ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆G.B.ダヴォール社/G.B. Daval Mfg Company Incorporated/1934〜1939

 ジービー社とダヴォール社が合併する形で創立。
 ギンズバーグ兄弟創業によるジービー社は1934年2月に初めてスコアを自動計算する機能を搭載した非電源ピンボール「アメリカン・ビューティー」を発表したメーカー。
 その仕掛けは時計のメカニクスを応用した単純なもので、同時期にデヴィッド・ゴットリーブも似たアプローチを「レジスター」で試みていたが、先立って商品化を実現したのはこのアメリカンビューティーが初めて。この機種の成功がきっかけでジービー社はファクトリー力のあるダヴォール社と合併、GBダヴォール社となった。

― 解説 ―
 ジービー社の起源はディストリビューターで、1933年にユニヴァーサルノヴェルティー社としてワシントンストリートで開業した。
 創業者はエディーモーリーギンズバーグ兄弟(ゲンコのゲンズバーグ兄弟と紛らわしいのでご留意を)。

 バリーの盗作台を躊躇なく扱っていたところ、仲が良かったはずのレイ・モロニーから苦言を呈されたことがきっかけで、ギンズバーグらは1933年ジービーマニュファクチュアリングカンパニーを設立した。

 “ジービー”社名の由来は、ギンズバーグの綴りを略したG.B.であるが、当時ナショナルエアレースでのちの東京空襲指揮官ドーリットル中尉のデアデビル号を破って優勝に輝いた、グランヴィル兄弟設計のジービー号にどうせならあやかろう……ということになり、Gee-Bee社を名乗ることに。

 シカゴのヴァンビューレン街にオフィスとプラントを構え、オリジナルのピンボールのデザインと製造を開始した。処女作は'33年12月発表の「プログレス」

 「アメリカンビューティー」はギンズバーグ兄弟がジービー設立以前から練っていたアイディアを、半年もの製作期間をかけて製品化した渾身作だった。

 しかし電気化テクノロジーの旋風やファクトリー量産で求められる技術の高等化に対し、たちまち手に負えなくなったギンズバーグらは、既にカウンターゲームのプラント生産体制を整えてピンボール参入に興味を抱いていたアル・ダグリス率いるダヴォール社に「アメリカンビューティー」の大量生産を打診。これがダヴォール社初生産ピンボールとなった。
 その後ギンズバーグ兄弟はダヴォール社の役職に就くこととなり、社名は晴れてG.B.ダヴォール社となった。

 同社は1939年「フォローアップ」を発表したのを最後にピンボールの開発は途絶えるものの、その後スロットの製造に専心。

 しかし1948年GBダヴォール商品の権利やマニュファクチュアをスコットインダストリーズに売却
 ピンボール、スロット、及び全てのコインオペ産業からも、ダヴォールブランドはここで姿を消した。グラマラス美女シルエットをデザインした同社の愛らしいトレードマークが印象的であった。

 尚スコット工業は工業用品の製造会社として今も現存する。



(最終更新日2019年8月26日)