ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆イン・アンド・アウトドア・ゲームズ社/In and Outdoor Games Company/1931〜1932)

― ※翻訳途中メモ書きにつき飛ばし読み推奨、清書は後日アップします ―
ピンボール産業の勃興はとても激しいものだったが、淘汰も容赦ないものだった。一番最初に息吹を吹き込んだはずの小さなメーカーは、どこよりも早く消えていった。1930年6月に「フーピー」を発売したシカゴのイン&アウトドアゲームズ社は、1932年夏にはピンボール事業から撤退していた。オハイオ州ヤングスタウンのオートマチックインダストリーズ社は次々商品を開発し奮闘するものの、1932年9月には、創業者の一人である薬剤師のマイル・A・パークと、彼の銀行員であるフランク・H・フィッシャーの管財人の下で運営されることになった。 ホイッフルの貢献は、サイズやキャビネットやコインメカとしてのピンボールのフォーマットを確立し、市場を耕し、ピンボールオペレーターの呼び水となった。その影響は大きい。 一方フーピーゲームの貢献は、大ヒットとは言えないものの、個イオンマシン業界人達にこれからピンボールが来る、という期待と展望を与えた。どちらも大恐慌の落とし子である。ピンボールのみならずコインマシンアミューズメント大勃興の前哨戦は、この2機種である。  この後の展開は、半年前には全く予想できないような事態だった。1台100$以上、1ゲーム5¢のピンテーブルが、全く何も無い状態から1931年末には全米で熱狂的大ブレイクゲームになっていた。一気に新しい分野、新しい市場、新しい産業が突如拓かれたのだった。 「ビリヤードスキル」「ダッチプール」はピンボールマシンフォーマットの原基になっていると言って良い。1931年9月に発表された「スモールダッチプール」はピンボールタイプのプレイフィールドを備えたカウンタートップ台である。 オートマチック・インダストリーズ・インクは最初のピンボールファクトリーと言える。オハイオ州ヤングスタウン、Sフォレスト51。大恐慌真っただ中の1931年に、53人の工員と13人の従業員を雇っていた。製造数は1日100台ほど。オフィス玄関のガラスにはWHIFFLEと主力商品名が書かれている。親族提供の当時の集合写真には、階段側に役員のフルーム、パーク、ポーリンが立っている。キャンディーストア経営者ジェームズSニコラス。カウンタートップマーブルゲーム。「ロール・ア・ボール」「ビンゴ・ボール」「バッフル・ボール」の前身である。 1931年12月12日号のビルボード。ゴットリーブがディストリを試みたノースウェストコイン社製「ストップアンドソック」、ゴットリーブとブンゴノヴェルティー社が共同で製造した「ビンゴ」、キーニー社による初広告出稿「バッフルボール」、スキルオー工業社の「スキルオー」来週登場!が全部同じ号に掲載されている。 この2つの、同時期に2箇所から勃発したコインマシンゲームの発展は、飽く迄偶然とされている。オハイオ州ヤングタウン1931年春のホイッフル。 「ホイッフル」の亜流「フーピーゲーム」は、ビルボード誌1928年3月31日号で初めて掲載されている。この名前はエディー・カンター主演のブロードウェイショー28〜29年から名前を取っている。1930年には映画化されている。 Eddie Cantor 1956年にオスカー賞受賞、、「Makin'Whoopee」は彼のヒット曲1920年代〜40年代に活躍したコメディアン俳優 Whoopee! (1930) as Henry Williams Whoopee! (1928) ? musical comedy ? actor in the role of "Henry Williams" ゲームデザインとマニュファクチャーはニック・バーンズ。コピライトが2年後発の商品に難癖をつけたが、それは1929年12月にシカゴのビルの管理人ジョージ・デプレッズを相手取ったものだった。 シカゴ北部。Wローレンスアヴェニュー1217。射撃場の裏手に所在したイン&アウトドアゲームズ社は、(1930年?)3月に勇み足で出してしまった広告に、製造を間に合わせる事ができなかった。 その結果、ホイッフルとフーピーゲームは同時に市場に出て、同時期に高いセールスを記録した。ホイッフルが頭一つ抜けでながらも。1931年の夏、フーピーゲームは製造、搬出、配送のシステムが整っており、更に6月から年末にかけては業界誌に広告を盛んに出稿した。それは終わりではなく、始動。 「ザ・フーピーゲーム」のプレイフィールドの元となっているのは、モダンゲームズアンドノヴェルティー社製「プレイスリーズ」“Play Threes”なるバガテルだった。バッフルボールに似ている。コインを挿入すると、10個のボールが右のトレイに落とされる。プレイヤーはそれを1個ずつシューターに乗せて、打つ。シャトルのリセットでボールが下層に落ちて次のゲームが出来る。これ時々ボールが無くなったのだが、十分なヒット作となり、インアンドアウトドアゲームズ社はやかましい射撃場の一角から移転することが出来た。ノースブロードウェイ4753へ。そこで量産と販売に専念した。 しかしデザインがお粗末で、ボール管理メカもきちんとしてなかったので、1932年のシカゴショーに間に合うよう再構築した。ボール管理メカは内部に格納された。フーピーゲームと同じようにニッケルでボール10個がオペレートされた。ニッケルをインサートすると、サイドハンドル(クランクレバー)を押し下げて、シューターレーンにボールをセットできる。プレイフィールドはおんなじ。でも、入賞ホールがアルミ製で豪華な雰囲気の、ダイヤモンドシェイプを象っていた。見てくれ的にはバッフルボールのデザインより優れている点もあった。 今で言うモールディングバーやエプロン部分にインストラクションカードフレームがあった。フーピーでは楕円フレームだったがスポットボールではダイヤ型に。 センタートップホールにキャプチャーされているカラーボールを通常のボールで打ち落とすと、スコアは2倍というルール。次のゲームプレイヤーがニッケルをスライドさせると、ちゃんと新たなダブルボーナス用のボールがそこへ落とされ、準備が整う。 イン&アウトドアゲームズ社は1932年の初めから数か月間、業界誌に広告を打ち、マシンショーでは自信作「フーピーゲーム」「スポットボール」を展示し、業界に向け全力で訴求した。 『クルミ木材による美しさ。はめ込み式のプレイフィールド、クローム製の金具、ずっしりとしたフィールドガラス。頑丈で完璧な構造。今後当社の盤面の交換するだけで新しいゲームにすることも出きますよ』  しかしその後状況が一変。 遊びに新しさがない分、メーカーは「重厚な外観、頑丈な構造、魅力的な技術的魅力」をアピールし、「何よりも際立っている理由は、それだけでビジネスになるからだ」と語っている。SPOT BALLの構造については、「美しいウォールナット、はめ込み式の木目パネル、クロム製の金具、重厚な面取りガラス、頑丈な構造、機械的に完璧です。必要に応じて現在のプレイボードを交換して、まったく新しいゲームを楽しむことができる」。しかし、それだけでは市場での地位を維持することはできなかった。In And Out-Door Games Companyは、1932年の初めの数ヶ月間、全面的な広告キャンペーンを続け、WHOPEE GAMEとSPOT BALLをブース39に展示してショーを独占したが、その後すぐに状況は一変した。 翌年の春にピンボールを1作出したものの、その年末にゲーム産業から撤退している。同社が標榜した、スポットボールから、はめ込み交換可能のプレイフィールドは、発売された形跡が無い。広告もみつかっていない。 「フーピーゲーム」は、ピンボール産業にとって、初めての出版物への広告出稿を果たした商品である。1931年3月発行のビルボード誌掲載の、ページスペース4分の一サイズ。実は大急ぎで作成して作られたもの。出版担当のジャックスローンが宣伝文句を書き、出稿出向締め切りの僅か2日前にローレンス&ブロードウェイにあるニックバムズ射撃場のバックルームで真夜中に撮影したものだった。 1910年代後半から1920年代末頃まで、くすぶってはいたがなかなか火がつかなかった。 1917年にウィスコンシン州の田舎町リブレイクのフランクHエリソンは1917年8月に精巧な出来のコインオペレートマシンバガテル「サイクロ」を発明したがすぐに消滅。1930年11月にエリソンは「サイクロU」を企図したが既にバガテルコインマシン化は群雄割拠で予選落ちの状況。 1926年ガッターノヴェルティー社「ボール・シューター」がクレヴァーランドのウィリアムゲントヴェンディング社及びイグジビットサプライの目に留まり、イグジビットは「インプローヴドファイヴボールシューター」として1292年に発売。しかし未だブレイクに至らず。  一方イギリスではエセックスオートマチック工業が「アキュミュレイティングボールヴェンダー」を1927年発表。ワンボール制ペイアウトピンボールを生み出したが全く受け入れられなかった。 1920年代後半の時節において、その後のピンボールフォーマットに最も肉薄していたのは、ABT社のカウンタートップミニチュアビリヤードだった。これは1927年から1931年秋までに製造されたロングセラー機だった。これは1920年代初頭に始まった「ターゲット・ピストル」の派生品。このターゲットピストルは1920年代後半を代表するカウンタートップコインマシンゲームで、多くの派生品を生み出し、1928年製「ビリヤード・スキル」の登場につながった。ピストルガンゲームのシュートがボールゲーむにフィットしたのだ。1931年製「ダッチ・プール」の頃にはピンボールのレイアウトになっていた。  ニューヨークシティーのコインピアノオペレーターだったサム・クレスバーグ。マーブルゲームと呼ばれていた時代に多くのカウンタートップ台を普及させていた。彼はカナダに旅行した際、指先で鉄球が打てる装置が付いた大型バガテルを目にする。そのあまりの面白さにモントリオールのスポーツ用品店でバガテルを購入。ニューヨークの自社に戻って、「これにコインシューターを取り付ければ商売になるはずだ」と考え、開発に着手した。しかしキャビネットはお粗末。ガラスをはめ、100台製造。自己製造、事故オペレート。1928年のことである。そのバガテルゲームは利益を上げたが、本業のコインピアノ製造と設置に支障が出たため、全て破棄してしまった。好調のコインピアノとピンボールが逆転するとは夢にも思わなかったそうだ。この程度のことなら他の誰かがやってるだろ。これ以上発展することはないと考えていた。 南カリフォルニアで野球を愛し、またコインマシンの将来を嘱望していた新進気鋭のゲームデザイナージョージHマイナーがたどり着いたのは、自動車整備を学んだ知識を活かして設計した野球ゲームのフロアキャビネットマシンーーー大型筐体「オートマチックベースボールゲーム」だった。1929年のこと。大ヒットの兆しを見せたが、1929年10月株式市場の暴落、30年、31年の大恐慌の襲来によりファクトリーはまわせなかった。 マイナーはバガテルをベースとした「ベースボール」を試作。アーチ形の上部はまさにバガテル。後のフリッパーを思わすバットスウィング装置まで手前に付いていた。これは1928年の夏にはもう試作されており、これがピンボールブームを引き起こす可能性はあったが、しかし至らなかった。アミューズメントマシンコーポレーションという彼の新会社で、彼のファクトリーで、投資家から資金を回してもらって製造もマーケティングをするプランだった。 彼はボールトラップもスコアリングも、ボールリターンもボールゲートも考案していたし、何よりこの時代最も重要なボールリフトもきっちり開発出来ていた。30年代前半のコインオペレートピンボールのフォーマットを完成させていた。1932年の12月、未だこれらのゲームをファクトリーに乗せて商品化する望みを捨てていなかった。シカゴの各メーカー製造元に何度も掛け合っていた。これらのゲームの価値が認められたのは数年後のこと。バリーやロックオーラがアミューズメント・マシン・コーポレーション社とマイナーの特許権を買い取り、強靭なパテントで優位に立った。 この手のカウンターボールゲームが流行る原基としてもうひとつ。1930年にテキサス州でビリヤード場が禁止された際、ミニチュアプールテーブルへの需要というものがあった。ドラッグストアやシガーストアのロケーション。テキサスで始まり、やがて各州へ広まった。これと同族扱いでキューショットコインオペバガテルがガラスカバーが付き、プランジャーが付き、個性的なクリエイティヴな機能やルールが創出され、急成長していていった。ピンボール新時代にもまたがって膾炙された「キューボール」は初代バージョンは1931年。サレア工業社、ミシガン州ミリントン。L&S工業と共にその後も続行。最終的にはミシガン州のベイシティーゲームズ社によって量産された。コピーキャットまで出回った。 1931年、1932年のピンボール産業大勃興は、それ以前の30年間、それぞれの開発者達固有のアイディア、発明、洗練の積み重ねの結晶である。 本当の意味でのピンボール産業化の源流とは。シカゴ北部の射撃場のバックヤードで血気盛んな若造新興会社によって製造された「フーピー」か。それともオハイオ州ヤングスタウンの大工が家族の為に作った「ホイッフル」か。論争が未だに続き、答えが出ていない。完全に同時期に発表、お互いの存在には全く気付かず、1931年3月に成功作のプロトタイプを公の場に出し、数日後にお互いの存在を知った。 「フーピー」誕生の発端は数年遡る。シカゴのビルボード誌の広告スタッフだったジャック・スローンは、1929年10月に起きた株式市場の大暴落、いわゆる大恐慌の到来により、広告主を探すのに苦労していた。今までの大手広告主は倒産してしまったのだ。その矢先、カーニバル用品の広告主から、“シカゴ北部のビルディングの清掃員?用務員?の話を聞いてもらえないか。皆が楽しめる新時代のゲーム、トランプ並みのゲームを発明したんだ”彼の名はベルギー人ジョージ・デプレズ。 元々大工だったが清掃員としてビルで就労。彼はおもちゃを発明して一山当てたいと考えていた。1909年、33歳でアメリカにやってきた彼は、妻と子供を養わねばならず、すぐに職を得るためにビル清掃の仕事に就いたのだった。  53歳の夏、彼はマーブル系バガテルゲームを作った。妻が気に入り、パーティーへ持ち出したところ大好評で、皆がやるつもりだったカードゲームのブリッジは放っておかれ、大盛り上がり。 彼はゲームとキャビネットデザインをパテント申請、1929年にブロードウェイで流行ったミュージカルコメディ「WHOOPEE!」にちなんで「フーピーゲーム」と命名。しかしその矢先、大恐慌が勃発。デプレズの夢は露と消えるかに思えた。 ところが奇跡が起こる。誰も着目していない段階で、目敏いスローンが清掃員の発明を見つけ出し、射撃場兼ペニーアーケード経営者ニック・バーンズにフーピーゲームの製造を持ち掛けた。  ニックバーンズはシカゴ北部ローレンス通り1217で射撃場経営者。デプレズのアパートからも近い。弟と一緒に「」イン&アウトドア・ゲームズ社を設立し、カーニバルや遊園地用の遊具やグッズを製造する会社だった。しかし1920年代の好景気から一転不況の'30年代に入り、カーニバルやアーケードが不入りとなり、新しいビジネスの模索に迫られていた。且つ自分のフィールドが活かせる事も出来るような。  その矢先、ジャックスローンから「フーピーゲーム」の製造を持ち掛けられた。バガテルボードのコインマシンテーブル化という新しさに惹かれた。バーンズは、シカゴの工業地帯の南側にあるスチュワート・アベニュー5647番地の木工所で、家庭用とリゾート地観光施設向けの新しいゲーム「WHOOPEE TABLE」の生産を開始し、地元の展示会やシカゴのダウンタウンにあるホテルなどで新製品の展示を始めた。  しかしビルボード側ジャックスローンは“これをコインマシン化すべきだ。君たちにもメカに強い業界の友人がいるだろ。彼らの協力でメカニカル化して売り出すべきなんじゃないか”ジャックはコインマシン部門の広告主に仕立てようとそう煽ったのだった。 スローンはバーンズ本拠地の木工所から2ブロックしか離れていないウェントワース通り5756番地のミッドウェイ・パターン社を推薦し、ニック・バーンズ側も額面通りそのアドバイスを素直に受け入れる。スローン落ち合って57丁目を東に向かって歩きながら、新しいゲームの可能性について展望を意気揚々と話しながら、角を曲がってミッドウェイの工場に向かった。 そこでエドワ^ドJブレイディーとC.P.ローパーに出会った。ブレイディはエンジニアリング担当、ローパーはキャビネットデザインと製造。スローンは広告主や顧客をゲットできて計画通り。 1930年のとても暑い夏。社会へ大恐慌の影響が最も深刻だった数週間の時期。発明者のバーンズと下請け製造業は何度も連絡を取り合いながら驚くほど制作がスムースに進行。2か月足らずでハンドメイドによるフーピー1号機が完成した。1930年8月にロケテスト設置したところ、1日で8$稼ぎ出す驚異的な利益を上げた。 バーンズは市場に出す前にも8か月間制作に取り組んだが、ロケテストの成功により商品化は確実だった。1931年2月にオハイオ州クリーヴランド開催のコインオペマシンショーでは開催前からフーピーゲームが話題沸騰。院安堵アウトドアゲームズにとって出品に間に合わせるべくプレッシャーとなった。商機のタイミングが性急すぎたため、ジャックスローンは大急ぎで広告のコピーを書いて出稿せねばならなかった。 “夜中の2時にシカゴのローレンスアンドブロードウェイにあったニックバーンズの射撃場の、埃っぽいバックルームで撮影して原稿を作成したんだ。近所に住んでたカメラマンを叩き起こして広告用の筐体を撮影してもらって。即入稿して、2日後のビルボードにスピード掲載にこぎつけた。1931年3月28日発行の「ザ・ビルボード」に、「このフーピーゲームは10球、1プレイ5¢、販売価格175$って。“シカゴのミニチュアゴルフ場経営者C.D.カイさん感激のお声―――フーピーゲームは今まで見たコインマシンの中で最高のものですよ。設置初日の売り上げは12$55¢、2日目は14$90¢ですよ。今も好調です”1931年ベストのコインマシン。あなたもご自分の地域で最強のオペレーターになってはいかが。 尚CDカイは実在のパターゴルフ経営者で、本当のロケテスト先で、ジャックスローンの別の顧客。 ところが1931年6月にはビルボードのみならずコインマシンジャーナルやオートマチックエイジといった競合誌にフーピーゲームの大々的な広告キャンペーンが執り行われ、フーピーゲームの広告顧客を盗られてしまった。これにはジャックは裏切られた気持ちだったろう。 尚オートマチックエイジ誌は秘密裏にミルズノヴェルティー社が出資していて、ミルズの息がかかったバイアス記事が多かった理由だ。 他社ピンテーブルが出現する1932年3月くらいまで、イン&アウトドアゲームズ社の広告は衆目を集め、フーピーシリーズのヴァリエーション機種が連綿と掲載され続けた。 ベルギー人の発案者、射撃場のオーナー、鋳造技術者、キャビネット工房店主、ビルボードの広告セールスマン。出自も畑も異なる多種多様な5人組によってピンボール産業の第一歩が進められた、と思われていたが、ピンボールの黎明はそれだけではない。  そっくりなピンボールはじめて物語が別の地域で、よく似た軌道を辿りながら、よく似たメンバーによって起こっていた。別の3人のグループが全く同じ時期に! 1931年11月12月、バッフルボールのバックオーダーが累積。業界はピンゲームの新勢力を認識していたものの、これから起こる巨大なうねりは全く予想しておらず、識者の予想を覆した。作っても作っても足りない。大量生産への臨機応変、機略縦横が生産側に求められた。 1931年の10月頃は識者たちは“最近のコインマシンには目新しさが無い”と嘆いていたが、あっという間にピンゲームの怒涛の潮流が押し寄せた。 そのげ無事態のアイディアは全く新しくないのに、全く新しい風を起こしていた。ピンが刺さった盤面の坂道をボールを転がすゲームは、30年以上前に家庭用でも流行ったことを覚えている人も少なくない。今までコインマシンゲームを置こうとしなかったロケーションでもピンゲームは次々設置され、大きな利益を皆にもたらし始めていた。オペレーターたちが次々勢力を広げ、夢にも思わなかった収益をあげている。 30年以上前からよくあるゲームだった、と、1932年2月号のオートマチックエイジ誌「街中のピンゲームに関して」という記事で記している。 当時のノヴェルティーゲームは1回体験したらそれで終わり、すぐ飽きられるものが殆どだったが、ピンゲームは違う。毎週打ちに来るプレイヤーが日ごと増加していく。日増しにファンもマシンも増えてゆく。これは未来へ無限の可能性があるんだ! ホイッフルの時点でコピーキャット、亜流が続出していた。メリーランド州ボルチモアのマイヤー・ホーウィッツが1932年2月に取得した「ラッキーストライク・スチールボール」のデザインパテントは、「ウィッフル」のプレイフィールドを改竄したもの。1月の初代モデル「LUCKY STRIKE」は「WHIFFLE」と瓜二つであった。 1931年32年にピンボールが流行った。性能が高くなったのもあるが、大恐慌という時代に最たる要因がある。ペニーかニッケル1枚で現実の不安から数分間逃れられる。ロケーションは遊ばせたままのデッドスペースを埋めるだけで収益が出た。猫も杓子もピンボールになびき始めた。それはゲームメーカーも同様。 ピンゲームの第1世代はあっという間にすり減らされ、1932年末には、1台135$で売られていた「フーピー」と、97$50¢で売られていた「スポットボール」は10台ロットの1台8ドルで処分売りされてしまう情勢となっていた。 https://www.youtube.com/watch?v=zg1bU4l1_z4 https://en.wikipedia.org/wiki/Whoopee! 「フーピー」



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