ピンボール黎明期の創始者たち

18世紀に確立したバガテル

◆米独立戦争の軍人達/1775〜19世紀半ば頃

 アメリカでピンボール産業が産声を上げる時節より遡ること一世紀以上。
 その前身であるフランス産玉突きゲーム“バガテル”がアメリカで広まったのは、交流のあったフランス軍からゲーム台を分けてもらったアメリカの軍人たちだった。
 彼らによって広められた最先端ゲームのバガテルテーブルは、西部開拓時代の庶民の娯楽としてアメリカ全土へと浸透してゆく。

― 解説 ―
 フランスの上流社会の嗜みだったバガテルテーブルがアメリカ大陸へ伝播した原由には、米独立戦争(1775〜1783)及びフランスとアメリカ大陸軍が結んだ対英同盟……という軍事的背景があった。

 フランス軍と交流のあったアメリカ軍の兵士たちがバガテルを大陸に持ち込み、やがて彼らがバガテルを最先端且つ手軽な庶民の娯楽として、西へ西へと広めてゆく。

 西部劇では必ず登場するサルーンの片隅で。駅馬車の休憩所で。
 ゆっくりしたペースながら、バガテル文化はアメリカ大陸へ確実に浸潤していった。


 フランス革命後、貴族らが宮殿や庭園でそのスティック音を悠長に響かせる光景は過去のものとなった。

 一方、貴族のバガテル文化にある程度身近に触れていたフランスの軍人たちの間ではこのゲームが脈々と浸透。この優雅な娯楽文化がイギリスへ、ドイツへ、アメリカへ。
 同国が一敗地にまみれた艱難辛苦の時代だったとは言え、気高きフランス上流文化の他国への影響は、決して皆無ではなかったのである。

 特に、北米東海岸13植民地の決起による米独立戦争時。対英同盟下におけるフランス軍とアメリカ大陸軍両軍の蜜月は興味深い。

 フランス海軍は4か月以上に亘るアメリカ大陸遠征の退屈に備え、いくつかのバガテルテーブルを船内に持ち込んでいた。
 いかにもフランス貴族発祥らしい高級家具のようなエレガントで豪奢な装飾が施されたバガテルテーブルは、アメリカ側の兵士達にはゴージャスで優雅に映ったはずだ。
 時には、フランス海軍と13植民地連合アメリカ大陸軍とのバガテルゲーム大会が、和気藹々と催された日もあったという。
 殺伐する戦火の日々の一方で、アメリカ軍との交詢が深まったフランス軍は、別れ際に親睦の印しとしてアメリカ軍にゲームテーブルを贈呈した。

 こうしてバガテルは、国家独立時のアメリカ兵士達のおみやげとなったのである


 ミシシッピー川を網羅するウィスコンシン州のクローフォード群プレーリー・ドゥ・シーンに、19世紀前半頃、フランスとの貿易地だったクローフォード砦があった。
 その地は現在博物館が建っているが、1938年にその旧跡北兵舎でバガテルボードが見つかっている

 カウンタータイプではなくかなり規模のある大型テーブルで、主なフィールドデザインはカップシェイプ型ホールと2本の真鍮製ボールガイド。石製の専用ボールも付属していた。

 開拓時代初期のアメリカ兵士達が、日々の賭けや娯楽としてフレンチバガテルを愛用していた証のひとつである。


 かくして、フランス式玉突きゲーム盤の文化に染まったアメリカ兵士達は社交場を介し、猟師やカウボーイ、炭坑夫、砂金掘りの労働者達にもバガテルゲームを広めながら、西へ西へと向かってゆく。

 駅馬車の待合室で。運河の料金所で。いわゆるサルーンと呼ばれる酒場、宿屋。スポーツ施設……。
 小洒落た大人向けのお手軽な娯楽として、庶民の間へ徐々に浸透していった。

 また同時に小ぶりのカウンタートップ型、更にコンパクトな子供向けホーム仕様への進化も既に始まりつつあった。
 当時普及していたバガテルテーブルはフランス産の輸入台が多かったが、やがてアメリカ土着オリジナルのゲームテーブルも生まれ始める。

 鉄道網が整いだす19世紀半ば頃に入ると、いよいよアメリカ産バガテルメーカー達が胎動し始めるのだ。




(最終更新日2019年8月26日)