ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆J.H.キーニー社/J.H.Keeney and Company,Inc./1934〜1964

 創業者はデヴィッド・ゴットリーブの友人で、「バッフルボール」の量産に協力したジャック・キーニー。
 キーニー社による産業への主な貢献としては、リプレイ機構の初採用、主人公,レーシングカー,競走馬など登場人物をバックグラスでカラフルに描いたフルザイズバックボックスの採用など。

― 解説 ―
 キーニー社は元々キーニー&サンズ社としてジャックの父親をプレジデントにシカゴで創業。
 息子のジャック・キーニーは'31年に7万5千ものオーダーが入ったゴットリーブの「バッフルボール」の需要に応えるべく、友人デヴィッド・ゴットリーブと共同で昼夜問わず打成一片にファクトリー製造に専心、父の工場とゴットリーブの工場、合わせて5万台ものバッフルボールを急ピッチ生産。世間に最初のピンボール一大ブームをもたらした功労者の一人である。

 しかしキーニー&サンズは資産管理の甘さにより1933年11月に倒産。
 息子のジャックが心機一転、父を反面教師として会社の編成を刷新の上に立ち上げたのが'34年1月創立のJHキーニー&カンパニーであった。ファイナンスは全て厳重にジャック自身の管理下に置かれた。

 最新テクノロジーの導入には常に敏感なジャック・キーニーだったが、ピンボール電気化の導入は意外と遅く、最も遅れて駆け込んだロックオーラの次の遅参組。
 しかしいったん参入した後は、即業界筆頭の一社として返り咲いた。

 キーニーを代表するワンボールペイアウト台の大成作は「マンモス('35)」
 翌年の「リピーター('36)」もセールスは高く、センタートップホールである“リピーターホール”にショットが決まるとペイアウト倍率アップ、更にボールがプランジャーに戻ってシュータゲイン……というフィーチャーが好評だった。

 ピンボール産業における同社の最たる貢献のひとつに、リプレイ機能の搭載が挙げられる。
 '35年の1月発表の「クイックシルヴァー」における、フィーチャーの完成によりコイン投入無しでもう1回フリーでプレイ出来るという新機能は、当時大変に画期的であった。

 リプレイアウォード後の再ゲームは通常のコインスライドを無硬貨状態でまたプッシュするだけでOK……というリプレイメカニクス開発者はビル・ベラーという人物だったが、プレイフィールド及びゲームデザインは当時キーニーに在籍(またはフリーランス契約)していたハリー・ウィリアムスだったというから益々面白い。

 そのビル・ベラーとは一体何者かというと、なんとハリー・ウィリアムスが自宅で雇っていた、僅か17歳の守衛に過ぎなかったという。

 『今シカゴやニューヨークで大ブームなピンボールマシーンの業界引く手あまたなトップデザイナー』というご主人の仕事にビルは興味津々で、
 “ハリーの旦那〜聞いてくれよ、俺にも良いアイディアがあるんだぜ”
 と毎日しつこかったらしい。
 そんな彼にハリーはこう釘を刺した。

 “あのなビル。今ピンボール産業はギャンブル機能無しでプレイヤーを引き付ける新機能と新ルールが強く望まれているんだよ。それに応えるものが出来るのなら、いつでも見てやってもいいぞ。分かったかい?”

 その後、ビル・ベラーの考案したリプレイ機能搭載の「クイックシルヴァー」は、非ペイアウト台ながら忽ちプレイヤーを魅了する新基軸のフィーチャーとなった。

 1935年開催のコインマシンショーにおいて、バリーが合法めいっぱいに際どいギャンブルルールに挑んだ「レッドアロー」や、上段下段同時2ボールプレイというゴットリーブのユニーク作「マッチプレイ」を遥かに凌駕する高い人気と評判を呼んだ。
 バリーロックオーラは早速高額使用料を支払ってリプレイルール台の制作を追従した程である。

 “凄いぞビル!特別ボーナスと台のロイヤリティー半分はお前のモンだ!”
 とハリーはビルに大奮発。ジャック・キーニーのツテでパテントまで取らせてもらう厚遇を受けた。

 しかし若かったゆえにパテント出願は両親に取り上げられてしまい、権利は捨て値で売却、結局キーニー社が買い戻す顛末となった。

 この逸聞には更に後味の悪い後日談がある。

 それでも若くして身に余る大金が入ったビルは悪友達と放蕩を重ねた果て、18の時にシカゴのスラムで喧嘩に巻き込まれて頭部に重傷を負う。
 その傷が元で重い障害が残り、社会復帰も出来ないまま施設で生涯を終えたそうだ。

 ハリー・ウィリアムスは飽く迄仲介役に過ぎず、どうすることも出来なかったものの、ビルのことを思い出す度に胸が痛んだという。


 キーニー社のもうひとつの功績は、1937年に今とほぼ同じフルサイズバックボックスを採用したこと。

 勿論、パシフィック社やバリー社が戦況を表示するバックライト・バックボックスを搭載して以来常識となっていたスコアトータライズ機能は各社が明晰にこなしていたが、点数表示のみならず主人公キャラクターをカラフル且つ鮮烈に描いた堂々たるバックボックスは、ピンボールマシンを現在の筐体の雰囲気へ、一挙に近づけた。

 前作「グレートガンズ('37)」までハーフサイズ且つ平凡なバックグラス仕様だったキーニー。
 しかしワンボールペイアウト台の競馬テーマ作「ホットティップ('37)」で迫力のあるフルサイズバックボックスを採用。次作「ハンディキャッパー('37)」では番号の振られた競馬の馬たちとジョッキーが描かれ、雰囲気が一挙華やかに。
 どちらもワンコインにつき馬一頭に賭けられ、更なるコイン投入で他の馬に次々とベットできた。

 '37年末に発表した「フリーレイシズ」はカーレースがテーマの5ボール式マシン。更にカラフルで鮮やかになったバックグラスにはバックライトスコアのみならず、凛としたドライバーの表情とレーシングカーが描かれていた。

 当時は悪名高きペイアウト台の全盛期で、競馬テーマのホットティップ及びハンディキャッパーはワンボール制ギャンブル台。賭けたい馬にどんどん複数コイン投入、たった一球で勝負が決まる…という恐ろしい射幸性が強烈。
 それらを過激すぎたと内省したのか、キーニー社は「フリーレイシズ」では5ボールのリプレイ制度を採用した。

 誠に残念ながら、ジャック・キーニーは1948年8月に脳卒中で夭折。同社のプレジデントは代わってJ.A.ウェイナンドが引き継いだ。

 しかし1962年12月に施行された賭博装置州輸送禁止法により、キーニーは収益の重心だったビンゴマシンの製造を断念。
 業績悪化で工場の移転を余儀なくされ、1964年発表のフリッパー台「アローヘッド」を最後に、キーニーという名門ブランドはピンボール市場及びコインオペ産業から姿を消した。

 ファクトリーの継続年数は丁度30年。ゴットリーブ、バリー、シカゴコインに続く、当時4番目の老舗であった。



(最終更新日2019年8月26日)