各名門ブランド ピンボール・リスト

ChicagoCoin-Stern/1980

クイックシルヴァー

原題Quicksilver
製作年度1980年
ブランド名旧スターン
メーカースターン・エレクトロニクス・インク
スタッフデザイン:ジョー・ジュースjr./美術:ダグ・ワトソン/メカニクス:ジョー・ジュースjr.
標準リプレイ点数不明
備考製造台数:1,201台/ようつべに動画あるよ!⇒GO!/各写真は吾妻社の店舗ネバーランドの許可を得て撮影

― COMMENTS ―
●1日やりこんだだけなので細かなフィーチャー解説は述べかねるものの、「クイックシルヴァー」はトップレーンとドロップTの完成が勝負を握る、当時のトレンドに従順的なゲーム編成で、なかなか時節の雰囲気が楽しめる旧スターン台でした。サウンドやアートも時代的な洗練が進んでいます。

 それ以上に稼働も状態も大変優美だったことに感嘆しきりで、その磨かれたようなアートとサウンドにはほれぼれと酩酊。この辺は流石《ネバーランド》の管理と言ったところ。


 ところで、せっかくシカゴコイン設立時の資料が出てきたので、走り書きですがメモ代わりに書き留めておきましょう。



 ピンボールビジネスにおいてもっとも手広く多角的にこなした奴らと言えば、ゲンズバーグ・ファミリーだ。
 ゲンコ社(1930年代におけるゴットリーブ,バリー,ミルズに比肩するピンボールメーカー最大手)設立のルー、メイヤー、デヴィッドの3人と、シカゴコイン創業主である末っ子サムの4人兄弟。

 サムも当初ゲンコに籍を置いていたものの、やがてセールストークの才覚に長けた義理の弟サム・ウォルバーグと意気投合、さらにルー・コリンが加わり、この3人を発起人として“シカゴコイン両替社”を立ち上げて兄貴たちの会社から独立。
 当時のお兄ちゃんたちのゲンコ社新工場と、シカコリバーを挟んだだけの目と鼻の先。そんな場所にオフィスを構えたシカゴコインマシンエクスチェンジ社は、こうして旗揚げが始まったのだった。

 トレンドとテクノロジーをすぐに取り入れて、尚且つ安く大量に捌け……というゲンコの経営哲学を、やがてサムたちもシカゴコインとして踏襲してゆくことになる。
 ピンボール史上、最初で最大の勃興を呈した怒涛の1930年代。彼らは唐突に膨れ上がった巨大なコインマシン及びピンボールビジネス市場の急先鋒へ、日々食らいつくようにして精力的な仕事をこなしていった。

 ピンボールビジネス参入は1932年9月で、
 “古くなったピンボールマシンを、格安手数料でゲンコ社のピカピカ新機種と交換しますぜ!”とか、
 “あの大人気作「ミルズオフィシャル」や「バリーフー」のハイスコアカードキット登場!常連客に贈呈して喜ばれよう♪”とか。
 初期にはそんなピンボール産業の間隙を縫うようなご商売だったようだ。

 両替機専門業者から中古ピンボール商、他社ヒット作のプレミアムカードやリウォードカードの発行(rewardって書いてあるからどうやら換金や景品の取引もできたのだろう)という来歴を歩んでいたサムたちだが、元々ゲンズバーグ一家はシカゴに移る前にアイオワ州でコインマシン商を営んでおり、各地域のロケーションの気風や性質は熟知していた。

 イリノイ州のオーロラで営業していたある日。家族経営でピンボールをガレージ製造していたストナー社ファミリー(得点ライト表示バックグラス初考案メーカーとしても有名)に出会い、ゲンズバーグ達はU.S.国内のディストリビューターとして彼らとの独占契約にサインアップ。
 1933年シカゴのマシンショーでのシカゴコイン社ブースには、ストナー製ピンボール「オーヴァル・テン」「リージェント」「ウォルドーフ」「アンバサダー」などの出品作がずらり。
 しかもジュニア、シニア、スタンダード、デラックス……と各ヴァージョン違いも細かに手掛けて小賢しく頭数を増やすという政略により、2社分のブーススペースを独占。商品の豊富さと賑わいぶりを演出した。

 同年夏には両替機専門業者のような社名だった“シカゴコインマシンエクスチェンジ”から“シカゴコインマシンカンパニー”へと社名を一新。ピンボールビジネスに専心してゆく姿勢を業界に示した。
 新生シカゴコインの第1号機は、ストナーレーベルの「ブラックストーン」

 ハリー・ウィリアムスのデザインによるパシフィック社製「コンタクト」によってピンボール業界における本格的な電気化が始まったのは1933年末頃
 シカゴコインのピンボールマシンが電気化したのは、それより少し遅れた1934年春のことだった。

 翌年の春、同社はようやく決定的スマッシュヒットに恵まれることとなる。それが約5700ユニット製造を記録した1935年3月発表の「ビーム・ライト」だ。
 プレイフィールドに電気ライティングを施したこのモデル。実は兄貴たちゲンコ社前年のヒットモデル「クリス・クロス」の模様やプレイフィールドデザインを真似たものだった。
 コピーキャットしながらも必ずオリジナルは超えるものを!というおのれらの指針により、左ホール、右ホール、中央ホールなどのプレイ戦況に呼応するカラフルライティングは、シカゴコイン独自の演出である。

 次作「ベース・ヒット」はライティングを多用し過ぎてあまりの高さに300も売れなかったそうだが、このシカゴコイン初のヒット商品に歓喜したサム・ゲンズバーグは、その収益でオールズモビルの高級車を購入。
 “この路線で我らシカゴコインは第2第3のビームライトを造るぞ!”と意気軒昂と息巻きながら新車を乗り回していたそうな。
 しかし、その後ビームライトのセールスを超えるマシンも比肩する商品も、同社から生まれることはついぞなかったそうである。

 シカゴコインと言えば兄貴たちゲンコに反旗を翻したイメージがあるが、上述のように実際には何かと要所要所でとても頼りにしていたことが伺える。
 しかし'50年代末頃。ピンボール及びコインマシン業界の低迷により、兄貴たちゲンコ社はピンボール産業から足を洗い、ラスベガスでのホテル業へと鞍替えしてしまう。
 一方シカゴコイン社は、後年サム・スターンにプラントを買い取ってもらう'70年代後半以降も含めると、50年以上の永きにわたり、アミューズメントコインマシン産業の一角を担い続けたのである。


(2013年4月26日)