ケイリー兄弟社はコインオペ産業においてゴットリーブやバリーより30年も先立つ大先輩と言えるコインマシンメーカー。
ピンボール市場が勃興する30年も前の1901年に、ピンボールの前身となる“オートマチックコインバガテル”の「ログ・キャビン」を発明。
当時はスロットマシンやドロップマシン(10円玉新幹線ゲームの始祖のようなウォールマシン)等々他のコインマシンの人気の方が高かったが、その性能の高さ故、ゆるやかなロングセラー製品として永らくの間膾炙されていた。
ゴットリーブとバリーによってピンボールの一大ブームが席捲する時節より30年先立つ20世紀初頭のこと。 「ログ・キャビン(1901)」なるカウンタートップ型ピンボールマシンがアメリカで流行したことがあった。 当時は“オートマチック・コイン・バガテル”と呼ばれており、コインを投入してフロントのハンドルを回すとボールリフト装置が稼働し、シューターレーンにボールが装填。スプリングシューターで球を打ち出し、最高額のトップホール及び点数の振られた底辺のポケットを、高得点目指して狙い打つ。 プレイヤーが入賞するとバーテンダーやオペレーターが目視で確認の上、現ナマ、葉巻、ドリンク1杯、時には七面鳥が景品として賞与された。 フィールドデザインが平淡且つシンプル過ぎたり、水平方向ではなく垂直方向に取り付けられたプランジャーが操作しにくかったり、なぜか500個も内蔵された球を使い切るとオペレーターがジャラジャラと装填し直す手間があったり……等々。 「バッフルボール('31)」「バリーフー('32)」と比べて垢抜けていない作りは否めないが、まさにピンボールマシンの前身と呼べる機能とゲーム性能が備えられている。 当時ログキャビンはペニーアーケード、シガーストア、バーカウンター上で可愛がられ、その後20年に渡ってマイナーチェンジのバージョンアップを繰り返しながら繁栄するものの、禁酒法の施行や時代の移り変わりにより、'30年代のピンボール市場の大勃興を待たずして自然消滅してしまう。 この「ログキャビン」を開発したケイリー兄弟社は、20世紀初頭にアメリカのコインマシン産業を牽引した大手メーカーのひとつ。 明敏なメカニックの兄アドルフ・ケイリー、商才溢れる営業マンの弟アーサー・ケイリー、そして鋳造を知悉する技師ジェイコブ・シーマーの3人の中心人物によって1901年に創業。 ミシガン州デトロイト市の本社工場では数百人の従業員による雇用体制を敷き、当時最先端の娯楽筐体を量産。 キャビネット内でムービーが観れる“覗き眼鏡/ミュートスコープ”、皆で力自慢の勝負が楽しめた“握力測定機/ストレングステスター”、女性客に人気が集まった“占い機”、初期型円盤ルーレットタイプの“スロットマシン”、そして我らがピンボールの前身“コインオペバガテル”。 夢と娯楽性に溢れた数多くのコインマシンを次々と開発していった。 当時ケイリー兄弟社は『シカゴのミルズ、デトロイトのケイリー』……と、スロットの大家ミルズノヴェルティ社と双璧を成す程顕彰されており、同時にシカゴとデトロイトとのコインマシン産業都市No.1の軛争いがそのままミルズとケイリーが担っていた程である。 また、1920年代頃からデトロイト市はフォード社を中心とした米自動車産業発祥の地として名高いが、その裏の理由として、ケイリー兄弟社工場の数百人規模の労働雇用が基盤となり、後に多くの自動車エンジニア達を生んだから……とも言われている。 ケイリー兄弟はミシガン州東サギノー群生まれ。父の会社ユニオンストアサービス社へ共に勤め、キャッシュキャリア(天上に張ったワイヤーでレジスターから現金を館内で移送する装置)の開発や取り付けを請ける事業で経験を積む。 1897年に父の引退により会社が畳まれ、弟アーサーは先立ってデトロイトでケイリー社(Caille Company)を立ち上げ、コインマシン産業へ一足お先に参入。 一方兄アドルフはサギノーに残り、鋳造技術に精練したジェイコブ・シーマーと共に工房を立ち上げ、1899年ケイリー・シーマー社(Caille-Schiemer Company)を設立。スロットマシンのキャビネットデザインを開始する。 この時兄アドルフはサルーンで見かけたチヴォリテーブル社のノンコイン・キューショット・バガテル台「マンハッタン」に商機を見出して権利を購入、スプリングシューターの改良を加えた「リトル・マンハッタン(1901)」を発表。 商品は好評で、他の製品の売り上げも好調だったこともあり、ケイリーシーマー社は大都市デトロイトへの移設を決意する。 一方その頃デトロイトで既に起業していた弟アーサーの会社も同じ業種で軌道に乗り始めており、結局兄弟らは折衝の末に合併を決定。 1901年7月30日、ついにケイリー兄弟社が誕生したのである。 「ログ・キャビン」はその後1902年にパテント申請受理。ピンボール史上初のフライヤーの発行も考案。 1903年改良版、1907年改良版、とマイナーチェンジを繰り返し、最も売れた1910年代には広告を盛んに出稿していた。 最終バージョンでは現行プランジャーと同じく水平方向にシューターが改良されていたという。 また防犯装置付きのガラスカバーや、持ち上げるとゲーム盤がシャットダウンするティルト装置など、セキュリティ対策も万全。各位オペレーターからの信頼は厚かったそう。 ガラスカバーとプランジャーの搭載及びコインオペ機能付きピンボールの前身として、パテント記録が残ったそれ以前のものより、ケイリー兄弟のログキャビンの方がピンボールの正当な前身機種としてみなされているのは、そういった各機能性の高さ所以である。 かくして、コインオペ産業やデトロイト市の経済は勿論、ピンボール史にも「ログキャビン」という巨歩を残したケイリー兄弟社であったが、残念ながら弟のアーサー・ケイリーが1917年に死去してしまう。 兄アドルフ達は傷心のまま事業を縮小。その後'30年代に巻き起こるピンボール一大ブームに参入することもなく、1937年にアドルフ・ケイリーは工場とオフィスビルを他社に売却。 ケイリー兄弟社の歴史はここで幕を下ろすことになった。 一世紀が過ぎた現在でも、デトロイト市のアムステルダム街にはケイリー兄弟の本社ビルが残されている。 その広大な敷地と壮麗なオフィス跡からは、かつて400人以上の従業員が雇用されていた往年の盛況が、哀切と共に今もなお偲ばれている。 |