クローソン・マシン社は19世紀末のコインマシン,チャンスゲームの名機「オートマチック・ダイス」「スリー・ジャックポット」を全米に轟かせたコイン娯楽機の黎明期における旗手。 創設者はクレメント.C.クローソン。1879年に自動タバコ包装機で初の特許を取得した発明家で、その後様々なコインマシンを開発し、20数件ものパテントをものにしている。 特に1885年以降の躍進は目覚ましく、コイン身長測定器、プリントアウト機能付き体重計、スイス製オルゴールを特注したコイン万華鏡―――等々。 これら当時の技術と流行を取り入れた最新鋭娯楽機の数々が好評を博し、西部開拓時代末期のサルーンやシガーストアでその名が轟くことになる。 特筆すべきは1891年発表、同社初のチャンスマシンであり“ダイスマシン”と呼ばれるジャンルの先駆となった「オートマチック・ダイス」だろう。 ニッケル硬貨を投入すると時計仕掛けを応用した車輪が稼働、サイコロが入った2つのカップが自動で振られ、出目によって葉巻が当たるというもの。 入賞はプレイヤー自ら店主に告げる申告制。出目と併せて小窓から見える投入済み硬貨を店側が目視確認し、晴れて景品贈呈となる。 自動払い出し機能までは叶えていなかったが、斬新でアクティヴな機動が好評を博し、全米のサルーンやシガーストアに設置される大ヒット機種となった。130年以上経った今も現物が数多く現存している。 このオートマチックダイスによりダイスマシンのジャンルが確立され、その後1930年代まで多くのコインオペメーカーによって同種の娯楽機が製造され続けている。 チャールズフェイやバックリー、バリー、ミルズ、ロックオーラもダイスマシンを開発しており、特にイグジビット社は1928年製「アーケード・フォーチュン・テラー」を皮切りに幾度もダイスマシンを発表している。 更に注目すべきマシンは、現金自動払い出しジャックポット機能付きのカウンタートップ・ドロップマシンの名機「スリー・ジャックポット(1893)」だ。 投入口に落とした硬貨が、釘を打たれた垂直の盤面であらぬ方向へ弾けまわり、運良く3つのポケットのどれかに硬貨が入ると、溜まっていた硬貨がドサッと払い出される。しかし大抵は底辺のハズレへと沈む―――。 それ以前にも、 釘を打った盤面を硬貨が跳ねるブキャナン社の葉巻自販機「シガー・セラー(1892)」。 現金ジャックポットかハズレか積み立てか、の3方向の迷路の中を硬貨が滑りゆく、ジェームズ・ライトハイプ(エジソン社のエンジニア)、グスタフ・ショルツ(カラーホイールチャンスゲームの発案者)のライバル双方が出していた「3−FOR−1/スリーフォーワン(1893)」。 その手のコインフィールドゲームは既に他社から出ていたが、“釘盤面ポケット入賞の現金自動払い出し”という点ではドロップマシン、ウォールマシンの先駆けと言える機種。戦前の日本で広まった“一銭パチンコ”に与えた恩恵も大きい。 クレメント・クローソンは1853年生まれ。イギリスからマサチューセッツ州に渡って来た父ヘンリー・クローソンも発明の才があり、1858年12月には回転ブラシの蓋つき胡椒入れのパテントを取得している。 クレメントが生まれた頃のクローソン家は裕福な機械工一家で、ノースカロライナ州のフランクリントンに居住。 今の時代では許されることではないが、同家は幼い黒人少女ばかりの奴隷を所有しており、南北戦争では奴隷制度を支持する南軍側に従事していた。 クレメントが17才となった1870年。父親ヘンリーは2番目の妻となるオーレリアをめとっているが、後年彼女がクレメント家におけるいさかいの火種となってゆく。 1874年になると父ヘンリーは事業に失敗。クローソン家は傾きかけるが、クレメントが発明家としての頭角を顕わし始めたのがこの頃。 機械工を勤める傍ら、[自動的に紙の枚数を仕分けて裁断する機械]や、[特定の種子を自動的に測定して仕分けする機会]を発明。 この成功により、クローソン父子はオートマチック・ウェイーング・アンド・フィリング・マシン社を設立。大都市ニューヨークシティへの移転を果たす。 この時NYで大いに活況するコインマシン産業に商機と可能性を見出したクレメントは、更にクローソン・マシン社を設立。ハドソン川を渡り、NYへの営業にも勝手が良いお隣りニュージャージー州ニューアークへと移った。 古代文明まで遡るような、大まか過ぎる自販機の歴史や需要はともかくとして、現在との地続きが感じられるコインオペ娯楽機市場が巷間に芽生えたのは1870年代と言われている。 主に流行ったのは、ガラスケースの中に蒸気機関車や蒸気船の模型が鎮座し、ニッケル硬貨を投入すると車輪やピストンが動き出すという簡単な仕組みのメカニクスパフォーマンス。 当時としては盛り場を盛り上げる催しとして十分新鮮で、従前のミュージックボックスの様なオルゴール機能付きのものも現れ、人気を博した。 他、体重や握力などの測定器、葉巻や菓子の自販機も、その目新しさに注目が集まってゆく。 1890年代に入ると、クローソンは前述のダイスマシンを開発し、“チャンスゲーム”と呼ばれるようになるコインマシンジャンルの先鞭をつけた。 その名も「オートマチック・ダイス(1891)」。 コインを投入すると、ガラスの中で機械仕掛けが作動し、左右2つのカップが一回転。ぱかっと蓋が開き、3つずつ、計6個のサイコロの目が確認できる。 6つのサイコロの目の合計数が14以下、または28以上だと葉巻が当たる。ハズレでもその店で使えるトークンが貰えた。 入賞時にはプレイヤーが従業員に自己申告。店側は小窓で見える投入硬貨とサイコロの出目を目視で確認し、商品を手渡すというシステム。 まだ自動払い出し機能が無いとは言え、当時は勿論、今動画で見ても感心してしまうほど画期的な機種である。 フェアな勝敗ゲームだし、器用な機械仕掛けも楽しい。きっと客人とマスターとの会話も弾んだろう。確かに良いマシンだ。 現在の高額ガチャの方がよっぽど因循姑息で卑怯に思える。 尚、このダイスマシンのパテント取得はリンク先でも確認できるとおり1892年12月20日だが、注目すべきは“ニッケル硬貨が小窓で確認できる仕様”の特許をも、クローソンが1888年に3月20日で既に押さえているということ。 “中身の機械仕掛けをガラス越しに窺うことが出来る”という意匠特許がポイントである。 落ちたコインが中の小窓でキャプチャーされ、更にレバーが動かされ、仕掛けが作動して車輪が回転する様子が見えるように企図した設計を骨子としたもの。 ケースをガラス製にする。中の機械仕掛けが見えるように。 今の時代では何でもないようで、同時代の他のコインマシンには無かった着眼である。 意匠的なパテントの管理とプロテクトも実に堅牢だ。 かのトーマス・エジソンもコイン蓄音機事業の際、自身の製品がこのガラス窓特許に抵触。クローソン相手に手を焼いたという逸話も残っている。 このコイン式サイコロゲームは大評判となり、サイコロ占い版などの派生機種も開発。一機種につき6,000台以上が売れるヒット作に。意匠特許のロイヤリティーも入り始め、クローソンマシン社は大いに活況し始めた。 “ロケーションもプレイヤーも、簡単に稼げる!” こうしてコイン式チャンスゲーム市場が耕され始めた。 当初ちまたではガラス越しの迷路の中を硬貨が滑り落ち、3つのゴールの内、最も難しい[当たり]のゴールに落ちると硬貨が3枚払い出される……というドロップマシンが出回り始めている(前述のライトハイプ&ショルツ「スリーフォーワン」と酷似する内容だが、資料によってはクローソン社が元祖と記している)。 この路線のコインマシンの売り上げが凄まじく、数か月で他社からの模倣品も出回り始めた。 直後、クローソン社が発表したのが1893年製「スリー・ジャックポット」である。 ガラス越しに、運試しに敗れた従前の輩達による5¢硬貨が、ジャックポットとして山と盛られているのが目の前に見えている。 スロット口からコインを何枚もドロップして挑戦してみるが、大抵はハズレに落ち、そのお金はジャックポットの一部にさせられてしまう。 しかし極稀に、運良く硬貨がジャックポット口に入ってトリガーを引けば、その山盛りコインがドサッと払い出される! これだからプレイヤーはやめられなくなるのだ。 斯くして、スリージャックポットは何千台もの売り上げとなった。 他社も機械そのものを購入して部品を鋳造、大急ぎで類似品・模倣品を作り始めた。 そのコピーキャットの数は十数機種にものぼり、スリージャックポット発売から僅か2ヵ月であちこちに溢れかえったという。 翌年1894年にはジャックポット口を4か所に増やした「カルロ」を、1898年にはエレキ化したペイアウト機能付き大型フロアマシン「トレード・チェック」を発表した。 ただ、この手のチャンスゲームは警察や自治体の怒りを買い、度々製造中止命令を受けることになる。 クローソンはそんな流行り廃りの激しいコインマシンの魔性を悟り、決してチャンスゲームばかりに拘泥せず、別ジャンルの発明と開発へと勤しむ指針を見せている。 自販機、製氷機、カーテンローラー、星形カイト等々。機知に富んだ数々の商品で収益を上げ続けていった。 一方、「オートマチックダイス」の人気は未だ衰えず、他のメーカーが製造許諾を交渉したが、“性能の劣る廉価版を捌かれたくない”との理由でクローソン側が拒否している。 結局「オートマチックダイス」は1895年頃まで、推定600台が全米の店舗で稼働。20世紀初頭に開花した[ペニーアーケード]活況への礎石となってゆくのだ。 ところで、クレメントの家庭の方は必ずしも良好とは言えなかったようだ。 妻リリーとの間に生まれた愛児ヘンリーを1885年に1歳余りで亡くしているし、共に商品開発に貢献していた父ヘンリーも腎臓炎の病苦に襲われた。 ヘンリー・クローソンは1897年に73歳で没しているが、当時の訃報は彼を“「ニッケル・イン・ザ・スロット」の発明者”として報道した。しかし実際は大方息子クレメントの発明品である可能性がある。 不幸は重なり、クレメントの妻リリーも1899年に42歳で他界。 また父ヘンリーの遺言書には彼の後妻オーレリアに遺産を全て遺す旨が記されており、憤慨したクレメントはオーレリアとその弁護士を法務攻撃。 結局オーレリアの死後クレメントがその遺産を相続するという落としどころで決着がつく。 その後クレメントは夭折した愛児の乳母だった女性エラと再婚し、20世紀を過ぎる頃にはフラッグシティへ転居。 事業は継続し、クローソンマシン社をフラッグタウンに移管させ、ヒルズ地区最初の近代的な工場を築き上げた。 最後の特許取得は1912年の3本。全てコインオペレートマシン関連であった。 クレメント.C.クローソンは1928年11月7日に死没。 一時代を築いたクローソン家の父,息子,妻2人は、ニューアークのフェアマウント墓地に埋葬されている。 クローソン家の立派な墓標(公式サイトフォトツアー7枚目)が残されており、大きな玉石の上に1歳で亡くなった愛児ヘンリーの姿を模したであろう子供の銅像があったはずなのだが、いつしか失われてしまった。 かのチャールズ・フェイ発明の三輪ドラムスロットマシンより6年も早く自動ジャックポット払い出しゲーム機を発明し、エレメカ,パチスロ,スロット等々現アーケードゲームの礎を築いた一族の墓であることなど、すっかり忘れ去られているのかもしれない。 尚、クローソンマシン社は現存している。 レストラン,ホテル,フードサービスの場に向けたアイスクラッシャー,アイスシェイバー,ブロックアイスシェイバーを提供する製氷機メーカーとして、業績は良好。 こちらの方では1888年にクレメント・クローソンが特許を取得したアイスシェーバーの偉業が、脈々と受け継がれていたようだ。 |