ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆ゲンコ社/Genco Manufacturing Company/1931〜1958

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― 翻訳中のメモ書きにつき飛ばし読み推奨、清書は後日アップします ―
スティーヴコーデックとウェインナイアンズは講演時、97歳と90歳。永らく敵対関係だったが、共に引退後は交誼を結んだ。ノーム・クラークも会場に居たが、健康上の問題でステージに上がれない。少しでも皆に見えるよう、トークがしやすいよう、前に出て貰った。 わざわざウェインの元に、アンカーソーからスティーヴが訪ねて来てくれたそう。今はこの近くに弟が住んでるんだ、一緒にランチでも行こう、って。 クリスマスにすてぃーヴは弟さんと来てくれた。奥さんが病床に伏していたが、料理が得意なウェインは腕を振るった。全てたいらげてくれて嬉しかったそうだ。 コーデックは1930年に高校を卒業し、電気工学を専攻して大学に入学。 ところが大恐慌が起き、大学を中退せねばならなくなった。8人兄弟。失業した父は周二日しか仕事が無い。母も時々夜勤に行けるのがやっと。 Sコーデックも大学を辞めて働きに出たが、時給は10¢だった。 しかしCCC(市民自然保護隊)へ入隊、アイダホに送られた。手当は自分に月5ドル、両親への仕送りが月25$。 その後CCCを卒業し、森林局の消防隊員となった。 素晴らしい経験だったが、コーデックはアイダホにとどまる気は無かった。家族のいるシカゴに戻りたかったのだ。森林局留意したが、1936年冬、コーデックはシカゴへ帰った。教会に通いながら仕事を探す毎日。世は大不況。なかなか仕事なんかみつからない。 1937年の4月のこと。street at Ashland Ave. アシュランドアヴェニューを歩いていたらにわか雨にあった。たまたま雨宿りしたのがゲンコ社のビル。女性が扉を開けてくれた。“あなた仕事を探してるの?はんだ付け得意?” こうしてゲンコに入社した。元々消防隊員は体力や機敏さだけでなく、無線機の扱いなどが得意でないとつとまらない。コーデックはメカや電気にはめっぽう強かった。 sounding-lineに配属位された。(これが音響部なのか海で水深を測る測深線のことなのかは不明)彼は優秀なのでエンジニアリング部門の方がでふさわしい、と言い出した人物がいた。ハーヴェイ・ヘイスだった。 彼からは多くのことを学んだ。ゲームの作り方、なぜそんなゲームを造るべきなのか、どうすればプレイヤーを満足させられるか。コーデックは薫陶を受けた。 1947年にヘイスが病床に伏して入院、彼不在のまま1948年のシカゴのコインマシンショーを迎えた。 同年12月、未だヘイスは復調出来ていない。会社は君がゲームを作れ、と。初めてピンボールのデザインチーフとなった。それで出来上がったのが「トリプルアクション」ゲームに3つのアクションがあるからそう名付けた。しかし最も重要なのはフリッパーを登用したこと。その3か月前にハリーマブスが「ハンプティ・ダンプティ」を手掛けている。フリッパーは真ん中に2つ、サイドに2つ。 コーデックはハーヴェイヘイスに“慎重たれ。勇み足を運ぶなかれ。”と強く言い聞かされていた。だからハンプティの様に4つも6つもあちこあち付けるのを控えたんだ。下部に一対だけ。その方が面白い。 「トリプルアクション」が完成し、ショーで発表された時、大旋風を巻き起こした。 こうして、フリッパーは下部一対のスタイルが定着し始めた。 しかしゲンコがピンボール部門撤退を決めて、2,3ヵ月バリーに行ったけど、1960年にウィリアムスに入社したんだ。ハリーウィリアムスは勿論、ノーム・クラークと出会った。素晴らしい仕事を共にこなした。 この業界について、ある一人の大物の話をしよう。ホーマー・ケイプハート。ジュークボックス会社の経営者で、最初の上院議員となった人物だ。アルヴィン・ゴットリーブと同い年。 ウォーレン・バフェットもピンボールマシンからビジネスをスタートさせた。彼は高校生の時にピンボールを床屋にリースして収益を上げた。ほとんどがゴットリーブの機種。で、その販路を売って儲け、更に新しいビジネスを手掛けて素封家となった。 ハリーマブスは全身からアイディアが漲るような卓越なエンジニアだった。レーンを通ってスイッチが反応すると、バットが自動的にボールを打った。面白い!商品化しよう!当初は2つしかついていなかったが、最終的には6つ取り付けて、ハンプティーダンプティーが完成した。  でも近い時期の「ナッヂィ」を知っているかな。ボールをコントロールするゲームがバリーにあるって言われて驚いて、確認した所、フリッパーとかバットで打つのではなく、盤面が前後に動くものだったんだ。だから安心してハンプティーダンプティーを発売出来た。 その後、フリッパー無しにしてピンボールは売れるもんではなくなった。フリッパー取り付けキットが本体よりもよく売れた。そんな時代だった。 フリッパーが本当にこの業界を救った。ハリー・マブスがギャンブル依存のピンボールから活路を開いてくれたことは間違いない。 ウィリアムスにも功労がある初めてノックオフボタンをピンボールから外したのだから(knockoff button off the games) 1942年43年にリンデュラントとハリーウィリアムスが一緒に会社を立ち上げた。1年ぐらい一緒にやっていたが、なんと同じ女性を好きになってしまった。それでどっちかが去るべし、となって、コインの裏表で決定。ハリーが去ることとなった。 それでハリーウィリアムスはウィリアムス社を自分で立ち上げたのだ。1945年「サスペンス」が第1作。 ゲンコがコインマシンから撤退し、バリーにしばらくいたコーデックの元に、ウィリアムスからお誘いがかかる。 ウィリアムスに移った時、ゴットリーブ6本フリッパーの発案者ハリー・マブスがいた。しかし既に高齢で、デザインチーフとして采配できる先鋭さは後退していた。 1937年から1998年まで61年間。私はとんでもなく素晴らしい濃密な時間をこの業界で過ごした。楽しかった。楽し過ぎた。 フィールド下部に一対フリッパーを作った時のことも、ウィリアムスの皆とドロップターゲットを発明してパテントを取得出来た時のことも忘れられない。 最初のドロップターゲットはコーデックが発明した。但し円形である。 ゲンコ社は大手と言えるメーカーだったが、何が起きたのか。 '30年代。ゲンズバーグ兄弟達は シカゴの北側でスターが住んでいたような角の不動産物件を買い占めた。それが高騰して、儲けたお金で更に投資を進めた。(Miss Gentryはゲンコの事務員?奥さん?) 支払った税金の額を覗いたことがあるが、凄まじい儲けぶりだった。 ゲンズバーグ兄弟は別のグループと共同で、ラスヴェガス初の高層ホテルをオープンした。彼等は事業をカジノホテル経営にシフト、専心することにした。地下に豪華なギャンブルホールがある。 しかしホテル経営の舵取りは難しく、結局ホテル運営に手慣れた人たちに売るはめになった。 コインマシン事業としてのゲンコはシカゴコインの社長サム・ゲンズバーグの娘さん夫婦が引き継いだが、うまくいかず、結局たたむこととなった。 自分を含む電気技師、機会技師、ライン管理者が行き場を失っていると、ユナイテッド社からお誘いの電話が入る。ピンボールデザイナーの仕事をやってくれ、と。 『俺を含めた4人、友人たち全員の面倒を見てくれるならいい。みな大事な友達ばかりなんだ』 答えはNo。ユナイテッドデザイナーへの誘いは破談となった。 次に、バリー社のビル・オドネルの所へ相談に行った。 すると4人全員雇ってもらえることとなった。 そこでガンゲーム筐体をデザインしていると、サム・スターンから、極めて好条件でのデザインチーフ職のオファーを貰った。ビル・オドネルに告げると、仕方ない。しかし約束してくれ。あの優秀な3人は、絶対連れてってくれるなよ! 結局その友人3人は生涯バリーに献身した。3人とも定年退職し、まとまった退職金を貰って引退した。 そしてコーデックは親会社シーバーグ、子会社ウィリアムスに雇われることとなった。 ゲンコ時代の仕事も素晴らしかった。 電気工学の基礎があった。C電池(Cバッテリー)は知っているか。当時はC電池を使ってエレキピンボールが稼働していた。C電池、 幅が845インチ、長さが10インチくらいある。これが匂うんだ。臭かった。  で、コンセントプラグ化したのはいいが、当時は差し込む場所が無い部屋、建物がまだまだあった。なので、照明や電気製品を改造してコンセントプラグを差し込むというセットアップが必要なことがあった。これが私の功労であり、ピンボールキャリアのスタートだ。 ウィリアムスで、1960年頃になると、1年で9機種手掛けた。その頃ノーム・クラークがエンジニアリングとゲームデザインに携わっていた。私一人でピンボールを仕上げるのはつらくなってきたので、彼とコンビを組むこととなった。1966年頃のことだ。ノーマンとはよく衝突したが、結果良い製品が数多くつくられた。 結局シーバーグへ移籍することとなった。一番の理由は、当時のシーバーグはガンゲームを扱っており、コーデックには新たなガンゲームのアイディアがあったからだった。ライフルガンゲーム「コインハント」がそうだ。 ソリッドステイトの時代に入った。今までできなかった、2人用4人用がスムースに捌けるようになった。今までは複数人数プレイをしようとしても、十分な数のリレーを組み込むのが難しかった。ノームクラークのエイトボール。 '60年代だって、一機種作るのに、プランからアートから設計からテストからデザインから、1年かかった。  デイヴゴットリーブは皆を外に食事に連れて行くことはしなかったし、ランチは僅か30分とし、腕のいい女性コックを社内食堂を任せていた。  これは他社御用達《ラウンドロビン》に行かせたくなかったのでは、と言われている。特にウィリアムスやバリーのエンジニア達がよく昼も夜も食事を採っていた安くてうまいレストランである。 デヴィッドゴットリーブは、自社の優秀なスタッフが、そのレストランで移籍を誘われて、そのまま移ってしまうのを恐れていた、というのだ。 ゲンコは1931年発足。当初はウォールマシンメーカーで、ぐるぐるスパイラル盤面タイプのカウンタートップが初製品。ルー、デイヴ、マイヤーの、ゲンズバーグ3兄弟。因みに末っ子サム・ゲンズバーグはシカゴリヴァーを挟んでシカゴコイン社をたちあげている。  彼らがピンゲームで頭角を顕わしたのは「O.K.」。1932年5月。何とランプレーンがある。「モナーク」を真似たもの。  ゲンコらが良く使う手は、“他社を真似るが、一部を改良し、より良いものを作る。”例えばバリー社の「グーフィー」を「ジッガーズ」にして売り捌く。  同年6月、より大きな工場が必要となった彼らはシカゴのレーヴェンズウッド・アヴェニュー3542のロフトから、北アッシュランド・あヴェにゅー2621ビルに移転。より人通りの多い工業地帯沿い。この好立地によりゲンコは一層ピンメーカーとしての地位を得ることになる。既に「モンテカルロ」「バスターボール」もある程度売れており、また従前のカウンターゲームも好評だった。 1933年のマシンショーでは2ブース、一挙に大手一社に躍り出た。「モンテカルロ」、「バスターボール」、「ジガーズJR」、「ジガーズシニア」の旧作のもならず、「アドミラル(例のスパイラルランプレーン登用)」、「ティップトップ」、「スーパースペシャル」、「コマンダー」、そして、「ブラックビューティ」と「20センチュリー」はオペレーターの間で注目を集めた。 ブースでは「ジッガーズ」の巨大模型を設置、強力に訴求。 今回の出展ブースは多様で非常に充実しており、オペレーターはそれら製品の華やかさに目移りした。スパイラルランプレーン搭載機種、ミニサイズティップトップ、ジッターズの杉の木キャビネット筐体版「ジッターズスーパースペシャル」はゴージャスな外観は圧倒的。そしてシークレットの「ニューセンシュリー」は“当社工場に来られた方のみ限定公開”ともったいぶった紹介の仕方で気を引いていた。 『開発途中の台は展示しなかった。必ず完成し、清算に入っており、販売できるものだけを展示した。購入したバイヤーが帰宅する頃には玄関に配達されているような差配を心掛けた。』とハーヴェイヘイスは語っている。 で、そのシークレット「ニューセンチュリー」はゴットリーブのブロードキャスト、バリーのエアウェイに比肩する程の画期的なモデルだった。なんとリールドラム点数表示があり、入賞の度に点数をカウントするのだ。  スコア計算はパートごと6か所に分かれており、全トータライズまでは実現していないが、得たスコアを表示するだけの他社より十二分に画期的で高性能だ。 ゲンコはバリーやゴットリーブの模倣が中心だが、常にオリジナルより僅かに進化が施された優れものばかりだった。オリジナルパテントによるニューセンチュリーの下段フィールド6本スコアリングドラムを引き続き採用、トラップドアの蓋もちゃっかり設えて「シルヴァーカップ」を発表。1933年7月。 『5万台売れた。マシン手前にスコアカウンターを設えたのは我々ゲンコが初めて。はやりの便座もつけた。あのトイレのフタを最初にやったのはゴットリーブのビッグブロードキャストだったけど、我々はパクらせて頂いた。当時はみんななんでも盗作し、真似し真似さえる世界だったね。入賞ホールがカウント機能になっていて、スポークに当たってウィールを巻き上げる。コイン投入でドッグが立ち上がり、リセット、次のゲームが始められた。』ハーヴェイヘイス。 初期ヴァージョンは鋳造が粗かったものの、8月にはブラッシュアップ。オーダーも生産量も追加追加、9月の最終版はアルミ鋳造の銀のカップのデザインが左右と中央手前に加えられ、美観は完璧となった。  またゲンコは他社よりディストリビューターが国際的だった。ピンボールを見たことが無い国々にもピンボールを広めた。 “ダブルスコアトータライザーを搭載した、世界で唯一のPinGAme。即座にスコアが加算されます。世界初の大成功!” イギリスの販売代理店スコット・アディッケス社はイギリス及び英連邦で販売、さらにフランス、ドイツの営業所を通じてヨーロッパに持ち込んだ。ゲンコはこうしてピンボールメーカー大手の一社に躍り出た。  余談だが、パチンコ史研究家の杉山一夫さん所有の現存日本製最古のピンボール「BASEBALL」は、ゲンコ社の「オフィシャルベースボール」をコピーしたものである。  元々ボールが出塁してホームイン、得点加算する野球ピンボールの名作と言えば、回転するダイヤルディスク構造のロックオーラ社製7万台セールスの大ヒット作「ワールズシリーズ」のはずだが、なぜかダイヤル非使用でヒット、出塁、ホームランを表現したゲンコのパクリ版オフィシャルベースボールの方が日本に伝わってきてしまっている。  これは恐らくそのスコットアデッケス社が国際的に流通させたオフィシャルベースボールが、日本の相浦遊戯器製作所の手に渡ったのだろう。 https://www.pachinko-tanjo.com/details1001017.html Genco made that a virtue, and positioned the game as being just as skill controlled as the others. "Many of the largest distributors and operators in the country have ordered NEW CENTURY sight unseen. Has everything to make NEW CENTURY the most highly competitive and appealing play in history. The hole does not close after the ball enters, but if you are skillful enough and can shoot all ten balls in any one hole, they will all register, already added for you, in the new, sensational 'Totalizer' on NEW CENTURY. Remember, NEW CENTURY is equipped



(最終更新日2019年8月26日)