19世紀前半頃からフレンチバガテルはアメリカ庶民の間で手軽な娯楽としてゆっくりと浸透。
同世紀半ば頃になるとアメリカオリジナルの定番デザイン“チヴォリ”が確立。
そのバガテル人気を基盤に、鉄道の発展とサルーン及びパーラー文化の隆盛を経て、19世紀後半にはテーブルゲーム産業及びバガテル産業が活況を呈してゆく。
これらの隆盛はシューターの装置化及びコインマシン化の前哨となった。
兵士たちが持ち込んだバガテルは、次第にアメリカ西部開拓時代の社交場各所で馴染み始め、労働者の手軽な娯楽として遊ばれるようになってゆく。 一方、1830年代に入るとフランスやイギリスの権威あるおもちゃメーカー達は、流行のバガテルを最先端のゲーム台として商品化。 当時親しまれていたゲームやおもちゃの中では、盤面で動的なボールアクションを起こすバガテルというゲームは十分刺激的だった。 特にパーラー用のラージサイズバガテルは、サルーン設置の輸出用として、好んでアメリカに持ち込まれ続けた。 やがて1850年代に入ると、アメリカ産オリジナルバガテルの定番デザイン“チヴォリ”が流行のフォーマットとして確立。 底辺に0点アウトホールだけが待ち構えるのではなく、波打つ窪みのようなスコアリングポケットが並列。着地時には隣にまた隣に……とスリリングに跳ね回り、最後まで何点のスコアに落ち着くか分からない。 多かれ少なかれ必ず点数が入るそのゲーム性は人気を呼んだ。 但し0点フィーチャーも有り。チヴォリの台は2人用で、両脇にそれぞれシューターレーンがあるが、何も考えず思い切りフルショットすると相手側のシューターレーンへ逆走、凡ミスとして0点判定となった。 これはのちのケイリー兄弟社のコインオペレートマシン「ログキャビン」も同様のルールに則している。 ただ、このチヴォリの時点でスコア記録盤クリベッジボードは消滅。点数の計算はキャプチャーボール配点の目視で暗算するのが通念となった。 これらのフィーチャー及びルールは、当時イギリスのパブで流行っていたギャンブル用ラージサイズバガテル「コッカマルー」が手本となっている。 子供向けミニサイズホーム使用のおもちゃ版コッカマルーは算数の教材にも用いられたという。 このチヴォリ式バガテル及びビリヤードテーブルの流行を基盤とし、19世紀後半にはアメリカ各地でテーブルゲームメーカーが林立してゆく。 最も盛んだった地域のひとつはサンフランシスコ。 フィリップ・リーゼンフェルド社、J.G.H.マイヤー社、ジェイコブ・ストラール社、オーギュスト・ユングブルト社、J.M.ブランズウィック&バーク社らが同地区でしのぎを削っていた。 1845年創立、ビリヤード及びボウリング用品の名門として今も名が残るブランズウィック社も高名だが、質・多様性共に誰もが認める当時のトップメーカーは、そのサンフランシスコのフィリップ・リーゼンフェルド社である。 リーゼンフェルドの創立は1855年。僅か2名の従業員でのスタートだったが、「イングリッシュバガテル」「ジェニーリンド」「チヴォリ」「パーラーバガテル」「トップバガテル」等々の人気商品を切り盛りする最盛期の1882年には、30人程の社員を抱える程にまでなっていた。 同社のデザイナーはウィリアム・エヴァーズ。 アメリカ人の“プレイフィールドデザイナー”として名前が確認できる最古の人物で、彼の手掛けた1872年製「ジェニーリンド」の盤面には、何と回転ローテーションで役の変化が楽しめるリヴォルヴィングターゲットがあったという。 最もバガテルテーブルが遊ばれていたのは1850年代〜20世紀初頭頃までで、黄金期は1892年〜1902年。 この最盛期にはオハイオ州トレド市でサルーンも経営していたB.A.スティーヴンス社、同じくオハイオコロンバス市のボット兄弟社らが名を揚げる。 この時期はアメリカ大陸の鉄道網が既に盤石となり、他州や遠方への商品出荷・搬出が容易くなった時代。 ニューヨーク市、ペンシルヴェニア州のフィラデルフィア市やハリスバーグ市、メーン州リスボン市、ミズーリ州、アイオワ州でも各テーブルゲームメーカーが群雄割拠の如く続々と覇を唱えた。 バガテル以外のテーブルゲームや亜種も含め、1900年代初頭ぐらいまで、「チヴォリテーブル」「マンハッタン」「クロンダイク」「シカゴ」「ダイヤモンド」「セルフレジスタリングテーブル」「ノヴェルティーボウリングテーブル」、そして鳩の巣箱をスコアトンネルに見立てた「ピジョンホール」や、スパイラルランプレーンが独特な「パーラーキープス」といった定番台が、労働者のお手軽な娯楽としてプールホール市場で膾炙され続けていた。 ビリヤードやボウリングは今でこそルールもスタイルも正統的に固定されているが、当時はビリヤードテーブルもボウリングテーブルもバガテルテーブルも、室内用“パーラーテーブルゲーム”ジャンルとして自由闊達にクリエイト。 同一線上の娯楽として嗜まれ、サルーンなどの社交場で賑々しく遊ばれていたというのも興味深い。 そんな中、のちにピンボールのメッカとなるイリノイシカゴで「チヴォリテーブル」「シカゴ」「マンハッタン」をニューヨークと東シカゴで大量に出回らせたチャールズ・ラフスキーや、ボードゲーム畑出身でカラフルなアートデザインや独自のアイディアを繰り出したジャスパー.H.シンガーは、一地区を制した俊傑。 だが、何といってもスプリングシューターバガテルブームのエポックメイキングであり、産業全体をも確立し牽引したイギリス人のモンタギュー・レッドグレーヴによるMレッドグレーヴバガテル社なくしては、ピンボールとバガテル発展の歴史は語れない。 それについては次の章で御一読を。 |