ピンボールのルーツとして定説とされているのが、18世紀フランス発祥の“バガテル”。
ピンを倒す、穴に入れる、アーチを通す……等々いにしえから様々な地方で遊ばれていたありきたりな玉突き遊びが、フランス王族の余興と贅沢により凝った屋内テーブルゲームへ格段に進化。
それらを宮殿で賞玩し、日々新たなゲームテーブル作りを主導していたのが、ルイ16世の弟でギャンブル狂のアルトワ伯爵である。
アルトワ伯爵、のちのシャルル10世。ルイ16世の弟。 頽廃的な浪費家でギャンブル狂。フランス国王ルイ15世の孫として好き放題甘やかされて育った彼は、フランス王族の中枢で何をやっても許される王子様だった。 彼の建てた“バガテル宮殿”及び別宅のタンプル塔には賭博を楽しむためのゲームテーブルが溢れ、それは遊戯場専用の円形ブドワールから玄関まで陸続していたという。 バガテルテーブルゲームの出現が最初に確認されたのは、1777年のフランス貴族の園遊会“ローンパーティー”でのこと。 彼の計らいで出し物とされたバガテルに、招かれた貴族たちは熱中。忽ち上流社会のパーラーゲームとして大いに流行した。 アルトワ伯爵がバガテルテーブルの直接的な考案者や発明者では無かったとしても、バガテルを生み出す工匠たちにパトロンとして君臨。具体的な注文を与え、主導し、深く関わった人物であることは間違いない。 時は15世紀後半頃の時節にまで遡る。 この頃、屋外が悪天候でも室内で遊べるよう、貴族のスポーツ“グラウンドビリヤード”がインドア・テーブルボード化される。 最も古いフランスの記録では、ルイ11世の1470年の目録上に娯楽品・ビリヤードボール及びビリヤードテーブルの表記が残っているという。 当人も熱中していたというルイ14世(1638〜1715)の時代もビリヤードテーブルは王族と貴族の間で盛んで、1710年には6つのスコアホール周辺にペグの障害物を打ちつけた派生種「スコアリングポケッツ」が登場する。 この時点でバガテル誕生の萌芽が感じられるが、まだ台に傾斜や右脇シューターレーンが登場していない。 フランス王族ブルボン家ルイ・フェルディナンの息子としてアルトワ伯爵が生まれたのが1757年。 当時のフランス国はフレンチインディアン戦争に敗北、イギリスとの貿易を失った上に北アメリカ大陸の植民地を明け渡す末路を辿る。 財政赤字の回復と常任軍の復興が急務となり、労働階級への増税は庶民の貧困をより悪化させることとなった。 そんなフランス軍の立て直しに国民の血税を注いでいたルイ15世が1774年に天然痘でこの世を去ると、19歳の孫ルイ・オーギュストがルイ16世として即位。 その4年前の1770年に彼はマリー・アントワネットを妻としてめとっている。 そのルイ16世の弟が、アルトワ伯爵だった。 その享楽ぶりと浪費癖は王族の中でも突出しており、彼は18歳の時、国民が困窮に苦しむのを余所に自分専用の宴会と娯楽用途の宮殿を欲し、パリ郊外のセーヌ川を一望できる絶壁に城を建てさせるという軽佻な起案を通した。 その建造費は王である兄ルイ16世が負担。しかも義理の姉であり悪友でもあったマリー・アントワネットとどちらが自分の宮殿を早く完成させるかを賭けの対象とし、着工から僅か65日で900人もの労働者を昼夜兼行従事させた果てに、“バガテル宮殿/Chateau d'Bagatelle”を急ピッチで竣工させた。 その宮殿完成記念祝賀会として、ルイ16世およびマリー・アントワネットと共に7週間に亘るローンパーティーの余興としてお披露目されたのが、贅を尽くした豪華なギャンブル台、バガテルテーブルであった。1777年のことである。 それ以前からフランスやイギリス、北ヨーロッパ諸国を中心に、球を手で転がしたりスティックで打ったりしてピンを倒す、穴に落とす、アーチをくぐらす……等々の屋外スポーツや室内ゲームはとりどりに見られた。 例えば、 ボウリングの起源と言われる「ナインピンズ」。 そのナインピンズで面倒だったピンのリセットを省略すべく“穴”に挿げ替えた「ナインホールズ」。 円筒形の持ち球をボウリング球のように転がしてスコアアーチを狙う「トゥローマダム」。 そのトゥローマダムのキューボール版「ミシシッピ」。 ミシシッピとよく似た室内ゲーム「ロックスオブシリー(シリ―諸島の岩礁)」。 そして前述した通り様式がバガテルに最も近い「スコアリングポケッツ」……。 どの時代のどの国でも裕福層の間で発祥し得るような、玉突き室内ゲームがあまたある中で、アルトワ伯爵主導によるゲームテーブルは格段と斬新であった。 先ず盤面には勾配が掛けられており、右脇には今で言うシューターレーンに該当する固定的なチャンネルが存在。 そこにボールをセットして、キューまたはカーブスティックなどの道具を使って球を打つ。 打ち放たれたボールはトップのアーチ状ボールガイドに沿って滑走、動力の尽きたボールは重力によって木製ペグによるピンに弾かれながらスリリングに下降。 プレイヤーはスコアホールをダイレクトに狙うのではなく、隔てられる障害物と重力を念頭にボールシュートし、木製ペグに囲まれたいくつかある高得点ホールに入賞することを願う。 しかし、大抵は底辺の0点アウトホールへと沈む。 プレイヤーはそれぞれの色の異なるカラーボールを使用。交代でプレイした。 ゲームルールに応じてシュータゲイン、つまり今で言うエキストラボールフィーチャーもあったそう。スコア計算はクリベッジボードタイプの得点盤が用いられた。 これらゲーム性の原理。傾斜とペグとトップアーチとシューターによるフィールドの複雑化。運と才能と体得の絶妙なバランス要素によるスキル性に注目。 また、 フランス貴族の娯楽 ⇒フランス軍の娯楽 ⇒アメリカ大陸軍の娯楽 ⇒西部開拓前期アメリカ労働者の娯楽 ⇒西部開拓後期にスプリングシューター装置搭載 ⇒20世紀初頭のコインマシン化 ⇒1930年代のピンボール市場勃興及び産業化 ……といった、その後子々孫々のような伝承の連綿性も、ピンボールの発展へと直結している。 以上の特徴的ゲーム性とデザインと後世の継承により、このアルトワ伯爵が愛玩したゲームテーブルこそピンボールの縁起であり、初めて公に現れたバガテルである……と推断されている。 ここでもうひとつ、中世から近世にかけて似たような玉突きゲームが数多あった場合、何を以てピンボールの前身とみなすか、何を以て他種の球技と区別してバガテルと認識すべきかの骨子を挙げると…… ・ボールを用いた室内のテーブルゲームである ・フィールドに勾配が設けられている ・シューターレーンが右脇または両脇にある ・キュー、スティック、もしくはスプリング装置で球を打つ ・スコアホールを阻むようにピンの障害物が林立している ・各スコアヴァリューの複雑さと豊かさ ・19世紀のアメリカ庶民の娯楽へと浸透した過程が明確 ……これらの線引きがないと、中世ヨーロッパどころか紀元前や古代文明まで遡って何でもアリになってしまう。 現代のピンボールにとって、フランス王族発祥のバガテルとは何であるか。 それはこじつけられがちな古代エジプト・古代ギリシャの球技のような別次元の考古でもなければ他人の空似でもない。 由緒ある、直接的な血を引く祖先なのである。 さて、そのバガテル宮殿で繰り広げられるギャンブルパーティーで驕奢な日々に耽っていたアルトワ伯爵は、その後フランス革命時にイギリスへ亡命。兄たちが処刑された後も、意外や亡命先々の土地で永らく生き延びている。 臆病風に吹かれるとすぐ逃げ出す頼りなさは相変わらずであったが、愛した女性が亡くなった後はカトリック教義に忠信を誓い、自重した暮らしを送り始める。 ハンサムで快活、憎めない人懐こさで各地の王族に可愛がられながらも渡り歩き、スコットランドのエディンバラ、オーストリアのプラハ、現イタリア領ゴリティア……と先々を転々としていたようだ。 終焉の地となったノヴァゴリツァ市郊外の教会には、異国から町にやってきたプリンス様として丁重に葬られ、今も彼の亡骸が眠っている。 そう、私たちピンボーラーにとっても、アルトワ伯爵は永遠なるバガテルの王子様なのだ。 |