各名門ブランド ピンボール・リスト

Bally/1978

プレイボーイ

原題Playboy
製作年度1978年
ブランド名バリー
メーカーバリー・マニュファクチュアリング・コーポレーション
スタッフデザイン:ジム・パトラ/美術:ポールファリス
標準リプレイ点数不明
備考製造台数:18,250台/ようつべに動画あるよ!⇒GO!
▲バックグラス。Pファリスの重厚なタッチにより、プレイボーイ誌社長の酒池肉林ぶりが描かれている ▲プレイフィールド上部。ラビットヘッドとクラブキーのマークが実に洒落ている
▲5バンクのスポットターゲット。ラヴリーなカレンダーガールたちになぞらえてあって楽しい ▲中央スポットターゲットのアップをボールビューで。
▲プレイフィールド下部。アウトホールボーナスはムーディーな調べに乗ってカウントされる ▲スペシャルリットがかかるバニーガールの5バンクドロップターゲット

― COMMENTS ―
●'70年代のピンボール、特にIC化ソリッドステイト台の中でとりわけ最もコレクター人気が高い1作がコレ。
 一目見て悩殺インパクト強烈。かのヌードグラビア誌プレイボーイのコピライト台、バリー'78年製「プレイボーイ」であります。

 同じテーマの版権作なら、実写バックグラス流行時にリリースされた'89年のデータイースト版や、品の無い場末ストリップ劇場みたいなアートが不評だった2002年のスターン版の他、惜しくも完成しなかったウィリアムスPINBALL2000版もありましたが、なんといっても一万八千台以上という記録的製造ユニット数を誇るこのバリー版を抜きにしては語れないというもの。

 このモデル、フィールド構成やゲーム性に目新しさは無いものの、ドロップT,スポットT,トップレーンの完成でEx.リット、Sp.リット、アウトホールボーナス積立コレクト&マルチプライア、ポケットからトップレーンへキックアウトされるボールフローの重要性……等々、'70年代フィーチャーの路線が結実・成熟して完成へと極まった、至高の仕上がりを誇っています。
 特に、アウトホールボーナスを2万まで上げるとそれがホールドされ、以降ボール毎にビッグポイントがなだれ込み続ける大胆なボーナス制度はプレイヤーを燃焼させました。

 それよりも何よりも、当時プレイボーイ誌ヴァイスプレジデントであるヒュー・ヘフナーがプレイメイト達をはべらす、バックグラス画とプレイフィールドアートの煽情的で濃厚なインパクトこそ、世界中のプレイヤーの心をとらえた重心と言って良いでしょう。

 またピンボールのソリステ化に伴い、まだ単音ではありましたが、ムーディーな調べやウルフホイッスル(ねーちゃん色っぺぇな!ヒュッヒュ〜ってゴロツキが吹くあの口笛)を電子音で表現。コインインサートとゲームスタート時に奏でては皆を驚かせました。
 因みにそのジャズスイングチューン
 “あルンタ・ルンタ・ルンタ・ランタ・らんっ・らんっ・らんっ♪”
 なるメロディーは、ヒュー・ヘフナーがホスト役を務めたTVショー「プレイボーイアフターダーク」のテーマ曲が元になっています。


 ところで疑問がひとつ。あれだけ各州の法規制や迫害に苦しめられてきたピンボール業界において、ソフトコアとは言えポルノグラビアをテーマに、現役実業家やヌードモデル達を躊躇なく描くことに、当時社内で逡巡や反対の声はあがらなかったのか?ということ。

 いやいやさに非ず。当時のバリーには、「プレイボーイ」を大成させる自信と確証がみなぎっていました。

 これまで、バイクスタントアクションスターのコピライト作「イーヴルクニーヴル」から始まった同社のセレブリティシリーズは、どれも1万台前後ユニットのセールス記録を陸続と築き上げ、特にTVシリーズ「ザ・シックス・ミリオン・ダラーマン(600万ドルの男)」は、600万にかけて6人プレイ仕様にしたのが良かったのか、バリーは勿論版権元側へも顕揚と収益をもたらすことに貢献。そんな経緯がありました。
 これら来歴のサクセスこそ、この豪傑で大胆過ぎる“プレイボーイ”なる企画を実現化させる、多大な後押しとなりました。
 また当時のアメリカにおける性表現寛容化への動きやピンボールの大衆化なる時勢の手助けも、十分大きかったと思われます。


 美術班のポール・ファリスは同機種のアートを手掛けるに当たり、シカゴ市に居を構えるヒュー・ヘフナーの豪邸、いわゆる“プレイボーイマンション”内部へと取材に赴き、当時旬だったプレイメイト達を囲うヘフナー氏の豪奢な享楽ぶりを目の当たりにします。
 プール上がりにバスローブ姿で右手にパティ・マクガイア('77年度プレイメイトオブザイヤー)、左手にはソンドラ・セオドアを抱いてはべらす酒池肉林ぶり。
 その様子をそのまま作画したのが、バックグラスの絵だったという訳です。
 尚、向かって左奥には巨乳トップレスの少女とお婆ちゃんがきわどく入水していて笑みを誘いますが、これは同誌で36年続いた長期連載漫画「リトルアニーファニー」のキャラクターとのこと。
 Pファリスはリサーチと称し、絵が仕上がるまで繰り返し入館の許しを頂いては通わせてもらったそうです。さぞ楽しかったでしょうね。

 そんなファリスのお勤めの甲斐あって、「プレイボーイ」のアートはピンボール史上珠玉の逸品として今日まで礼賛に浴し続けることとなりました。
 前述の、煽情的でありながら重厚で気高いバックグラス画は勿論、プレイフィールド随所に描かれるラビットヘッドマークの愛らしさたるや。
 トップレーンに描かれる、高級クラブ“プレイボーイクラブ”入会者だけが持つことを許された鍵、“プレイボーイクラブキー”のセレブリティー感。
 下世話なエロ雑誌ではなく、プレイボーイブランドの格調高い優雅さが流麗に描出されており、これらの文句のない仕上がりにヘフナー氏もご満悦だったことでしょう。

 そんなプレイボーイのピンボールが完成したお披露目でもある、1978年11月開催のAMOA(今も存続するアメリカのアミューズメントマシンショーの大手)において、そのバックグラスのプレイメイトであるパティとソンドラがコンパニオンの役回りでバリーのブースに登板。
 この時彼女らのサイン入りで配布された同機種の大型フライヤーは、しばらくの間ピンボールマニアにとって値の張るコレクターアイテムとして垂涎され続けたそうです。


 さて栄華を誇ったプレイボーイマンションでしたが、その後ヘフナーがピンボールの街シカゴ市を去ってしまい、お屋敷も売りに出され、1984年からその館はシカゴ美術大学の学生寮へ変遷しています(現存)。
 その際高級家財道具も全て売り払われてしまいましたが、なぜかバリーから贈呈されたファーストプロダクションの「プレイボーイ」のピンボールは、寮に残されたままとなりました。
 入寮した学生たちは、なぜこんなものがウチの寮に?と首をかしげながらもワイワイとピンボールで遊んでいたようです。
 1996年の時点で、ピンボールの歴史家である故リチャード・ブッシェル氏が未だ寮内で現存するプレイボーイの筐体を確認していますが、この由来が何なのか、その場の誰もが知らなかったことを自著に記しています。
 現在その筐体の行方ははっきりしませんが、もしかしたら、寮のセラーか倉庫に未だ埃にまみれて眠っているかも知れませんね。

▲上部左端のキックアウトポケット。ボーナスコレクトは勿論トップレーンへ蹴り出されるボールフローがこれまた重要 ▲ピンクの色使いも悩ましいプレイフィールド全景 ▲中部右端ロールオーバー。一見対称側のポケット狙いのコースに見えるがさに非ず。バンパーヒットとトップレーンの往復を期待
▲バンパーとラビットはアダルトなモノトーン配色 ▲スペシャルとエキストラが点く星型ロールオーバーボタン。狙い打ちはちょっと難しい ▲スポットTバンクを真上から。
▲左リターンレーン付近のアップ。 ▲ウィットに富んだこのユーモア。筆者は幼少期にこのバックグラスの絵を見て爆笑した記憶がある ▲最後は右リターンレーン付近のアップで。

(2014年1月8日)