ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代ピンボールメーカー

ミルズ・ノヴェルティー社

― ※翻訳執筆途中メモ書きにつき飛ばし読み推奨、清書は後日アップします ―
デザイナーのバート・ミルズは創業者ハーバートSミルズの一番下の弟。当時社長で兄であるフレッドミルズと一番仲が良かった。フリーランスや社内の発明家が試作品を売り込みにきた時はバートが面接していた。またフレッドはバーとが発明した品を、いつもなら自分の名で特許をとるのだが、バートだけは彼の名で特許を取らせていた。また彼は優れたエンジニアで発明家であった。 その数週間後、ODジェニングス社も、スロットマシン機構を内包する、よく似たコンセプトのピンボールを発表した。「スポーツマン」がそれで、同社のスロットマシン「センチュリー」の機構を内臓。同社の専属デザイナー クリフ・ダンブルは、スポーツマンの開発に2年費やした、と声明しているが、センチュリーの開発期間も含めてのものだと思われる。1933年の夏にピンボール版が作られ、秋にはロケテストが行われていた。 英連邦の保護貿易法はイギリスにとって優位性が強い制定だった。先達の工業国であるイギリスのコインマシン産業もその恩恵が顕著で、19世紀半ばから後半まで世界的先鞭をつけていた。コイン式ピンボールはヘンリー・ジョーンズ・ジェラルド・ペッサーズ1889年パテント取得した「ピックウィック」は第1次世界大戦中多くの縦型プレイフィールドの派生品を生んだ。また、1927年エセックス・オートマチック・マニュファクチュアリング・カンパニーによる「アキュミュレイティング・ボール・ヴェンダー」も無視すべきではないと主張がある。  かの「ホイッフル」が、1920年代イギリスの「コリンシアン・バガテル」を元にしたのは事実(?) 。 ところが、イギリスでピンボールをブレイクさせたのは、コリンシアンバガテルでもホイッフルでもバリーフーでもなく、そのバリーフーをコピーキャットしたミルズの「!WOW!('32年3月)」だったという。 イギリスのサムソン・ノヴェルティー社はアメリカから仕入れた「WOW」を数か月間ショールームに飾っていた。それを見たラルテンボーン社のトレジェット氏が値段を聞いてきた。彼はそれを1台購入、商機を見出してさらに追加注文。収益をあげていった。  一方、別口でイギリスでのブームを起こした者もいた。1932年英国貿易博覧会に、こちらもバリーフーのエピゴーネンである。キーニー社の「レインボ」を出展したのが、スコット・アディックス社。  やがてディストリビューターが増え、イギリスオリジナルピンボールの製造も始まっていった。 1973年当時、短命だたハーバートSミルズの8人の子供たちの中で唯一存命だった、ジョージEウッズ夫人、旧姓マリー・ミルズはシカゴの西側から1マイルほど離れたイリノイ州オークパークにあるアパートメントホテルに住んでいた。 “ミルズ家の男はみんな長生きしてないの。酒好きが祟ってね。みんなスコッチを浴びるように飲んでいたわ。”と言いながら当人もスコッチを飲みながら過去を懐旧していた。 一方、父ハーバートの末っ子バート・ミルズ(バーティー・ミルズ)はその後、別会社のミルズを興して成功している。マリーと違ってなかなかインタビューに応じてくれない。2年の間に4通もアポの手紙を書いたが全部無視。しかしクライアント営業会議で偶然会えた。『知ってるよ君のことは。俺はもう87だ。結婚して65年になるな』 すると部屋の奥から様子を窺っていた奥さんが金切声をあげた。『ビーティー!その話するのやめて頂戴!ビーーーティーーー!!!やめてっていってるしょ!ギャンブル機の話なんかしないで!!』バートの妻は一族がスロットにおおきく関わったことは世間に忘れて欲しかったのだ。しかしバート御大は妻の怒号を無視。しっかり1時間半インタビューに応じてくれた。 彼は1907年の最初のミルズリバティーベルから、1941年までスロットマシンを設計、商品化した。 当時の社長で兄のハーバートと衝突してクビになったり、自分から辞めたり、でも助けを求められてまた戻ったりを繰り返していたが、戦後結局は独立、ザ・バート・ミルズ・コーポレーションを創立。コーヒーメーカーを開発し、ホットコーヒー自販機を普及させた。 ミルズ社、特に1929年から1944年に亡くなるまでミルズノベルティ社の社長だったフレッド・ミルズは業界で嫌われ者だったという証言が時折飛び出す。 コインマシンの大会社で、富豪なのに、現金を一切持ち歩かなかった。出先では人にも全くおごらなかった。メディア記者や雑誌の担当者と一緒に食事をしても、フレッドの分まで相手側が払わされていたという。 ただ、週末にディストリやオペレーターなど業界関係者を呼ぶパーティーはよく開いていた。戦争に入る直前の頃。 第二次世界大戦中のミルズノベルティの広告担当は、ミルズ社のセールスマネージャー、ヴィンス・シェイの弟、グラント・シェイであった。 グラントによるパーティーの企画書を見たフレッド社長が、“このままでも悪くはないが、もっとインパクトのある催しか演出を用意してくれ”と言ったので、中国製で音も火花も激しいクラッカーを30フィートもの輪にして、社長宅の庭の樹木から樹木にくくってつなげ、火をつけた。あまりにも凄まじい破裂音だった為、パトカーがきてしまった。でもどうすることも出来ず、出席者も警官たちも周辺住民も全部消えるまで眺めていた。たいしたもんだね、とフレッドは十分に驚いてくれた。 ペース社のエド・ペース社長は住居としていたコングレスホテルでスコッチを5杯も一気に飲み干してご機嫌だった。『フレッドミルズの奴がくたばった。そのお祝いだ!』 1989年にコロラド州に住んでいたエドペースの孫娘によると、彼は仕事にも家族に厳格で、遺言書の遺産配分も頻繁に更新していた。彼女は現代中国とその共産主義について研究して博士号を取得。相続した遺産は中国研究で使い果たしたそうだ。 https://videogamehistorian.wordpress.com/tag/trade-stimulator/ 【機密のスロットマシンを強奪したのは本当にミルズだったのか】 wikipedia:1905年サルーンに設置されていたリバティベル機が何者かによって盗み出された TheyCreateWorlds:工房を焼失したフェイがミルズに製造を委ねた ThePennyArcade:ミルズがシスコのバーから3リールスロットを盗んで分解した 1933年のC.M.M.A.ショーでミルズは、基本的にスロットマシンと新しいタイプの自動販売機を主力としながらも、さすがの大手で、29-30-31-32-33の5つものブースに出展。「オフィシャル」シリーズのピンボール製品に新しく加わった2つのバージョン、「デラックスオフィシャル」と「カウンター」(オフィシャルベビーとも呼ばれる)のリウォード(今でいうプライズ)ゲームを出展した。 どれもカラフルさよりもシックな豪華さを強調するデザインであった。



(最終更新日年月日)