ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆イグジビット社/Exhibit Supply Company/1907〜1985/ピンボール市場参入期間1932〜1953

 野球選手カード販売機で一時代を築いたイグジビットサプライ社は、アーケードゲーム及びピンボールメーカーとしてもコインマシン史上にその名を刻んでいる。
 E、S、Coの頭文字を取って通称エスコ社の名前でも親しまれた。
 一時期は数千台にものぼる製造ユニット数のピンボール大ヒット作を短期間に連発し、そのセールスはバリーやゴットリーブをも凌ぐ程だったという。
 かのハリー・ウィリアムスリン・デュラントの天才発明家コンビが一時期在籍していた会社としても有名である。

― 解説 ―
 イグジビット社は元々ポストカードヴェンダーの製造をきっかけにコインオペマシン業界に参入したカンパニー。

 1910〜1920年代にかけ、イグジビットは自社で印刷したフォトカードをコイン投入で購入出来る自販機製造事業で、最初の成功を収めた。

 カード写真の主なモデルは妖艶なグラマー美女、野球選手、ボクサー、レスラー、サッカー選手、ハリウッドスターの他、ラジオスターやカウボーイといった時代を感じるカードのモデルも。
 自動車や飛行機のカードも好まれた他、一発ギャグの様なジョーク漫画カードもあった。

 イグジビット社製カードヴェンダー事業の成功の秘訣は、モデルとの契約や写真撮影、カード印刷も自社で全てまかない、更に毎月カードを新作に差し替えて供給するシステムにより、オペレーターの信頼と消費者の心をしっかり掴んでいたことに尽きる。

 これら事業の収益を資金に、同社はアーケードゲーム及びピンボール産業へと参入してゆく。

 ピンボール部門における最初の成功作は、パシフィック社による業界初電気化ピンボール「コンタクト('33)」のエスコ版「ライトニング('34)」
 パシフィックと正規ライセンスを結んだ上、シカゴの本社工場とロサンゼルスの支店とでピンボール筐体を昼夜フル稼働量産。殺到するオーダーを捌いて需要に応えてみせた。

 その後もミルズやシカゴコイン、ロックオーラ出身のエンジニア達を招いてコンスタントにピンボール製品やエレメカ筐体を発表、アーケード業界が低迷に喘ぐ'50年代まで同社の奮闘は続いた。


 イグジビット社のオーナー ジョン・フランク・マイヤーは1881年イリノイ州ピオリア市生まれ。
 シカゴの印刷会社に勤めたのちに自身の店であるマイヤー印刷店を開いて独立。この時店内に設置したスロットマシンのオペレートを手掛けたのがきっかけでコインオペマシンにも興味を抱く。

 その後1907年に別の人物が立ち上げたイグジビットサプライ社のマネージメントとエンジニアリングに勤しみ、絵葉書印刷販売機、プリント機能付き占い機、好きな文字を印字出来る金属製リボンヴェンダー……といった、非凡且つ小洒落たコインマシンを次々と開発して同社を急成長させた。

 1910年にはマイヤーがイグジビット社の実権を握り、1914年には自社ビルまで竣工。カードヴェンダーコインマシン会社として既に成功を収めつつあった。

 第一次世界大戦下におけるコインマシン低迷期もイグジビット社は逞しく乗り切っており、当時いかがわしい雰囲気のサロンとなりつつあったペニーアーケードの需要に対応。
 カップル向けのラブレターカード自販機や、みだらな美女の媚態を覗き見るピーピングマシンの開発で不況をしのいだという。

 1920年代に入ると禁酒法の施行によりコインマシン市場が一時的に打撃を受けるが、一方で自動車産業の急速な発展により、トラック配送の交通網が確立
 それまでせいぜい鉄道駅前のホテルとサルーンぐらいにしか置けなかったコインマシンの市場に新たな販路が開拓。郊外のレストランや食料品店、キャンディストア、床屋にまでコインオペマシンが所狭しと置かれるようになった。

 この頃イグジビットは自販機専門からアーケードゲーム市場へと本格参入。
 主力の野球選手カードヴェンダーは勿論、ドロップマシンダイスマシン測定器アイアンクローマシン(初期型クレーンゲーム)等々の流行を網羅。忽ちコインマシンメーカーの雄へとのし上がった。


 1932年のバリー製ピンボール「バリーフー」による怒涛の5万台セールスの業界大熱狂時にも当然の如くイグジビットは黙っておらず、遂に同社ピンボールの処女作「プレイボール('32/5)」を発表する。
 しかしそのプレイボールのフィールドデザインを良く見ると、釘と穴の配置はバリーフーをそっくりそのままコピーキャット
 うまく野球グラウンドのアートワークで各塁とホームベースをあてがえ、まるでオリジナル作のような野球テーマ台へと狡猾に転換していた。

 ピンボールマシンのセールス好調ぶりに気を良くしたマイヤーは、部門の統括者として

 “業界一豪快で華やかなお人柄” “誠実を装ったペテン師” “アイディアは全部パクリばっかり” “実はマーケティングの天才では”

 ……等々、毀誉褒貶の噂が立つ、クロード.R.カークをピンボール部門のジェネラルマネージャーに迎え入れた。


 クロード.R.カークは1925年にロザンゼルスでニューヨークの有価証券を売っていたが、自分に向いていないと悟ったカークは店を畳んで、西部劇俳優で映画監督のハリー・ケリー(1878〜1947)のマネージャーアシスタント業務に従事、スタジオやロケーション撮影の雑務に奔走する。

 その節にオールドスタイルなバーのセットとしてスロットマシンの拝借や取扱いを手配するうち、西部劇よりもコインマシンに魅了されていったという。
 そしてスロット筐体の収益の凄まじさを知った途端、芸能マネージャーの仕事を放りだし、コインマシンインダストリーの世界へと飛び込んだのだった。1926年のことである。


 ところで話は逸れるが、西部開拓時代にスロットマシンがあったかどうかの時代考証や、西部劇の映画やテレビドラマにスロットマシンやコインマシンが登場するものなのか、疑問に思われる諸兄も多いかと思う。

 そこで、参考に映画「ガンヒルの決斗('59)」の動画リンクを資料として留めておきたい。
 確かに、サルーンの場面のバックに、レバーを回して遊ぶルーレットタイプのスロットマシンが劇のカメラワーク上に垣間見えている。

 尚、スロットマシンの起源であり、コインを入れて賭博を楽しむポーカーマシンの発明は、西部開拓時代末期すれすれの1890年である。
 時代考証的には少し無理があるものの、西部劇で手合い共がサルーンで賭博に勤しむいかがわしさとゴージャス感を演出すべく、多少の時代考証が前後しようとも、賭博の機械がバーのセットとして置かれることは珍しくなかったそうだ。


 閑話休題。そんな1920年代のコインマシン産業へ没入していったクロード.R.カークは、'27年に早くも自社を立ち上げてコインオペレートの仕事を始めるものの相棒とうまくいかず、会社を明け渡したのちに暫く各地を放浪。
 再びカリフォルニア州に戻り、そこでコインオペ及びマニュファクチュアの商売に専心する。
 この時彼が作った「ラーク」というカウンター台のコインオペマシンが大当たりし、その腕前を見込んだイグジビット社のマイヤー社長から声が掛かる。

 “是非カリフォルニアからイリノイシカゴに移ってくれ。君にはイグジビットの副社長になって貰いたい。”

 こうしてクロード.R.カークはエスコピンボールのジェネラルマネージャーに就任
 ゴットリーブやバリー、ゲンコ、ミルズ、キーニー、ロックオーラらと比肩する大手一脈として、イグジビットの業績をせり上げてゆくことになるのだった。


 ハリー・ウィリアムスのデザインによる「ライトニング('34/4)」のライセンス製造で十分な収益をあげたイグジビットは、同年の下半期には「ゴールデンゲート('34/8)」「ドロップキック('34/10)」「パスキック('34/11)」「リバウンド('34/12)」と、セールス数千台規模のソレノイドキッカーピンボールメガヒット作を畳み掛けるように連発した。

 ゴールデンゲート、ドロップキック、パスキックを立て続けにデザインしたのは、'20年代にミルズノヴェルティー社のスロット開発で研鑽を積んだ熟練のデザイナー、ブルーノ・ラーキ

 当時カリフォルニアで建設中だったゴールデンゲートブリッジにあやかった「ゴールデンゲート」は同社初の完全オリジナルデザイン、且つ同社初のソレノイドキッカー搭載台だった。

 巨額ボーナスホールの群生ゾーン入口にキャプチャーさせておいたボールは、トップホール・インでゲート解放!放たれたボールは下部のキッカーバーからドカッとソレノイドアクション。ベルが鳴り響いて高得点がなだれ込む、そのダイナミックなゲーム性の快感が大好評となった。

 ソレノイドキッカーのアイディアは、アール&コーラー社「キャノンボール('34/2)」及びバリー製「フリート('34/6)」の方が先達だったが、劇的なキッカーの措定によるイグジビットのデザインの方がゲーム性は高く、プレイヤーからの支持はゴールデンゲートの方が圧倒的であった。

 次作「ドロップキック」はフィールド端にキャプティヴされた衝突球ポケットに入ると球がキッカーコイルへとパスされ、畳み掛けるようにドカンとコイル発射。フットボールのパスとシュートを再現したゲーム性が耳目を集める。次作「パスキック」はそのサッカー版。
 発売のタイミングとしてフットボール開幕シーズンの時機を狙ったり、サッカー人気の高い欧州国用に商品を別バージョンのサッカーテーマでアレンジしたり。カークらのマーケティングに抜かりは無かった。

 ゲームは評判が評判を呼び、バックオーダーが続出。同社は再生産業務に追われ始めた。

 そしてイグジビット社最大のヒット作となったのが「リバウンド」

 元はカリフォルニアゲームズという小さな会社がデザインしたソレノイドコイルキッカーピンボールで、それを見初めたイグジビット社のロサンゼルス支部がライセンス契約。
 エスコのエンジニア達がブラッシュアップして完璧な仕上がりとなり、製造・販売された商品であった。

 業界初のループフィーチャー搭載台で、スキルプランジで慎重に狙ったボールがキッカーに入ると、今で言うワイヤーランプレーン(!)に向かってソレノイドキックアウト!宙をワイヤー滑空するボールは赤く塗られた高得点ゾーンへ着地。
 しかしビッグポイントに入りそうで入らないボールの先行きは、通常だとアウトホールの位置にあるもう一つのキックアウトホールに
 すると再びフィールド上部へドカンと発射。またポケットへ、更にポケットへ……!

 ……と、上手く行けば連鎖に連鎖がループしてゆくボールアクションに、当時のプレイヤー達は大興奮。ディストリとオペレーター達からの猛烈な再オーダーがイグジビットへ殺到した。

 同社元ロサンゼルス支部のオーナーは当時の忙殺ぶりをよく覚えているという。

 “イグジビットは本社と支社の工場2棟を昼夜フル稼働させていたけど、それでもとても間に合わない。数週間の間、「リバウンド」と「ドロップキック」に殺到するバックオーダーに対応すべく、生産も箱詰めも出荷も、社員総出でてんやわんや。もう滅茶苦茶に忙しかったよ。”

 単なる模倣台業者から忽ちピンボールメーカーの急先鋒に躍り出た同社は1935年末、厖大化したピンボールディヴィジョンの業務対応の為、会社を再編成

 「リバウンド」の創案元だったカリフォルニアゲームズ社を買収し、ロサンゼルス支部も移転。
 コインオペ産業市場が尚も急騰し続ける工業都市シカゴへ本拠地を統合
 マイヤー、カーク、そしてチャールズ.E.クリーヴランドの3人が改めてイグジビット社のフロントマンとなった。

 尚、同じ理由でハリー・ウィリアムスもロサンゼルスからシカゴへ移っており、A.M.アミューズメント社も南カリフォルニアからシカゴへこの時期に移転している。


 そんな華々しい栄華を謳歌する一方で、カークらは同時期にピンボールのチケットヴェンダー化計画に失敗、大きな損失も出している。

 クロード.R.カークはペイアウトの代わりにスコアのプリントアウト機能をピンボールに常備することを思いつき、'34年の半ば頃に前述の要職チャールズ.E.クリーヴランドの出資により、チケットピンボール制作専用の子会社“スタンダードチケットゲームズコーポレーション”を設立。
 シカゴコイン社出身のエンジニア エドワード.E.コリソンを招聘の上、試作台の制作に没頭した。

 その新機軸ピンボールの名は「スタンダード」

 ピンとホールの配置は文字通りスタンダードなデザインで、目立つ仕掛けはボールトラップがあるくらい。
 しかしゲーム終了後の合計スコアが、換金や景品交換に利用可能なチケットとして、その都度プレイヤーにプリントアウトされる機能があった。
 キャビネット内には同時にオペレーター向けのプリンターデヴァイスも備わっており、当時としては非常に良く出来た装置だったそうだ。

 セールスマネージャーのレオ.J.ケリーの加入もあり、パテントも登録の上、コインマシンエキスポにも出品されて大々的な宣伝が鳴り物入りでぶちあげられた。

 しかし、「スタンダード」の売り上げは低迷した

 その年のコインマシンショーにおいてはストナー社製の競馬テーマ作「ターフチャンプス('36/1)」がピンボール界隈を席捲。
 戦況やスコアをカラフルなスコアボードに電飾明滅させた、その明瞭さと華やかさに注目が集まった。

 プレイヤー達は皆、ハイスコアをカタカタと地味にプリントされるより、皆に見えるよう派手やかに電飾で標榜されることを望んだのである。
 しかもストナー社はそのターフチャンプスのチケットヴェンダー版もしっかり出品していたのだから、イグジビットにとっては分が悪い。

 確かに、プリントアウト機能搭載台は当時斬新であり、「トラフィック」のバリー「ティッカー」のパシフィックなど、追従した他社も散見されたものの、1936年が終わる頃には、プレイヤーもオペレーターも、プリントアウト機能付きピンボールには誰も見向きしなくなっていた
 しかし高性能故、他業種でのライセンス購入が時折見られ、多少のロイヤリティが入ってきたのが救いだったという。

 同社はその後、スキルショットの成功で赤・緑・黄色のカラフルな盤面ライトが明滅する「スターライト('35)」や、スコア及びヴァリューの倍率をバックボックスでライティング表示する演出が評価された「ガッシャー('36)」等々、まずまずのヒット作に恵まれる。

 直後にイグジビットは、ピンボール業界きっての天才且つ聡明な紳士としても名高いハリー・ウィリアムスと、才気煥発なメカニック リン・デュラント、そして才幹なマネージメントのハーブ・エッティンガーという、優秀なスタッフ人材の確保に成功している。

 3人とも名門ロックオーラ社で辣腕を振るっていた傑物で、運悪く第二次世界大戦勃発により揃って数年で退社となるものの、その間の'30年代後半から'40年代前半にわたってイグジビット社ピンボール部門に大きな成功をもたらした
 残されたピンボール部門のスタッフらもハリー達の薫陶を大いに受けたという。

 そんなハリー・ウィリアムスの残した生成りのプレイフィールド・ホワイドウッドを商品化したリプレイルール台「ファストボール('46)」は、エスコらしい野球コンセプト作。
 肌も露わなグラマラス美女が乱舞するエスコの前作「ビッグヒット('46)」も含め、終戦によるピンボール製造禁止令解禁後の、鎮定と平穏を喜ばしく祝うような3年ぶりの新機種ピンボールリリースとなった。

 禁止令発布前の戦時中ピンボールアートは、戦車や戦闘機、軍隊や爆撃など、富国強兵と軍事称賛テーマのアートばかりだったのだから。


 こうして、アーケードゲーム、ピンボール、カードヴェンダー、そして戦時中に従事させられた爆撃用スイッチや潜水艦用レーダー部品製造の技能と知識が発展した“エレクトロスナップ部門”
 これらがその後のイグジビットの主力産業となっていくのだが、そんな明るい展望に満ちていたはずの1948年。同社に不祝儀の年が訪れる

 アーケードセールスマネージャー主力の一人であるパーク・スミスと、ジェネラルセールスマネージャーのジョン・クレストが相次いで死去してしまう。

 永らくイグジビットを牽引してきたプレジデントのジョン.F.マイヤーは突然過ぎる片腕達の喪失に傷心と失意の末に精神疾患を患い、同年11月に他界。享年67歳だった。


 ジョン・フランク・マイヤーの死去に伴い、親族と幹部らの共同経営により会社は継続。

 '50年代に入ると野球選手カードヴェンダーによるベースボールカード史上最大のブームが到来。
 再び多忙となった同社の従業員雇用人数は300人近くにまでのぼった。

 1957年に同社の役職を勤めていたチェット・ゴアがプレジデントへ就任するとイグジビット社の方針が変わり、アーケードエレメカやピンボールの生産がぱったりとやんでしまう

 1953年製「エレクトリックホッケー」が同社最後のピンボール機種となり、1957年製野球エレメカ「ベースボールピッチ」が彼ら最後のアーケードゲーム製品となった。

 会社の事業縮小が始まったのは1970年代末頃。

 同社各部門と工場の売却が進められ、1985年のチェット・ゴア社長の引退表明と共に、イグジビットサプライ社全ての解体が終了した。


 アメリカのオールド・ベースボールカード・コレクターの話によると、イグジビットのマイヤー社長は実際のところ野球などには全く興味が無く、ビジネスとして割り切って往なしていた冷酷な人物だったことが述べられている。

 ……いや?そんなことはないはず。

 イグジビット社ピンボールの記念すべき一作目は「プレイボール」だったし、終戦後最初に企画されたピンボールは野球台「ファストボール」で、そして同社最後のエレメカは「ベースボールピッチ」である。
 イグジビットサプライが最初から最後までベースボールに厚い信頼を寄せて希望を託していた証左が、ピンボール史の断面からも十分に窺えるのではないだろうか。

 イグジビットは、最後まで野球を愛していたのだ。




(最終更新日2019年8月26日)