各名門ブランド ピンボール・リスト

Gottlieb Pinball/1979

カウントダウン

原題Count-Down
製作年度1979年
ブランド名ゴットリーブ
メーカーD.ゴットリーブ&カンパニー/ア・コロンビア・ピクチャーズ・インダストリーズ・カンパニー
スタッフデザイン:エド・クリンスキ/美術:ゴードン・モリソン
標準リプレイ点数
備考製造台数:9,900台/同機種エレメカ版として'79年製「スペース・ウォーク」の存在有り
※ようつべに動画あるよ!⇒GO!
▲バックボックス。ゴードン・モリソンによるバックグラスアートワークは勿論、青色スコアディスプレイもゴットリーブ特有のもの ▲青色4枚バンクドロップターゲット。完成させると1枚五千点と化してリセットされるが、それ以上にボーナスXマルチプライアとEx.リットが重要
▲フィールド下部。アウトホールボーナスのカウントダウンと宇宙船離陸のカウントダウンが引っ掛けてある ▲色別に順繰られたボーナス倍率表示。この色の順番にドロップバンクを完成させなければならない
▲今度は赤色4枚バンクドロップターゲット。狙い打ちの際は位置が低いのでアウトレーンに気を付けて。 ▲フィールド上部。この時代には珍しくリエントリーレーンが無いが、それはそれでトップホールをどう狙うか、思慮を巡らせ戦略を練るのがとても楽しい
▲NASAばりの宇宙探索計画プロットがテーマなのに、まるで千夜一夜物語の如きエキゾチックな美女が登場する、このアートワークがとても秀逸! ▲こちらは上部右側バンクの黄色4枚ドロップ。すぐ脇と麓にはロールオーバーとショートフリッパーが。

― COMMENTS ―
●'70年代後半にピンボール産業へ波及したソリッドステイト革命は、決して突如目覚ましく巻き起こったものではなく、業界は鈍麻な反応を見せつつ不承不承重い腰を上げて着手した……という側面が無きにしも非ず。

 エレメカ・リールドラムユニット仕様からICデジタルへの遷移は、ビッグフォー各社おのおの非常に用心深く慎重で、且つとても緩やかなものでした。


 ピンボールのソリステ第1号機の先鞭をつけたのはゴットリーブでもバリーでもなく、1975年にビデオゲームメーカーのミルコゲームズ社が外部から持ち込まれた企画としてたった100台程度生産した「ザ・スピリット・オブ'76」でしたが、美術が稚拙でフィールドも真似事だった為、傾注に値するものとは目されませんでした。

 その後、まとまった工業製品ラインに乗った初のソリステ台としてアライドレジャー社「ロック・オン/ダイノマイト('76)」を発表。
 更に当時日本国内エレメカの雄であったセガも、同社初のソリステピンボール「ロデオ('76)」を繰り出します。


 『ピンボールの大手古豪達は旧態エレメカ体制の維持に頑迷で、新進若手ベンチャーが先んじてソリッドステイトピンボールの開発へ早々に参入した』
 ……という当時のムーヴメントの中でも興味深いのが、アタリ社のピンボール事業参入

 言わずと知れたコインオペ・ビデオゲームのパイオニア及び揺籃時代の寵児ですが、彼らは己らの技術がピンボール業界にも革命をもたらせることを確信、ピンボール部門を設立してワイドキャビネットのソリステ台「アタリアンズ('76)」を発表します。

 しかしビデオゲームの量産態勢ですら素人運営の手さぐりだったというアタリ陣営。

 ピンボールに関しては尚更付け焼刃だった技術者と、経験も無く若過ぎる従業員らによるマニュファクチュアリング力は脆弱であり、「アタリアンズ」はプレイフィールド設計もシステムボードも欠陥リコールという失態を招くことになります。
 おまけに仕入れた資材の合板が粗悪品だった為、オペレーターが箱と袋から出した途端に接着が剥がれて崩れ落ちる……という目を覆うような不良台をも濫造してしまいます。

 当時スティーヴ・リッチー兄貴の背中を追って高校卒業後に同社へラインワーカーとして入社、工場でアッセンブルを担当していたマーク・リッチーは、生産途中にもかかわらず見る見るうちに返品の山が工場内にうずたかく積み上げられてゆく光景を茫然と見上げたことを語っています。

 アタリがピンボール第1作目でオペレーターとプレイヤーの信頼を失ったのは致命的で、その後もバリー出身の技術者を招聘してコンサルタントを受けながら立て直しを図りますが、事実上'70年代末頃にはピンボール事業からの撤退を余儀なくされました。

 世は空前のビデオゲームブーム勃興の真っ只中。アタリの方が自ずとピンボール産業に見切りをつけて部門をクローズした印象をもたらしますが、そうじゃなかった。
 多くの老練なる技術者やクリエイティヴな異能者が集うゴットリーブ,バリー,ウィリアムスといった盤石な古豪相手に、思いつきの様に始めたアタリの若僧運営では歯が立たなかったんです。

 そんな若僧メーカーどもによるソリステ開発の苦闘を尻目に、大手重鎮メーカーたちは繰り返し試作台を慎重に開発しつつ、時には同じゲーム内容で旧態版とIC版の両バージョンを発表しながらも、エレメカからソリステへの仕様を緩やかに遷移させていきました。

 ピンボール業界が完全にソリッドステイト体制への移行を終えたのが1979年。中でも最後までエレメカ台を生産していたのが、案の定業界随一の保守派として知られるゴットリーブ社
 そのエレメカ作の掉尾「スペース・ウォーク」は有終の美を飾るに相応しい絶品の完成度を誇り、そのくだんのプレイフィールドとゲーム性はそのままソリステ版へとブラッシュアップ。

 それが今作「カウントダウン」なのです。


 一目で何を狙えば良いか分かり易くシンプルな作りでありながら、プレイヤーの戦略と腕前で深淵な奥行を見せるゲーム性の高さは、当時多くのプレイヤーが虜になりました(いや、アートワークの美女の俘囚になったのかも……)。

 覗きこんで思わず息を呑むシンメトリープレイフィールドの美しさ。

 ボールが両脇ラバーにバウンドする度にスイッチ反応でボーナスコレクトヴァリューライトが明滅するスリリングなトップホール
 これを仕留めるために「これぐらい?いやこんな感じ……?」とシューターゲージを図りながらプランジに挑む、スキルショットの重要さ。

 目にしたからには打ち落とさずにはいられない4枚バンク×4か所=総計16枚の4色ドロップターゲットの壮観さ。
 緑⇒黄⇒赤⇒青……と指定された色の順番にバンク完成しなければボーナス倍率を挙げてもらえないシビアさにも腕が鳴る鳴る。

 ドロップ全バンク完成でEx.リット、2巡目完成でSp.リットするのは、上部左右ショートフリッパーへリターンするロールオーバースイッチ
 ワンクッション狙いでまんまとしとめた時の嬉しいこと。

 とどめはトップホールによるアウトホールボーナス特大コレクトで、満額2万9千点に倍率ドン5X、14万5千点の高額ビッグポイントが、野太いソリステビーブ音のカウントダウンと共にドボドボとスコアカウントへ雪崩れ込み!もはや病みつき!

 加えるに、ゴードン・モリソンの筆によるバックグラス及びプレイフィールドの光彩陸離たるアートワークは特筆の珠玉ぶり。

 恐らく人間ではなく銀河の女神であろう謎の美女が宇宙船外から飛行士に艶やかな微笑みを贈る、あまりにもミステリアスで魅惑的なバックグラスに、しばし見とれて心を奪われぬ者はいないはず。

 同ゴットリーブ'71年製「アストロ」との類似を指摘するオールドファンも見えますが、本作「カウントダウン」はゲーム性・アートワーク共々、より洗練され、より彫琢され、より麗しく完成された、ゴットリーブ社ソリステ初期を代表する傑作となりました。

 当時は「キッス」やら「プレイボーイ」やら「未知との遭遇」やらと轡を並べるが如く、その雄姿を、屋上ゲームコーナーで。ボウリング場で。スポーツセンターで……。
 ロケーション各地でカウントダウンがとても良く出回っていた光景を、子供心にありありと覚えています。


 しかし、ピンボールを取り巻く時代の情勢は、うかれてばかりもいられない。

 ソリッドステイトという新時代を迎えたはずのピンボール業界でしたが、この後各社からソリステの秀作が出揃えば出揃う程、アーケードが活況すればする程、主役はビデオゲームへと抗えずシフトしてゆく理不尽さに、大手ピンボールメーカー達は真綿で首を絞められるが如く徐々に喘ぎ苦しめられることになります。

 ピンボールシェア縮小のカウントダウンも同時に始まっていたのね……なんて皮肉なんか、笑うに笑えない話。



▲上部左端にはEx.ライトがあるロールオーバーが。全ドロップを落として点灯するのはいいが、どうやって通すかが問題 ▲フィールド全景。両フリッパー間にセンターポストがあるので活用すべし ▲どうせなら全ドロップ2巡目もやっつけてスペシャルも頂いちゃいましょう
▲ドロップ後ろのシールド部分にも謎の美女が描かれる ▲最重要と言えるトップホール。ボーナス満タンにして、倍率もいっぱいに上げて、コレクトをリットさせて、さぁカウントダウン開始! ▲美術担当のゴードン・モリソンは150作近くのゴットリーブ台の美術を手掛けたピンボールアーティスト。今もコレクター人気が高い
▲意外にもゴードンはゴットリーブ専属ではなくフリーランス。デザイナーによっては何作も描いてもらってるのに一度も顔を合わせることが出来なかった者もいた ▲デザイン部門チーフのWナイアンズと同社マネージメント達が毎作囲うように打ち合わせを行っており、機密厳守が徹底されていたのもゴットリーブらしい ▲ゴットリーブとの独占契約が途絶えた後はノンクレジットで旧スターンのアートを手掛けていたモリソンだが、残念ながら2000年に肺癌で他界。享年70歳。

(2017年10月29日)