 “ナムコの新作は!? 次のコナミのシューティングは!?” “NG手に入れろ! 豆本入手しろ!” “新作ロケテストはどこだ!?” “隠れキャラは!? 隠しコマンドは!? 馬鹿野郎デマ広めんな!” “AMショーのチケットが! タイトーとセガのブースが!” ……などと、誰もが常に全身を最新情報で武装することばかりにひたすら血道を上げており、 「毎日いきつけるゲームセンター内部や外部の景観を写真記録としてとどめておこう。失われる文化として後世に残そう」 なんて考えは、つゆほどにも思いつけなかった。 その目の前の光景があと15年ほどで喪失されてゆくなど、誰もが思いもしなかったのだろう。 |
▲ピンボールコーナー脇には時代を感じる勝手口ガラス扉が。実は建て替えたコムテックスクエアビルにも全く同じ位置に勝手口がある。また、片隅の背後に写り込むレンガ造りの“トーカンマンション金山”はそのままの姿で現存している。 |