ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆バリー社/ Bally Manufacturing Corporation/1931〜1983,バリーミッドウェイ〜1988,WMSバリー〜1999

 レイモンド・セオドア・モロニー率いるバリー社1932年に記念碑的な「バリーフー」旋風を巻き起こした、ピンボール市場及びコインオペ産業の歴史的巨星のひとつ。
 戦時中の製造禁止命令に直面した'40年代、法律による弾圧と他エレメカジャンルとの競合、そして社長の急逝といった苦難の'50年代を乗り越え、スロットマシンの製造に重きを置いた'60年代を迎える。
 '70年代後半には流行カルチャーと呼応させるライセンス商法とソリッドステイト新機軸をピンボール製品に取り入れ、「プレイボーイ」「スタートレック」「キッス」等々により劇的なピンボールブームを世界規模で巻き起こして時のメーカーへと返り咲いた。
 バリー社自体は'83年に傘下のビデオゲーム部門ミッドウェイとの収益の逆転によりマネージメントが変遷、'88年にはライバルのウィリアムス社へ吸収、そして1999年にはウィリアムスのピンボール産業撤退によりとうとうバリーピンボールブランドも途絶えてしまった。
 しかし、遊園地、カジノホテル、アミューズメント機器販売代理店等々。世界中にバリーネームの会社や製品が今も尚息づいている。

― 解説 ―
 バリー社前半期のプレジデントであり創設者であるレイ・モロニーが手掛けたコインオペジャンルの裾野は非常に手広く、スロットマシン、ビンゴマシン、シャッフルアレー筐体、児童向け乗り物遊具、飲料水の自動販売機など、数多くの部門と子会社を手広く采配していた。

 '30年代バリー製ピンボールの代表作は「バリーフー('32)」の他、ホールに呼応した点数表示のシャッターが開く「エアウェイ('32)」、ピンボールのギャンブル化に着手した初ペイアウト台「ロケット('33)」、役の完成でフィールドに描かれたビルのライトが灯ってゆく「スカイスクレイパー('34)」など。

 元々カジノホールの管理人だったモロニーにとって娯楽は賭博ありきの意識が強く、バリー社はピンボールペイアウト化の先鞭をつけたメーカーである。
 しかしそれこそが、ピンボール産業への永きに渡る世間からの風当たりと理不尽な法律規制を招く禍根になってしまう。


 残念ながらレイ・モロニーは何の前触れもなく1958年に突然心臓発作で急逝、享年58歳でこの世を去った。

 放蕩者の息子レイ・モロニーJR.に大企業バリー社を任せることは出来ず、レイの親友でもあり、バリー社の敏腕セールスマネージャーだったビリー・オドネルがモロニー家と折衝の結果、1963年にバリー社を購入。新社長としてビルがバリーのフロントマンとなった。
 彼がバリー社の第2期黄金時代を牽引してゆくこととなる。

 尚、同時期にレイ・モロニーJR.は自家用機の墜落により、1964年に事故死している。


 ビリー・オドネル(本名はWilliam Thomas O’Donnellだが、ウィリアム・クリントン元大統領と同様に通名のビル,ビリーの名で親しまれている)は元々1946年にバリー社へ入社、パーチェイシングマネージャーとして戦時中停滞していたマニュファクチュアの軌道修正に奔走。
 1951年に前任セールスマネージャーだったジョージ・ジェンキンスが退いたのを機に、ビルがその役職を後継。スロットマシンとシャッフルアレー筐体の販売に尽力した。
 この頃からレイ・モロニーとビルは昵懇の仲となり、公私共々信頼関係は厚かったという。

 しかし前述のようにレイが'58年に急逝。バリー社全シェアのプレジデントをビルが引き継ぐこととなった。

 '60年代に入るとギャンブル法の改正によりシカゴ州でのスロットマシン製造が解禁。
 スロット装置の特許を所有していたバリーは同部門を大成へと導き、ピンボール製造との需要に合わせた良好な比率バランスを保ちながら、苦難と危急存亡に喘いでいたバリーの収益を一挙に好転させる。
 この時期オドネルはミッドウェイ社のファクトリー購入を決断、自社系列へと収める。注目を集めた同社の株価は更なる急上昇を遂げた。

 '70年代に入るとソリッドステイト革命がピンボール産業に進展をもたらし、IC化とライセンス商法の両輪により、バリーは他社を大きく突き放すほどの爆発的な収益を上げることになった。
 これはミッドウェイ部門が新たなるビデオゲーム事業へと参入する潤沢な資金繰りにも繋がった。

 特にエルトン・ジョン当人と彼のアルバムを大々的にフィーチュアした「キャプテンファンタスティック('76)」、ヒュー・ヘフナーとプレイメイトを妖艶に描いた「プレイボーイ('78)」、絶頂期の彼らを堂々たる主役に据えた「キッス('79)」は、世代を超えて今も尚人気の高い伝説的モデルとなっている。

 またスロット事業においては1978年にニュージャージー州でギャンブルが合法化された法的情勢も追い風に。
 この時期にオドネルは賭博施設営業免許を取得、現存するカジノホテル《バリーズ・パークプレイス・ホテル》とカジノ施設《カジノ・イン・アトランティック・シティー》を開業している。

 しかし徐々に重責がのしかかるプレッシャーに疲弊したビルは'80年代に入ると社長職を退任。バリー社の方向性は大きく変化してゆくこととなった。
 ナムコとの契約によるパックマンの社会現象的大ヒットの裏で、バリー製ピンボールの指針が大きく傾いて行ったのもこの頃である。

 1987年のオドネル業界引退を惜しんで、AAMAはニューオリンズのショーにおいて彼をマン・オブ・ザ・イヤーに選出。
 コインオペビジネスにおける彼の視野の広さと逞しさ、気取らない土着的な人柄は、多くの業界人に愛されたという。

 その時節、ビルは長年連れ添った奥さんニッキーに先立たれ、その後知己の親友でもあった友人エリーと再婚。
 イリノイ州ウィネットカとカリフォルニア州パームデザートの2軒の邸宅で、ガンにより1995年に死去するまで、エリーと共に静かな余生を過ごした。享年73歳。




翻訳,執筆中メモにつき飛ばし読み推奨
ホイッフルとバッフルボールのブーム及びコピーキャットは1年ももたず、消え去った。しかしバリーフーは新バージョン、マイナーチェンジ、改造キットやアクセサリーなども続き、初期エレキピンボール時代にまで残っていた。 レイ・モロニーは、バリーが確実に次の標的にされることを察知していた。ミルズノベルティ社が資金を出して裏で糸を引いているヒグビーとボイデンの訴訟は、法廷で粛々と裁判が進められていた。もし原告がA.B.T.に勝てばあとは芋づるのドミノ倒し。恐らくミルズの次の標的は俺かゴットリーブあたりだろう。奴らに負けて遡及してロイヤリティーを支払う羽目になれば、廃業するか、ミルズの言いなりになるかだ。  もし、今やってる裁判でABTが負けるようなことになってみろ。それを覆す唯一の手立ては、すでに裁判所の認可を受けていると思われるPaulin and Froom社のWHIFFLE特許第1,938,495号に対して、先行技術特許保護の弁護を行うことぐらいだろう。 ABT側の反論材料として用いられていたが、もうひとつ重要な材料が残っていた。ジョージHマイナーのバットゲームのボールリフト装置! サンフランシスコのジョージ・ハロルド・マイナーは1931年春、「BASE BALL」というバットゲームで第1,802,521号特許取得している。  尚マイナーはその後「オールアメリカンベースボール」の権利をハリーウィリアムスに売却し、それはロックオーラ製「ワールドシリーズ1937」に生まれ変わっている。  「BASE BALL」はピンボールではなくバットゲームだったが、特許の請求項のバット機能にはボールリフト装置を網羅していた。これだ! 更にこのマシンにはバットが備えられていた。当時はその価値が認められていなかったが、のちのフリッパーに該当するものだった。レイモロニーはこの特許の書類に目を通した時、ジョージマイナーが1928年8月14日(火)に特許を出願していた点に注目した。 アーサー・L・ポーリンとアール・W・フルームがホイッフルに関する、最初の不受理パテント出願の2年半以上前であり、WHIFFLE BOARD DELUXE特許第1,938,495号の出願の3年以上前。  マイナーの特許獲得も、1931年4月28日。ポーリン/フルームの発行日である1933年12月5日まで、さらに2年以上の差があった。  モロニーは、どんなに高くつこうと、このパテントを入手する価値があることにこの瞬間気付いたのだった。 一方ジョージHマイナーは自社アミューズメント・マシン・コーポレーションを設立したばかり。この会社を買収し、マイナーを役員にする。高い買い物だが、決断した。 デヴィッドロックオーラが語る。マイナーはとにかく取引が巧かった。業界で彼の名を知らぬものはいない。よくロスからシカゴにまで出張して、色んな大手に製品やアイディアを売り込む、営業の達人だった。彼の手作り試作台でカウンタータイプのギャンブル機種「4ジャックス」を彼から購入したが、正確な量産がうまくできなかったな。詳細までは知らないが、マイナーはバリー社と深く取引して契約していたようだった。 モロニ―はマイナーが持つパテントを手に入れるため、プライベートでももてなしてマイナーを懐柔した。こうしてバリー社は法律的な特許侵害の不安から保安できたのだ。1934年12月4日、モロニ―は2人のパートナーと共にConsolidated Patents Corporationという別会社を設立。バリー社のレーヴェンズウッドアヴェニュー4619住所を本拠地とした。この新会社の目的は、ライセンス権の保有、およびこれらのパテントと著作権の保護、侵害の告発。他の会社へ売ることも、共有することも、保護に努めて侵害者を訴えることも含む。 これによりConsolidated Patents社は、特許第1,802,521号の権利をBally社に帰依された。ジョージマイナーはゲームコンサルタントとして勤め、やがてチーフエンジニアとなり、バリー社になじんでいくが、仲間内の間ではどうも毀誉褒貶、賛否両論だった。 バリーの広報と宣伝担当のハーブ・ジョーンズはこう語っている。『私がジョージマイナーと初めて会ったのは1933年か4年ぐらいの頃。その時彼はピンボールではなくスロットマシンを売り込みに来ていた。トランプ柄の5リールだった。ただバリー社はこれを購入せず、同機種「ホールド・アンド・ドロー」という商品名でロックオーラ社が製造した。それからしばらくしてもロニーは彼をチーフエンジニアとして雇ってむかい入れた。スロット持ち込みの時は転居前レーヴェンズウッドの時で、マイナーが雇われたのはベルモントアヴェニューに転居後のことだったから、数か月後だな。」。 バリーは1950年代、日本でもおなじみの新幹線ゲームの元となったウォールマシン「スキルロール」も大ヒットさせている。発明者はドゥエイン.W.トレッスラー。Coin Game Deviceとして1955年6月28日付でパテント取得している。 https://patents.google.com/patent/US2711900 https://patentimages.storage.googleapis.com/14/33/65/db166587f96c3a/US2711900.pdf ノーランブッシュネルは「ポン」の試作機を当時バリー社へ強引に持ち込んでいる。100万ドルの前金を条件に売り込みをかけたが、断られた。“光の球を打ち返す?何が面白いんだ”と言われたそうだ。但し若造の無礼なアポの取り方にもマイナスがあったようだ。 https://patents.google.com/patent/US2068178A/en?inventor=Donald+E+Hooker&page=5 “自動キッカー”を発明したのはのちのバリー社デザイナー ドン・フッカー(ドナルドEフッカー)だと言われている。1934年7月「キッカー」がそれ。愛嬌たっぷりの人で、それに似合わずメカや電気の天才肌。ポールキャラメーリをはじめ、現場の皆から好かれていた。 ドンフッカーはロサンゼルスでラジオショップを営んでいた。営業の男がやってきて“より面白いピンボールを作りたい”と言って来た。(アリードが外部やる前から実現)。カリフォルニアで3,4台自作ピンボールを作ったけど、もう機種名も覚えてないよ。でも自動キッカーが完成した時、これはどこかに売れる、と確信した。 バリーはなぜジュークボックスを作らなかったか。レイモロニーは戦前、グレーな賭博機を作った方がよっぽど儲かる!と、ジュークボックス開発に興味を示さなかった。しかし戦後初期、レイに何か閃きがあったようで、レコード盤が傷つかないセレクトグリップアームユニットを開発している。しかし自社ではなく、懇意のエアリオン社が発売した。但しエアリオンは1950年代初めに倒産している。 レイモロニーはとにかく機知に富み、人たらしで、魅力的な好人物。ゴットリーブだけでは、ピンボールビジネスはここまで大きくならなかったと言われている。同業者やライバル他社からも大変に評判が良かった。1937年の1月。コインマシンショーが開かれたスティーブンスホテルのグランドボールルームで、彼を称える晩餐会が催された。業界の古株だが退屈な古老のリーSジョーンズ(コインピアノ業界の重鎮)とウォルタートラッチが延々長々スピーチ。参加者の中にはショーの疲れもあって居眠りする者も。それらが終わってようやくレイモロニーが壇上に。パーッと笑顔が愛らしいレイが一発ぶち上げた。『しゃべくりはもうたくさんだよな!後は飲み明かそうぜー!!』彼のスピーチはそれだけ。宴会場は一気に盛り上がったそうだ。 ピンボールIC化、つまりマイクロプロセッサーを搭載したのはミルコ社だが、実はその開発、バリーの指揮で、傘下のナッティング社開発陣により行われていたもの。 アタリ社コンピュータースペース、ポンにかかわったこと以外でナッティングの功績はあまり知られていないが、同社は'60年代末から'70年代初頭までクイズ筐体シリーズの大ヒットで大儲けしている。当時の社名はナッティングアソシエイツ社。 https://www.arcade-museum.com/manuf_detail.php?manuf_id=1558&orig_game_id=1637&sort=3 フィルム映写でプロジェクタースクリーンにクイズ文章や図が映写され、制限時間以内にA,B,C,Dの4択問題に答える。フィルムに記録されている符号で合否判定、得点記録。フィルムはシャッフルされ、毎回違う問題が出題される。チャイムやブザーの音も刺激的だった。 https://www.youtube.com/watch?v=zr98ASLdbZQ https://www.youtube.com/watch?v=oh2j3W6me-U http://allincolorforaquarter.blogspot.com/2014/07/the-pre-history-of-night-driver-part-4.html '68年製「IQコンピューター」、その2人対戦版「デュアルIQコンピューター」、ゴルフクイズに特化した「ゴルフIQ」、パットローラーが夢中になったという「ザ・パズラー」、当時著名だったプロボウラー ディック・リトガーからボウリングレッスンが受けられる'70年製「センソラマ」を発表。ボウリング場に設置、且つ知性やスポーツレッスン、学術に重点を置いていることが伺える。 ナッティング社はその後1971年にルウォーキー・コイン・インダストリーズ(MCI)となり、プロジェクション映写ゲーム筐体を数多く発表した。デザートフォックス(1972年)、レッドバロン、フライングエース(1973年)、Uボート(1972年)。現在のマウスの様な機能と操作方法を備えた「エアボール」、金庫破りがテーマの「ザ・セーフ」といったユニークなマシンも。これらの筐体はMCIとなってから入社したジェフ・フレッデリクセンがデザインした。ミネソタ州セントポールのセント・トーマス・カレッジで数学と物理学を学んだ後、3年生の時に電子技術者として空軍に入隊したフレデリクセン。 しかしゲームセンターのチェーンを店舗展開し始めたMCIの出資者と意見が衝突。再びナッティングの名前が付いた“デイヴ・ナッティング・アソシエイツ社”を立ち上げるのだった。 彼らがピンボールIC化プランに閃いたのがこの頃。トランジスタ購入先だったインテル社が4ビットマイクロプロセッサーを開発していることを知り、これはコンマシンビジネスの未来だ、最初の1機はウチに卸してくれ、と早々に押さえた。4ビットをピンボールに使い、8ビットはビデオゲーム開発につなげる!と。 ディストリ流通の関係でバリーの傘下となっていた彼らはバリーの「フリッカー」IC化試作機を完成させて、特許も取得。親会社バリーの譲与したのにもかかわらず、バリーは製品化を見送ってしまった。ポンの製造契約を蹴った時と同様、バリーはマイクロプロセッサーが支配する未来を予測できなかったのだろう。 結局デイヴナッティングとフレデリクセンはフーズボールメーカーのミルコゲームズ社でICピンボール第1号機を商品化させた。これが1975年製「スピリットオブ’76」 しかしバリー社初のマイクロプロセッサービデオゲーム開発はナッティング社だ。「ガンファイト」が第1号機である。その後、「シーウルフ」「トルネードベースボール」「アメージングメイズ」など、数々のビデオゲームを発表した。 1980年、若き日のパットローラーがこのナッティング社に入社している。 ウィリアムスがピンボール製造において1975年にバリーが押さえていた特許に抵触。和解や示談で収めれば良いものを、完全勝訴を目論んだバリーは裁判に発展させた。1982年のこと。 法廷で1975年当時の「フリッカー」IC試作機を倉庫から引っ張り出したが、眠っていた7年前のIC台なんかまともに動かない。仕方なく現行の部品を組み込んだが、ウィリアムス側弁護士に、バックボックス内にその新しい日付の部品があった為、“特許は無効である”という判決が下された。 晴れてウィリアムスはピンボール製造を続け、一時代を築いた。一方バリーは零落していく。 バリーフー及び歴史あるバリー社の命名が決定づけられたのは1931年のクリスマスシーズンのこと。レイモロニーは仲間たち2人と一緒に当時シカゴを代表するデパート《マーシャル・フィールズ》へ向かっていた。途中道端の新聞スタンドで、15¢のユーモア雑誌『バリーフーマガジン1931年12月号』を手に取り、これだ!と衝動買い。小脇に抱えて、また忙しなく歩き出した。この時モロニーは31歳になったばかり。https://willstraw.files.wordpress.com/2017/08/ballyhoo-1931-december-vol-1-no-51.jpg https://en.wikipedia.org/wiki/Ballyhoo_(magazine) レイモロニーは一時的なブームに終わるようなピンボール産業を永続的な産業へと導いた功労人である。 1931年から32年にかけての冬は、国の経済をも厳冬に極めた。大恐慌は日を追うごとに悪化。ハーバートフーヴァー大統領は“恐慌を引き起こした経済なら、やがて経済で復調する”と公言したものの、回復の兆しは一向に見えてこない。1931年末には、1億2,300万人のアメリカ国民のうち、800万人以上の労働者が失業。自動車の製造も販売も停止。さらに10万人が解雇され、デトロイトの労働者の3人に2人が失業、または非正規雇用にされてしまった。数ヵ月後には、全米の失業者は1,200万人を超え、労働者の4分の1が無職となった。 フーヴァーは自説と我流に固執、手をこまねいているばかりで効果的な政策を打ち出せず、1932年の大統領選挙ではルーズヴェルトに大敗した。 Raymond Theodore Moloney、レイモンド・セオドア・モロニーは1900年11月2日、オハイオ州クリーヴランドのアイルランド系カトリックの労働者階級の9人兄弟の大家族の元に生まれている。 父親ダニエル・J・モロニーJr.はクリーブランドの製鉄所の現場監督。 放浪癖のあるレイは17で家を飛び出し、ワイオミング、オクラホマ、テキサス、南カリフォルニアへと渡り歩いた。油田で働いたり、農業に従事したり、コックになったりもした。しかしルイジアナで道路工事に従事していた時、なんと10代の子を誘拐して強制労働につかせるギャング達に誘拐され、トラックに押し込まれた。友人らと共に間一髪逃げ出したが、その体験が恐ろしく、故郷に帰って父の製鉄所で働くこととなった。 しかしその時、妻となるカーメリアと出逢っている。レイの兄ビルとカーメリアの友人がつきあっており、まわりが引き合わせたのだ。出逢って数か月後、カーメリアは彼と結婚し、レイの人生を変えることになるのだ。 直後レイは失職。カーメリアの姉の夫がシカゴで職を得ているからシカゴに来なよ、と。それでレイとカーメリアはオハイオクリーヴランドからイリノイシカゴへ移り住んだのだった。 シカゴでレイモロニーは、妻の母の親戚である、ラルフ・コンガルの元で働くこととなった。 ラルフ・コンガルとジョー・リネハン(ジョセフDリネハン)という男たちと印刷工場で働くこととなった。やがてリネハンがその会社を買収。レイにパンチボードを担当させた。パンチボードの収益が良く、更にリネハンは小さなナイフメーカーを買収した。その時ナイフメーカーはミッドウェスト・ノヴェルティー・カンパニーとなった。リネハンは、この会社を経営してくれるなら権利の一部を譲与する、と持ち掛けた。そこからレイの経営手腕が頭角を顕わすことになる。 最初はパンチングボードの包装と出荷。この時チャールズAウェルドと出会う。彼はプッシュカードとパンチカードに精通した技術者。彼は人懐こくて明るいレイモロニーにセールスを一任した。この時モロニーは販売、マーケティング、マーチャンダイジングの見識をスポンジのように吸収した。20代でセールス部長となったモロニーは自信も付き、新ビジネス開拓への野望が生まれた。 1922年、シカゴのダウンタウン近くのエリー通り308番地にあるリネハンとウェルドの事務所で、パンチボードと広告専門のマーケティング会社を設立。この時“ライオン・マニュファクチュアリング・カンパニー”の名前で法人化。 この社名の由来であるが、大分前に同名の会社が自社用の封筒と便せんを発注したが、納品に来るはずがその会社は消滅していた。この大量に余った封筒と便箋が便利そうだったので、本当にそのまま名前にしてしまったのだった。セールスが軌道に乗ってくると、1925年には西エリー街310にミッドウェストノヴェルティーカンパニーの社長に就任。ナイフ、ヒップフラスコ(スキットル)、ビール樽クーラーといった禁酒法対策アイテム、更にカウンターゲームやワートリング社製スロットマインも販売も始めていた。 1928年に同社はジェームズ・T・マンガンを宣伝部長に迎え入れる。彼はすぐにレイたちから離れて長年ミルズ社の宣伝部長として君臨するが、このジェームズマンガンの手腕によりライオン社,ミッドウェスト社は業界でも知名度を急伸させた。 ミッドウェストノヴェルティー社は美術デザイン、製版、印刷全て自社でまかなえた。しかも前身ナイフメーカーや前身印刷会社の顧客住所録も最大限に利用。コインマシン関連の競合他社に忽ち追いついた。 1930年。29歳となっていたレイモロニーはすでに業界では名の知れたやり手の有名人となっていた。彼は1931年秋から蠢動する“マーブルゲーム”に参入する地盤は十分整っていた。 1931年の初めごろのクリーヴランド開催のコインマシンショーでは大した注目作はなかったのに、夏、秋には急上昇の4機種が出始めていた。 中でも注目株はビンゴノヴェルティー社の「BINGO」で、1931年10月頃には売り上げを急速に伸ばしていた。ゴットリーブは独占契約でビンゴを製造する約束だったのに裏切りにあい、製造不可能となった。そこでキーニーと共同で「バッフルボール」を開発することとなった。  その動きを察知したモロニーはゴットリーブと契約を結び、バッフルボールを大量にディストリすることになった。  しかし10月下旬になると、ゴットリーブの工場でのバッフルボール1日生産スケジュールは400台にものぼり、既に需要に全く追い付かない状況となっていた。 この時デイヴゴットリーブは、世話になっていた州外のコインマシンメーカー優先に卸す決断を下した。モロニーに配分する約束が破棄されてしまったのだ。人に裏切られたゴットリーブも、結局モロニー達を裏切ってしまった。  モロニーは派手な広告と宣伝を既に展開し、得意先から大量のオーダーを受注済みだった。しかし商品が来ない!では仕方がない。自分達でゲームを作ったろうじゃないか。 ミッドウェストの友人らにこのプランを持ち掛けた。しかしリネハンもウェルドも自分らは印刷業でコインマシンなんか造れない、とレイに訴えた。しかしレイモロニーはプランを熱弁して説得。資金を出し、ショップをマーブルゲーム製造施設にあてがい、受注分を仕上げ、来る1932年のコインマシンショーに出展する!という話に乗った。 チャーリー・ウェルド、ジョーリネハン、そしてレイ・モロニーは、ピンボールが一時的なブームで長続きするようなものではない、と思っていたので、先手必勝・やるかやられるかの一発勝負でやめるつもりだった。10万ドル儲けた時点ででピンボール製造はたたむつもりだった。 『レイモロニーが独自でマーブルゲームを作るって!?』顔が広いレイの仲間たちの間で話は広がり、トミー・グラントの紹介で、俺の試作品を見てくれ、とやってきた者がいた。カンカキーから来た2人組で、で話題沸騰のマーブルゲームの自作品をあちこち持ち込んで売ろうとしたがうまくいかない、作ってくれないか、って。そのうちの一人がビリー・デセルムである。彼らはグラハムペイジの大きな車を所有しており、その行動もシカゴまでの出張も早かった。 オリヴァー・ヴァン・テュイルとオスカー・ブルームが制作者。ただ彼らが持ち込んだのは盤面だけ。レイモロニーは2人との間で1台1$の契約を交わした。あまりレイには収益が無いように見えるが、テュイルとブルームはマーブルゲーム最新市場を徹底的に研究していた為だ。 レイモロニーはそれを大幅に改良した。先ず筐体を15インチ×30インチと大きくし、ボールのスピード感を出した。「この価格帯のコインゲームでは最大かつ最速のプレイフィールドを持つ!」と宣伝された。 15インチ×30インチ。このサイズが、その後何年もピンボール筐体サイズの標準となるのだった。 トップホールは[ダブルスコア]で、センターホールはプランジャーに戻るボールリターン。ゲーム性も優れている。 入賞ホール,アウトホールと同じ穴がシャッターボードに空いていて、コインシュートのプッシュロッドで全てのボールが盤面化に落ちてボールリセット。またバネでシャッターが戻って、ボールリフトにボールもスタンバイ。 この構造はあのオハイオ州ヤングスタウンのオートマチックインダストリーズ社が1931年4月以降に製造した「ホイッフル」と同じもの。当時の特許は空位だったのだ。アーサーLポーリンとアールWフルームによる修正再出願は1932年1月9日で、レイモロニーが1931年秋にバリーフーを開発した時はパブリックドメインのタイミング。 さらに前述の様に、人望のあるレイモロニーの元には優秀な人材、功名心溢れる活きのいい奴らが次々集結。シンプルなメカニクスの信頼性が、マシンの完成形が徐々に整えられ、ヴィジョンが見えてきた。しかしまだ商品名が決まらない。 レイは、試作段階のそのゲームボードを、インスピレーションを求めて肌身離さず持ち歩いていたという。 『商品名は単なる名前だけではダメだ。楽しそうで愉快で、キレがあって、生き生きしていて、新しくて今風で、皆に広まり易いもの。強いインパクトが欲しい!』 そしてその瞬間が訪れる。ある朝2人の仲間と逍遥していると、新聞販売店が、当時創刊されたばかりの色鮮やかな雑誌を並べているのが目に入った。 バリーフーマガジンは発行部数を急激に伸ばしている人気雑誌。バリーフー、バリーフー。これだ! 名前が決まった途端、一気に完成・発売へと自体が急上昇した。1931年の暮れ、バリーフーが世に発表されることになった。シンプルだが足しかなゲーム性があって、インパクトや訴求もあって、低価格。これがピンボールのスタンダードとなった。 即、大ヒット商品と化した。 レイたちの小さな工場に、雪崩の様な莫大な量のオーダーが舞い込んだ。一夜にして最大手メーカーになったのだ。厖大な量の材料を購入し、国内外に数百もの販売代理店を持つ組織の最高責任者になった。 1932年2月のシカゴにコインマシンショーが開催、出展する前だったにもかかわらず、既にバリーフーは大成功となった。 90日で10万$を稼ぎ出した。レイはリネハンとウェルドとの約束をきっちりと果たした。 当初はこれで十分、この事業はやめよう、と考えていた。 しかしレイモロニーは次の展開を企図していた。新しい会社を設立しよう。名前も、バリーフーから取ろう。需要がある限り作り続けるぞ! こうして1932年1月10日、ライオン社の一部門としてバリー・マニュファクチュアリング・カンパニーが設立。社長RTモロニー、副社長JDリネハン、書記兼会長にCAウェルド。3人が株主となって、ウェストエリーストリート310番地に新しいベンチャー企業が立ち上がった。当初ビルの2階はおがくずやゴミ、ゲーム盤などで雑然としていたが、しだいにレイの構想したマーケティング、製造、マーチャンダイジングの最適化が実現していった。 シカゴのコインマシンに備えて女工も多く雇い、工場で彼女らは真鍮のピンをバリーフー盤面に手で打ち付けた。検品に通れば、彼女らへの報酬は1枚当たり11¢。 その年のコインマシンショーでバリーはオートマチックエイジ誌による最優秀ゲーム賞を受賞。同誌32年3月号に、カップを受け取るレイモロニーと、セールス部長のジム・バックリーの写真が掲載された。 ペイントされた盤面に真鍮ピン。バリーフーの構造は確かなもので、新たなアイディアも盛り込まれていた。 また、“もしトラブルが起きたら、当社が問題解決を保証します。”とまで公言。バリーフーのオーナーは損益ではなく利益を与えなければならない。バリー社、レイモロニーの方針は健全で堅牢だった。結局トラブルが起きて大きな損害を被ったそうだが、投資や信頼の面では正解であった。 友人らやコネクションに恵まれていたモロニーだが、良質の設計で大量生産するにあたってはトップレベルで業界を管掌している人物が必要だった。そこで彼はジェームズMバックリーに声を掛けた。 (Patrick (Pat) J.Buckley 創業のスロット、ピンボール、ジュークボックスメーカーのバックリー社がイリノイシカゴで1929〜1958まで存在しているが、このバックリー一族? で、ジムバックリーなら全米供給の販路をもたらしてくれる。 製造管理は当時ラジオの名ブランドマジェスティックラジオの製造元であるグリグスビー・グルーノウ社の製造部長の指南を仰いだ。彼からパトリック・ミリエットを紹介される。 彼はラジオ産業発展期に、1日7000台ペースでのラジオ生産を管理した経験がある。 大量生産過程は彼の采配で可能となった。 一方、盤面の真鍮ピンのような、丁寧で正確な手作業が必要な部分もある。このピンの位置の正確さはゲームの進行上重要なので、マグネットハンマーを使う訳にはいかない。 プレイヤーのスキル、経験を重視したゲームなのだ。レイモロニーはこれをとても重視していた。 3番目に雇われたボブ・ブライザーは後にコインマシン業界を代表するセールスマンとなったが、この時のことをよく覚えている。 『俺は1932年1月28日にBallyに入社したんだ。時給は25¢だった。3番目に雇われた社員だったんだ。理由は夜間のセントラルカレッジ法学部に通っていたから。昼間働きたい。車が欲しい。父はシカゴのコービン・ファスナー社で働いていた。当時は大恐慌の真っただ中で、活路を見出そうと必死にテレアポを繰り返していた。エスカッチョンタイプの釘を扱っていた父。重さイポンドか2ポンドぐらいから販売してるけど、それ以下の小売りはしないよ、と言った父。しかしモロニーはこういった。1万ポンド売ってくれ!』 『驚いた父はしばらく考え込んでこう言った。どういうことだ。一体何を考えている?そんな父をモロニーは会社の奥の部屋に連れてゆき、2フィートもの注文の束を見せたんだ。それで話が進み、レイモロニーのところで仕事をすることになったんだ。現場監督はドイツ人のハンス・ステッドマン。彼が私に女工達を指導する現場の主任にした。女性たちはバリーフーに釘を打ち付ける作業を担っており、1枚検品が通ると11¢の給料となった。打ち付けた釘が盤面に対して垂直でなかった場合、不良品としてはねた。』 『イタリア人のメアリーっていう女の子がいてね。12,3枚横に並べて効率よく一気に打ち付けていたんだけど、打ち方がいい加減で、半分以上不良品として却下したんだ。怒り狂う彼女に、これが基準なんだ!と言い下すしてその場を立ち去ると彼女は激高。メアリーはトマホークマンの様にハンマーをぶん投げ、ボブの後頭部に直撃。気を失う程のケガを負わせた。但しその後仲直りしてお弁当作って来てくれたそうだ』 これだけ大急ぎでバリーフーを量産する必要があったのは、1932年シカゴでのコインマシンショーに間に合わせる為。以前からコインマシンのプロとして活躍し、大戦の退役軍人で、当時ロックオーラ社のセールスマネージャーだったビッグ・ジョーことジョー・フーバー、であった。デヴィッドロックオーラはそのショーの企画をさせる為にわざわざ休暇を与えた。 ショーの日程は、2月22日から25日の月曜日から木曜日までで、週末には業界関係社の盛大なパーティーもある。10日間の大イベント。 場所は、シカゴのダウンタウンにあるシャーマン・ホテル。同ホテルも共催社。ホテル側は、これまでの窮屈な部屋よりも広い展示スペースを約束した。 フーバーは、仕事の合間に貴重な時間を割くことを避けるため、1931年12月5日(土)に最初の企画会議を開いた。 過去、ピンボールがコインマシンショーで展示されたことはない。 委員会のメンバーはデヴィッドロックオーラ、アメリカン・セールス社のビル・グレイ、ヴァン・イクイプメントのJ.E.ヴァン・タイルはまだピンボール勃興の兆しに気付いていない。ただヴァンタイルはバリーフーに少な下らず関わりがあった。 一方アトラス・インディケーター社のL.B.エリオット、ゲンコ社メイヤー・ゲンズバーグ、シーバーグ社リー・ジョーンズ、ABTのウォルター・トラッチ、ODジェニングス社ビル・ライアン、ジャックキーニー、そしてデヴィッドゴットリーブには全員思惑と隠し玉を秘めていた。そして極めつけがレイ・モロニーなのだ。 フーバーはマーブルゲーム関係者ばっかりになるのを避けるべく、ミルズ社のヴィンス・シェイ、トム・ワートリング、エド・ペースを委員会に加え、更に、ミルズ後援の業界誌コインマシンジャンーナル発行者ドルファス・ドールニッグ(通称ドーリー)を加えて顔ぶれを広くした。しかし全員ピンゲーム関係者も同然である。 レイ・モロニーは『イリノイ州シカゴ市のモッドウェスト・ノヴェルティー・カンパニー』の名前でブースを押さえ、階段横西側壁沿いに10×10フィートのNo.10ブースを50$で購入。出展。北隣No.9はノースウェスト・コインマシン社。南隣No.11ブースはABT社。お向かいは2つ分の合併ブースのワートリング社だった。 各メーカーは自信作や新作を豊富に用意していたが、レイモロニーが用意したのはバリーフー一本槍の一点突破。 しかもデヴィッドゴットリーブは火曜日に優雅な“ルイ16世制舞踏会場”で講演を予定している。バッフルボール製造が追いつかないk事を題材とした『今我々メーカーが直面している問題』の公演予定。バッフルボールの無料宣伝みたいなものである。 レイモロニーにとって、これら全員が手ごわいライバルである。 ミッドウェストノヴェルティー社の広告やDM面ではビルボード誌のジャック・スローンを頼っていたが、今回のショーのバリーフーの為に広告担当者を雇った。 アルフレッド.E.フォックス。カーニバルやサーカスのショービジネス、セールスプロモーションやトレードショーの展示に精通。広告代理店や多数の会社での経験者。プロではあるがあまりにも節操なく手広いので、モロニーはくだんのビルボードの友人スローンに彼のことを調べて貰った。ファンシーダン(気取り屋、おめかしやさん)。 スローン『バリーフーはもっと派手やかに気取った広告及びアート、レイアウトで爆発的に売れるのではないか。そこで私はアルフレッドフォックスを雇おうと思った。週休150$から250$で高くつく奴だったが、大恐慌で値切ることが出来た。週休75$で雇った。これで収支は合うだろうと。』  彼の目論見は正しかった。レイは最強布陣のプロモーション人材をそろえた。2人は誰もが足を止めて聞き入るような広告キャンペーンやショーブースを考え出した。 『レイはプロモーションの天才だった。BALLYHOOは32年と韻を踏んでいたので、彼は第一次世界大戦の人気曲「Mademoiselle From Armentieres」の曲を使い、「What'll they do thru '32, play BALLYHOO」という歌詞に置き換えた!』 (1932年のシカゴのマシンショーには先駆け初ピンボールメーカーの2社も頑張って出展していた。 シカゴのイン&アウトドアゲームズ社「スポット・ボール」は'31年「フーピー・ゲーム」を発展させたもので、フーピーと共にブースNo.39に出展。しかし翌年夏にはピンゲーム事業から撤退。) ( オートマチックインダストリーズもホイッフルバード君をトレードマークにして参戦したが、元祖の一社なのに完全に取り残される形に。) (1935年頃のウィスコンシン州ラック・デュ・フランボーエリアにあるバウルダー・ジャンクションのShrimp's Tavernの写真に、スロットマシンの横にバリーフーが設置されている写真。ペース社のペースレーシズも確認できる。バリーフーはロケで何年もの間、遊ばれ続けたのだ。) レイとアルフレッド達は自社印刷工房で好き放題印刷したバリーフーのカラーチラシを前日深夜からホテル内を走り回って大量配布。 当日レイのブースは10フィートのシングルブースだがブース位の両端に回転する円卓の上に2台のバリーフー、左と右のファサードのパネルには"What'll they do thru '32" and "play BALLYHOO!"と惹句を掲げ、そして中央にはショーの為に特別にこしらえた、球が野球ボール大の巨大電動バリーフーをどーんと設置した。 10番ブースの周辺に通路を埋め尽くすほどの人だかりができたのは、なぜだろう。 ここには、12フィート×6フィートの巨大なバリーフーのレプリカがあったのだ。 このレプリカは電気で作動し、野球のボールより大きなボールがプランジャーから発射され、ピンからピンへ落とされる。 人だかりが出来た。 資料ではミッドウェストノヴェルティーカンパニー、しかし当日ブースでの社名はバリー。そして目の覚めるような演出のバリーフー商品展示。大変な注目を集めた。 ショー初日の夜、レイの妻にレイから電話が掛かって来た。朝の4時に。妻に渡されたのは現ナマ三千ドル+小銭。『とにかく売れた。注文書の用紙が足りなくなってトイレットペーパーにメモ書きした。この金を受け取ってくれ。頼む。これは君のおかげなんだから全部君のものだ!』 1932年はショーも功績も一大センセーショナルなものとなった。コインマシン業界においてもショーの歴史においても。大恐慌の最中の大きな転換期となった。 その前の年には1作も出展されていなかったピンゲームという革新的なジャンルのお陰だった。 「出展社数は120社を超え、過去最高の83社に次ぐ多さである。オペレーターの来場者数も過去最高であった。アミューズメント分野では、ピンゲームが圧倒的に多かった。公式には71台と発表されている。」 初日から目の回るような大盛況の大騒ぎ。メーカーもディストリもオペレーターも。 "全部で128のブースが販売され、中にはショーの初日にもかかわらず、108の別々の出展者を収容したものもあった。2社が同じブースを共有するケースも少なくなかった。この巨大な博覧会では、150台以上の初公開の新機種が展示されました」。  入れ替え展示される商品があまりにも多いので、火曜日と水曜日のイベントや一般入場が急遽中止や変更となった。 デイヴゴットリーブの講演もなくなり、同郷ライバルレイモロニーに圧倒的耳目を奪われたが嫉妬している暇もない。バッフルボール契約、納品、新機種展示だけでも忙殺状態。 バリーフーの他にも70機種ものピンボールが出展されている。 バリーと同じ列のNo.3ブースのゴットリーブにはバッフルボールのニューバージョン、トランプテーマの「プレイボーイ」が出展。バリーのせいで霞んだが、どちらも傑作に間違いないはずのもの。 ゴットリーブお隣りNo.4,5キーニー社ではバッフルボールの大き目サイズテーブル版「キーン・ボール」、カードもの「プレイボーイ」。 ヘラクレスノヴェルティー社は6番ブース。バッフルボールの模倣版「スポット・ア・ボール」の他、カウンター用小型ピンゲームのラインナップを充実。 通路を隔てた15番ブースではシカゴに本社を置くゲンコ社。彼ら最初のピンゲーム「バスターボール」改良版を出展。鋳物工場のセールスマンであったハーヴェイヘイスが設計したアルミ鋳物によるキャビネットの優位性を雄弁のに語っていた。 ロサンゼルスの「オートマチックアミューズメンツ社はカリフォルニアのピンゲームメーカーの草分けとなる。62番ブースで「アダム」「ザ・ツインズ」を展示。 オハイオ州コロンバスのスーペリオルコンフェクション社は「マーベラス」を出展。 どこよりも早くピンゲームを出していたイン&アウトドアゲームズ社は1931年夏の「フーピーゲーム」に続いて「スポットボール」を展示。最も成功しているピンメーカーだったはずのオートマチックインダストリーズ社は中2階追加ブーススペース入口63番ブースで「ホイッフル」最新版を出展。 しかし、未来のピンゲームオペレーターの注目を集めたのは、やはりBALLYHOOであった。 これほどまでに来場者の注目を集めたマシンは、これまでの展示会でもなかったし、その後もほとんどなかった。 ショーの後、リネハン、ウェルド、モロニーの3人は、成功が証明されたマシンを使って仕事をすることになり、ショーに参加したときと同じように労力を費やしました。 しかし、彼らは批判を免れることはできませんでした。 バリーは発売する次作を「SCRAM」と大々的にパブリシティーしたものの、近い時期に同名の機種が他社から出ていたことが判明。テネシー州ナッシュヴィルのハッチソン・エンジニアリング社1932/5の「SCRAM!」がそれ。小さな無名メーカー製だが、ABTとシーバーグが製造販売契約を結んでいた。 そこでレイは新作の名を「バリーラウンド」に急遽変更した。社名を前面に出した良いネーミングではあるが、スクラムとしてパブリシティした宣伝費用を蕩尽したことになる。 また、バリーラウンド製造時、バリーフーの人気と追加注文も盛りだったので、別の製造スペースを必要とした。20,000平方フィートのスペースを確保。バリーフーと食い合うのでは、という心配もあった。 レイモロニーは血気盛んで気持ちがはやっており、拡大し続ける!手を打ち続ける!といてもたってもいられない男。バリーフーを43,000生産しているのに、バリーラウンドを設計、製造した。しかし目を覆うような大失敗作となった。 バリーフーが入念な計画に基づいて設計・生産されたのに対し、バリーラウンドの開発は性急過ぎた。球詰まりの欠陥が大々的に発生してしまった。  ロケテストに出したプロトタイプは問題なかったのに、ファクトリー量産した台の大部分でこのトラブルが発生した。 カクテル型の筐体で、中心軸で絞り込むような特殊なボールリセットシャッターを設計したのだが、球詰まりで大方返品となった。 この時代無責任な企業が多い中、どんな犠牲を払っても良いゲームを作る。レイは信用には代えられぬ、と送料も部品交換修理も全てバリーが負担することとした。 それともう一つ、バリーラウンドは奇抜ではあるが、それほど面白い機種でもなかった。レイは何千台ものバリーラウンドを破棄することにした。 尚そのキャビネットは1933年の「Mike & Ike」にリサイクルされたそうな。バリーラウンドは修正版もオーナーオリジナル改造版も現存している。 本当はピンボール稼業なんてすぐやめるつもりだった。しかしバリーラウンドでの損失、追加ファクトリースペース竣工により、コインオペピンボール事業を続けざるを得なくなった。 レイモロニーはピンボールメーカー バリー社を存続させることを決意。またジョーリネハンやチャーリーウェルドも、バリーラウンドでの誠意ある采配に心を打たれ、レイに共に仕事を続けることを心に決めた。  一方、このバリーラウンドのスクエアプレイフィールド旋風はインパクトが有り、1932年だけで30種以上のスクエアサークル台が発売され、下火の1933年にも5種類ほど発売された。1932年2月オハイオ州アライアンスのスキルゲームズ社「ワールプール」。因みにピンボール発祥の地ヤングスタウンのワールプールセールス社がディストリ及びショー出展した。 中にはバーモント州ウィノスキーのリチャード・マニュファクチャリング社の様に、1932年6月のスクエア台「JOYBALL」が初めてのピンボール参入というメーカーもあった。  スクエア台は『より科学的なレイアウト、コンパクトな床面積』と当初業界誌も称讃していたものの、トラブル頻発のオペレーターの声が寄せられるにつれ、手のひらを返した。 エピゴーネンを先導した「ワールプール」に続き、'32年2月のスペシャルティ―社製「シューティング・スター」は低価格がウリのヒット作。カンザス市ピオ社「デイジー」「ステヴォ・ボール」も参入。 フィールド社及びヘラクレス社「ビッグ・ショット」、ノースウェストコインマシン社「スキッピー」、スロットの名門ワートリング社「ブルー・シール」、アド・リー社「T-N-T」、タンジェント社「タンジェント」 その後スクエア台への賛否が分かれ、確かに熱中しているプレイヤーはいるが、否定派も目立ち始めた。その年の秋には欠陥台の多さに見切りをつける者が多数派に。作るのも修理するのも難しい。新しい進展にも難儀する。地位の確立と維持は困難だろう。  『ラサールホテルのロケテストではワートリング社のブルーシール、ノースウェストのスキッピー、ワールプールが好評を博している脚光を浴びている』との評価も1932年まで。 結局スクエア台は消滅。 ワートリングは1932年3月の「ブルーシール」33年1月にジャックポット配当付き「PROFIT SHARING PIN GAME」の売れ残りと損益の大きさに怒り、トム・ワートリングは部下にピンボールの開発を凍結させる。結局それ以降ワートリングからピンボールが発売されることは無かった。 1933年2月のABT製「レース・トラック」が、まとまって世に出たスクエア台の最後と言える。10月にもフロリダ州マイアミのBiscayne社から「ロール・ア・ポイントSr.」がある程度出ている。 その後も試作的にスクエア台が出たものの、売れなかった。 1932年はヒット作競合作が群雄割拠状態だったので、生存競争に敗れたのだ。 オハイオ州ヤングスタウンのオートマチック・インダストリーズ社製のオリジナルを含むウィッフルボードとウィッフルゲームは、1931年後半には何千台も置かれ、半ダース以上の地元メーカーの家内工業や他の地域で生まれた追加生産者によって、他の名前の模倣ゲームが数多く作られていた。 In And Out-Door Games CompanyのWHOOPEE、HerculesのROLL-A-BALL、そしてBingo NoveltyのBINGO、最後にGottlieb and KeeneyのBAFFLE BALLがその地位を確立し、業界の大部分をシカゴに移すことを確固たるものとしていた。 11月から12月にかけて、BAFFLE BALLは数万個単位でバックオーダーされ、新年を迎えることになった。 シカゴのバックリー社は1932年4月に「フェイヴァリット」を発表。バリーフーのクローンだ。競馬のテーマに仕立ててはいるが、プレイフィールドもカラーリングも、底紙まで複製品と言っていい。 中には、バリーフーのコンヴァーションも発売。イグジビット社1932年5月の「プレイボール」はバリーフーのボードを交換してその新機種にすることが出来た。 尚バッフルボールとビンゴにも他社からコンヴァーション交換フィールドが出ている。フィールドマニュファクチュアリング社「プレイポーカー」がそうだった。 「ピンボールゲームの場合、まずサンプルを作ってテストする。それがうまくいけば、500個作って売る。 そして、1,000個作っては売り、2,500個作っては売る。そんな感じでしたね。 1932年はどのピンボールメーカーも下請け業者も大儲けした。どこも損益は出さなかった。新しい商品が次々出たが、次々売れていった。オペレーター達も下請け業者たちも、“そうだ、自分達でゲームを造ろう!キャビネットとマーブルとプランジャーさえあればいいんだから。女工を雇ってピンを打たせて、ファクトリーを回そう。”  何百ものオペレーターが同じことを考えた。ABT,バックリー、アミューズメントデヴァイスカンパニー。 レイモロニーも、独自で開発したコインスライド装置をライオンマニュファクチュアリングを通じて他社に提供して市場も収益も広げた。 これに家具店、工具店、錠前屋、ファスナーメーカーも加わる。  確かに独創的なアイディアで小ヒット作を出し、すぐ大手がロイヤリティを支払って作り変えられた例もあるが、お粗末なコピー品の方が大半。 シアトル市で1932年に興味深い事件が起きている。 A.クイーン・アベニュー532番地で店舗を経営していたA.L.ヤングなる人物が逮捕された。容疑は賭博装置の営業。(機種名は不明だが)PinGameと呼ばれ始めていたそのゲームにローカルルールをあてがい、高得点に達した客に賞金を出していたのだ。  きっぱしのオペレーターだが、当然同業者は黙っていられないので、地元経営者協会が雇った弁護士が、ピンゲームはスキルゲームであり、射幸性の強い賭博ではないと法廷で証明する、という作戦に出た。 ヤングは、この機械には敏感なプランジャーがあり、巧みな操作とコントロールによって自在に狙い打ちができる―――と法廷で壮したが、本番では大失敗を喫した。  結果、警察判事ジェイコブ・カリーナに25ドルの罰金を科せられたという。  直後、この有罪判決をよすがとして、市当局はシアトル中のすべてのピンボールを撤去または廃棄するよう命じた。当時のシアトルでは控え目に言っても3000以上のピンボールが稼働していたと言われている。尚、この頃は 記事にはevery pin and marble table in Seattle removed or destroyedと記しており、まだピンボールとは呼ばれてはいないことが分かる。 1932年には誰かがスコアカードを置く⇒店側が景品(または現金)を出すことが広がる⇒警察が介入する⇒得点競いゲームに戻る、という事象が起きている。 1933年のC.M.M.A.でバリー社のブース19と20は、レイ・モロニー、セールス・マネージャーのジム・バックリー、広報・広告担当のハーブ・ジョーンズ、ゲーム・デザイナーのハーブ・ブライテンスタイン、セールスマンのR.スタンリー、そしてイブ・フクスゾン嬢(Miss Eve Fuxzon)という5人編成でへしあう状態。バリーのブース自体既にちょっとした博覧会。ピンゲーム、カウンターゲーム、デラックステーブル、ツインテーブル、レースゲーム、ポーカーゲームなどなど! 1933年ショーにおけるアミューズメント・ゲームのバラエティの豊富さでは、議論の余地なくバリーの圧勝である。バリーの新しいツインゲーム、MIKE AND IKEは、JACK AND JILLとともに注目された。 新しい「PRESIDENT」と「MONARCH」は多様性のアピールにあふれていた。「GOOFY」と「3-RING CIRCUS」もあったし、まだ「BALLYHOO」を買い求めるオペレーターもいたそうだ。 「AIRWAY」は超目玉。バリー側の予想通りの大注目。一番買い求められていた。というか、今回のショーで人気トップ1だった。展示の仕方も背景と一緒に実演もきれいで見事だった。 AIRWAYが提供したのは,ボールがホールに入ると自動的に閉じる得点ホールであり,これはGottlieb BIG BROADCASTの "便座 "カバーを模倣したもの。トラップホールに入賞してフタが閉じると、手前の窓にカシャッと得点が表示された。ハーブ・ブライテンスタインがデザイン。 このゲームはショーの開催と同時に注文が殺到。ディストリは納品作業に数か月追われ、1年以上需要が続いた。レイモロニーは工場の拡大を余儀なくされていた。 1933年はシカゴ万博、禁酒法解禁、ニューディール政策インフレの年。バリーはエアウェイで、ロックオーラはジグソーで大成している。 エヴァンズ社はまだピンボールを作っていなかった。万博会場の近傍にゲーム場《The Arcade of Amusements》をオープンさせたが失敗。流行りのピンボール中心ラインナップに拘ったが、バリーフーに景品つけただけのありふれたマシンばかりとなり、客は入らなかった。で https://youtu.be/w2maSZT9TDo バリー'70年代初期の傑作「ゲイター」のデザイナーであるテッドザール。意外なことに、彼の生年月日は 1901年5月1日。デイヴゴットリーブやレイモロニーとひとつ違い。デイヴやレイと同世代のエンジニアが、'60年代'70年代のバリーピンボールの筆頭デザイナーとして辣腕をふるっていたのだ。 ミシガン州ベイシティで生まれている。 1923年に最初の奥さんマリエルをめとり、息子ロバート・ザールが生まれていが、テッドザールはバーナディーンと、その後インダという女性と再再婚している。 1977年、アンカーソー州バクスター群でなくなっている。 彼は生涯の前半は印刷業界に捧げている。理由は分からないが1930年代、彼は居住地としてミルウォーキーとシカゴをゆききしている。1940年には印刷店のマネージャーを務めている。シカゴで印刷業を営んでいるうち、ピンボールアートに魅せられた可能性がある。 テッドザールは40日か50日に1機種ピンボールを仕上げる早業師だった。革新的なメカとゲームデザインも枚挙に暇がない。 また50ボルトのコイルを標準化し(初めてではないしバリーでもウィリアムスでもやってたが)、マッシュルームバンパーを考案・汎用した。ボールロックを踏まえた建設的なマルチボールを考案した人物でもある。マルチボールは初めてではないという議論も必ず起きるが、役の完成を計画し、意図的にボールロックし、マルチボールに入れることを考えたのはザールが初めてだ。またシンメトリーの常態を破り、左右非対称を常に好んだのも特徴的。 当時いっぱしのバリーピンボールデザイナーは彼一人だけ。'70年代初めごろまで。'60年代ピンボールイコールテッドザールと言ってもいい。 プレイフィールドにリールドラムがあったり、右アウトレーンに開閉ゲートボールセーヴがあったり。勿論ジッパーフリッパーも彼の発明。 ザールはゲンコでキャリアをスタートさせたという言説は証明できていない。 72年製ファイヤーボールではスピニングディスクを搭載させた。フリッパー時代では初めて。  また、ザールは一時期ゲンコに籍を置いていたのではないか、という一説がある。1957年に移動する的を特定する特許を取得、それがゲンコのガンゲームにあてがわれているのだ。 役の完成でプランジャーレーンに放り込め、リエントリーできる[キャトルゲート]も彼の発明。 ホテルカジノ用スロットマシンはともかく、ビンゴマシンが失速した頃合いの1963年、バリーはピンボール市場に戻ってきた。 40代半ばに、印刷業界で店でも会社でも発明でも成功した人物が、突如ピンボール産業に身を投じるのは不自然。印刷業界からピンボールの世界へ誘ったのは誰だろう?ジョージヴァレンティン?ジェリーケリー?クリスチャンマーチェ? 1972年にテッドザールは実質引退しているが、1974年まで彼のデザインが商品化された。 ジムパトラは1965年にバリーで仕事をスタート。テッドと一緒に仕事をしたのは5年程。テッドは7月に退職した。後釜はウィリアムスから移籍してきたノーム・クラークだった。またバリーはアル・グレッグ・ハットランドを雇った。 それでもバリーからの信頼は厚く、アンカーソーの自宅の作業場でテッドは設計図、または設計を仕上げ、バリー社に貢献し続けたそうだ。 彼らがテッドのプレイフィールドを打ち直したのだ。「ジャウスト」はまさにその機種。「ヴァンパイア」「ダブルアップ」もそう。」 またテッドザールは、顔写真ひとつ残されていない。工場やラボの記念写真がいくつかあって、ジムパトラが照会しても、どれにもザールは映っていない。、 1957年にゲンコでガンゲームを開発、パテントも自分が取る。その間1965年でバリーでの活躍が始まる。その間は、ミッドウェイでガンゲームに携わっていたのではないか、という説もある。 1958年にゲンコが閉鎖された直後、新星の様にミッドウェイ社が現れ、立て続けにガンゲームを発表している。しかもゲンコが得意としたガンゲーム。よく似た構造。 74年の8月にノームクラークがバリーのチーフデザイナーとなり、テッドザールのリモートワークが終わったようだ。 クロードフェルナンデスは海軍に4年勤めた後の1976年、アタリ社に入社している。勿論ノーランブッシュネルと面識もあるし、リッチー兄弟とも友人関係となった。スティーヴは既に開発チームにおり、クロードは当初メカニカルエンジニアだった。2,3年ほど設計のアシスタントをこなした。 スティーヴは78年にウィリアムスに移籍。背中を追うようにクロードもウィリアムスへ入社した。「フラッシュ」で一緒に仕事をした。自分にも自信がついて、「ブラックアウト」のデザインを手掛けることが出来た。初仕事。 直後、バリーからのヘッドハントが。給料を2倍だす、と。若かった私はその甘言につられ、バリーへ移籍してしまった。 その時スティーヴはブラックナイトを作り始めており、フィールドが2段あったが、まさかホントにスロープで1F2Fをゆききするとは思ってもみなかった。クロードはバリーに移ると知って、スティーヴは詳細も商品名も説明しなかったのだ。  バリーではビリーオドネル社長に“ウィリアムスはどんなピンボールを作っていた?”と訊かれ、思わずプレイフィールドが2階建てのゲーム、と答えてしまった。“なら、ショーまでの4ヵ月で2階建てフィールドのフラッシュゴードンを作れ”と命ぜられた。1年以上かかる仕事を4ヵ月で!しかしケヴィンオコンナーの様な優秀なスタッフのおかげでなんとかなった。 ケヴィンオコンナーは'70年代半ばに印刷会社専属の絵描きとして健筆を揮っていた。ビールの看板とか、アルコール飲料の看板を手掛けていたが、もっと給料も仕事内容も充実しているところはないかと転職先を探していた。その時、のちのピンボール産業を通じた親友グレッグフレーレスと出会う。彼が勤める、“ 世界最大のコイン・アミューズメント機器製造メーカーのアーティスト”という仕事は、当初なんだか漠然としていて雲をつかむようだった。ある日グレッグとの約束の場所の赴くと、そこはバリー社の工場だった。シカゴシティのウエスタン・アンド・ベルモント。玄関で私を出迎えたのはポールファリスだった。 案内されたのは新たに増設された美術班のエリア。初めて手掛けた美術は「ギャラクシーレンジャー('78)」。なんとソリステ機種にもかかわらず1978年に発売されたHome仕様。あのデイヴ・ナッティング発明のICピンボール機構が適用されている。 実質的なアーケードピンボール美術デビューは「ストライクズアンドスペアーズ('78)」。シルクスクリーン手法で。本社分室の美術部で。スーパーソニック、キッス、シルヴァーボールマニア、ヴァイキング、ミスティック、スタートレック。 スタートレックの資料は割と十分与えられたが、フラッシュゴードンは小冊子だけだった。そこからイマジネーションを膨らませて仕事に取り組んだ。他には公開前の映画の試写会ぐらいか。 クロード側の回顧に話を戻す。バイレベルのフラッシュゴードンを命じられたが、スティーヴの猿真似をすることになる。本当はやりたくないがこれがバリーでの仕事だ。選択の余地は無い。せめてものオリジナリティを出すべく、1Fバンパー地帯のキックアウトホールから上段に打ち上げる機構をデザインした。また、バリーはバイレベルを作ったことが無い為、通常のプランジャーを用いるとうまく作用しない。スプリングを変えたら、今度はガラスに激突した。限られた時間で試行錯誤を繰り返した。 デイヴクリステンセンは仕事が早いというか、何時間もデスクに座って描き続けることが出来るひとだった。 クロードフェルナンデスはウィリアムスでは一流デザイナーとしての厚遇を得られなかった、というのもバリー社移籍理由のひとつ。しかし彼は移籍前、ウィリアムスで正式なデザイナーへ就任しないうちに「ブラックアウト」を手掛けている。レーンチェンジ機能搭載、ブラックアウトタイム突入でフィールドが暗くなる照明制御機能。音声合成。どれも初めての搭載ではないが十分すぎる程画期的で、秀作であった。尚プレイフィールドを暗くする演出はニューヨークの大停電がヒントになったそうだ。 '80年代初頭に発明された数多くの新規アイディアは、スティーヴやオースラーの陰ひなたとなり、自分が支えたものだ―――と主張している。 そんな時にマイクオドネルと彼の奥さんと話をする機会があり、バリーへ2倍の給料で迎い入れられ、名刺に“デザイナー”と打ってくれた。 彼はまた、バリー最後のワイド台「エンブリヨン」を手掛けている。美術トニー・ラムンニのバリー最初の作品。右アウトレーンにショートフリッパーボールセーヴがあり、わざわざフェルナンデスがパテントを取得している。美しくも貫禄のあるマシンだったが、製造数2250台にとどまった。 その後彼はジョーカミンコウと共にデータイーストピンボールに入ったり、マークリッチーとカプコンに移籍したりしたが、“ピンボール業界で働くよりストレスが少ない”と、テキサス・インスツルメンツ社(1930年創業の集積回路・DLP製造会社)でエンジニアとして20年努めている。 『ピンボール産業でのキャリア20年には十分満足している』と語っていたフェルナンデスだが、2010年代後半に、なんとHomePin社で「スパイナルタップ」を手掛けてしまったのは恐れ入る。



(最終更新日2019年8月26日)