ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆パシフィック・アミューズメント社/Pacific Amusement Manufacturing Company/1932〜1937

― 解説 ―
 フレッドCマッケラン創業パシフィック社によるピンボール産業への貢献と言えば、何といっても当時在籍していたハリー・ウィリアムス開発による初電気化ピンボール「コンタクト('33)」の発表が、今も尚名声嘖嘖たるものである。

 しかし意外と知られていない功績が、ハリー・ウィリアムスが会社を去った後に発表されたビンゴルーレットマシンの話題作「ライト・ア・ライン('34/10)」である。
 まだバックボックスの丈は枕みたいに短かったし、ピンボールというには趣を異にするゲーム性だったが、初めてバックボックスでビンゴ枡の埋まり具合をリアルタイムな戦況として電飾明滅させてみせた、その電気工学の手腕には誰もが驚いた。

 実は'30年代ピンボール史においてバックボックスライトで点数表示する演出を初めて行ったのはオートマチックゲーム社の「フィフティーグランド('33)」だったが、作りが非常に蕪雑ゆえ、産業への進歩や貢献にはならなかった。フィーチャーも稚拙だったそうだ。

 パシフィック製造・発売の「ライトアライン」を開発したのは実をいうと同社のエンジニアではなく、ロサンゼルスでアイアンクローマシン(初期型クレーンゲーム)のオペレーターをしていた、ニュートロンアミューズメント社創業者のケン・C・ウィリス

 彼はコインオペアミューズメント産業の展望に強い至嘱を感じ、レーシングカーの設計をしていたデニーズ・コルツと共に18ヶ月もの製作期間をかけ、ボールの入った番号に呼応したビンゴの枡がバックボックスで点灯してゆく画期的なペイアウト台の制作に入る。
 完成までの1年半もの間、材料も機材も全て自前。2人とも不惜身命で設計に専心し、時には食事も粗末な豆料理だけで済ます献身ぶりだったという。

 ライトアラインのサンプル製品が完成して業者たちに見せた結果、“どうせならコインシューターを6つつけたらどうだ”という助言をディストリビューターから受ける。
 最初は一笑に付した彼らだったが熟考するうちに腑に落ち始め、ウィリスとコルツはコインシューターを3つ付ける仕様変更を決意。
 しかし技術的な問題が起き、ウィリスのツテでもう一人のスタッフとして電気工学エンジニアのフレッド・コールが参画することとなった。

 かくして、10セント硬貨のシューターが3つ付けられていよいよ完成した「ライトアライン」を、ハリウッドにあるホテル《クリスティー》の地下カフェでロケテストを敢行。
 結果は突出して評判で、1日60$以上稼ぎ出すインカムが2週間続いたという。

 しかし当時のニュートロン社にはファクトリー製造する資金が無かった。
 ウィリスらは「ライトアライン」の権利をどこか大手に売ることを決意。どうにか出資者を見つけて最初の50台を生産したところパシフィック社という大手の買い手がつき、ウィリス、コルツ、コールらは多額のロイヤリティを得ることとなった。
 一方ニュートロン社も事業がうまく回り始めていたので運営を部下たちに譲り、3人は晴れてパシフィックへ入社したという。

 この時節のパシフィックと言えば前年の「コンタクト('33)」以来目立ったヒットが無く、当時人気のフットボール選手のニックネームから取った「ギャローピング・ゴースト('34)」の売り上げ不振により煮詰まっていた時節。「ライトアライン」はそれらの低迷を吹き飛ばす会心のヒット作となった。

 この「ライトアライン」の席捲が、その後のピンボールの様式であるバックライトスコア装置、バックボックスアニメーションの布石として繋がってゆくことになる。



― 解説 ―
※翻訳中パートにつき飛ばし読み推奨 1994年、リプレイマガジン誌の取材を受けた時彼は85歳。耳が遠くなり、視力も落ちていた。しかし彼はコインマシンサービス社及びイングリスアンドフーリセールインク社の設立者で、頭脳明晰。  ドラッグストアのカウンターにピンゲームが置かれていた時代から近年のビリヤードホールやダーツリーグに至るまでこの業界で60年間手腕を発揮してきた。粗雑なゲーム作りをしたり、ピンボール産業が苦境に立てばボイシに移って、ビデオゲームが登場してからスロットマシン産業に参じたりしたが、引退した。会社は2人の息子ディックとジェフが受け継いで回してくれているが、ジェリーは、視力さえ回復すれば、裏家業として、趣味としてこの仕事にカムバックしたい、と語っている。ディーラーの仕事に就いていたこともあり、愛する車にも詳しい。過去65年間で96台もの自家用車を所有していた。そのほとんどはキャディラックとリンカーン。 ジェリーと64歳になる妻のネイタは、1950年にボイシで購入した魅力的な家に今も住んでいる。彼は今アイダホ州のボイシを終の住処とし、家族と穏やかな時間を過ごしている。この業界の歴史の通暁し、渡り歩いた本物の業界の家長だ。 ジェリーイングリスはアルバータ州カルガリー近郊の小さな町ラングドンの農家で生まれた。一家はワシントン州モーゼスレイクに移り、最終的にはアイダホ州ナンパに移った。 17歳となったジェリーは都会に憧れ、ワシントン州スポーケインに出てきて電力会社に就職した。当時盛んだった鉱山に送電する仕事に就く。その後転職してディーラーとなり、フォード車を売る。モデルAの小売価格が643$でよく売れた。1928年7月にニータと結婚。デック、ジェフ、ジェラルドの3人の息子をもうけた。1929年末には大恐慌が襲ったが、自動車産業及び若きセールスマンは活力がみなぎっており、一家でロサンゼルスに移転した。 そのロサンゼルスで自然とカーディーラーの職に就くが、フロスト&フレンチというフォード車販売店での仕事はあまりに定形で規律的で肌に合わなかった。そこでフレッド・マックレランが経営するパッカードのディーラーに転職。ジェリー義理の兄弟ボブ・コービンも同じ会社に就職。ジェリーは人を引き付けるセールスマン、ボブは事務的作業。合間は2人でよくボードゲームのチェッカーで遊んだ。大恐慌時は暇な時間も多かったのだ。 マックレランのディーラーの出入り業者に、映画スタジオのセットを作って生計を立てていたハリーウィリアムスがいた。 『ハリーはやたらと器用な青年で、地下室にあったピンゲームを見つけると、さくっと改造して新たな機能を発明してしまう』ジェリーは思い起こす。『この手のカウンターピンゲームは当時ドラッグストアでよく見かけた。その地区ではポール・レイモンというディストリビューターが大々的に販売していた』 ある日ハリーウィリアムスとジェリーイングリスはコーヒーを買いにドラッグストアへ。その店の窓にあった人形広告。 『機械仕掛けの人形が丸太を切っている広告。よく見ると水銀スイッチとソレノイドでアームが動く。当時としては優れたアイディアだと思った。これを作っていたのは同じくロサンゼルスにあったHy-Fという会社だった。』 『Hy−F社に商談を持ち掛けたところ、皆メカ好きの腕利きナイスガイばかりだったがピンゲームビジネスの話はまとまらない。結局ハリーは自家製でプレイフィールドのくぼみに2つのソレノイド装着、キックアウトホールを発明した。一方ボブ・コービンは当時のドアブザーを応用し、ボールがそこに落ちる度にブザーが鳴って、尚且つプレイフィールドに戻ってくるよう提案した。』 『マックレランは経営者のトム・ウォールとジョー・オーキン(カリフォルニアゲームズ社)に最初の10台を製造する為、1900$を出資するよう説得。1993年、フラワーストリートにパシフィック・アミューズメント・マシン社が誕生した。そのゲーム「コンタクト」はなかなか製造に入れなかったが、とりあえずジェリーはサーヴィスマネージャー、ボブは工場監督に就任。マックレランは社長兼会社オーナー、ハリーは契約デザイナーとなった。』 3種類あったコンタクトは、3年間ファクトリーのラインで製造され続けた。5万台が製造されてロケーションに設置された。大体1台89$。ロケーションでの設置インカムは、週60$〜70$をニッケルで稼ぎ出した。 『ロサンゼルスではドラッグストアがピンボールの主なロケーションだった。大当たりを出すとドラッグストアの店主が賞金を贈呈するんだ、。キックアウトホールに入るたびにブザーが鳴る仕掛けが盛り上がり、大評判だった。』 ドラッグストアが大いに潤ったが、その反面コピー品が溢れかえってマックレランをいらだたせた。ハリーのアイディアが大量に盗作され、マクレランは憤慨していた。一方ハリーは「メジャーリーグ」なる野球ピンボールを開発。なんとピンボールのフォーマットながら電動稼働バットが装備されていた。しかし会社側はバットで打つのではなくボールが出塁するロックオーラタイプの機種を求めていた為、契約社員だったハリーは会社から独立してしまった。 その後パシフィック社マックレランは拠点をシカゴに移し、パテントウォーズに参戦したが、敗訴が重なって破産してしまった。一方ジェリーはロサンゼルスに残り、レイモンド社(Laymon organization)のゲーム部門(20th Century Games)に入社した。 レイモン社ではピンボールの修繕や搬入の仕事をしていたが、ロサンゼルスにおける違法性を指摘され、ジェリーは家族を連れてアイダホに帰ることになる。ボイシではスロットが合法だった2年間、ディック・グレーヴスなるスロットマシンのオペレーターに雇われた。グレーヴスは、リノの「ナゲット」とカーソンシティの「ナゲット」の姉妹店も経営していた。  ジェリーはボイシでコインマシンの販路を敷き始めた。その名もコインマシンサービス社。(後に個人名を冠す)義理の兄ボブ・コービンもロスから戻ってきてパートナーとして設立に加わった。1年ほどで別離したが友人関係は続き、1963年にボブは亡くなった。 ジェリーはロスの旧友ポール・レイモンから多くのゲーム機を購入した。ブランド品で言うと、ジェリーはゴットリーブが一番のお気に入りだったが、もちろん他社の機種も購入していた。 第二次世界大戦で2年間従軍してコインマシンから離れたが、終戦後はジュークボックスにも手を広げた。次にたばこの自販機とビリヤードも追加。これは店舗のオーナーからの要望でもあった。 息子ディックが入社してジュークボックス担当となった。しかし本当は彼もジェリーもピンボールが大好きだったという。シーバーグモデルBは当時まだブランド的に威力が無く、ディストリは限られていたが、ソルトレイクシティのスターヴ・ディストリビューティングが代理店となった。勿論ジェリーはロス戻って旧友からアイダホ販路用に製品を入手していた。 1963年にボイシのオペレーター仲間であるビル・ウッズ(B&B Vending)が、タバコの自動販売機をトラックに積むときに腰を痛めてしまった。結局、彼はジェリーに販路を売り、サンフランシスコに行ってコインマシンの販売を始めた。ジェリーの息子ジェフが会社に加わり、今や「ファミリービジネス」となったベンディング事業を、ほぼ全面的に引き継ぐことになった。 息子たちの¥仕事ぶりに安心したジェリーは1969年から半ば引退して、1972年に退職したが、1980年に復帰。84年にはディックがボブからイングリスコインマシンサービス社のゲーム部門を買い取り、その2年後ジェフがB&Bを引き継ぎ、社名をイングリスヴェンディングアンドホールセールス社に変更した。ディックが管理する販路は殆どがバーのロケーション。ボイシを中心に半径50マイル程を牛耳っている。基本的アーケードマシン機器販売。2時間以内にかけつけ保障。厳冬の大変さ考えればたやすいことではない。ヴァレービリヤードリーグに所属し、ダーツリーグも独自に運営している大活躍ぶり。 ディックは、D.W.I.の施行でルートの収益が悪化したが、リーグ戦ではうまくいっているという。また、ゲームブームには苦い思い出がある。"数年間は素晴らしい時代だったが、その後、大きな打撃を受けた "と彼は言う。「でも、値段を考えると、買うときには十分に気をつけなければなりません」。 ジェフ(ヴェンディング・マン)は、工場、オフィス、病院などでフルラインのルートを担当しています。また、路上でタバコの販売も行っているが、多くの業者と同様、ビジネスは縮小傾向にある。多くの自販機は1箱2.50ドル、他は2.75ドルで販売している。 ジェリーは視力を殆ど失った為、家業から引退した。盲人向けのブックテープを取り寄せてみたがつまらない。テレビを見るのも難しいという。  息子のディックはボイシの街を気に入っているが、カリフォルニアからの移住者の流入は複雑に感じている。ホワイトワーカーが多く、タヴァーンで夜を過ごすやからっぽいお兄さんが少ないからだ。 ジェリーイングリスはこれまでの永い永いコインマシンビネスのキャリアを振り返って、全てが価値のあるものだった、と語っている。親しい友人もたくさん得られた。その中には店舗経営者も含まれている。『週に1度か2度、お金のやり取りをしていると、相手の懐中に入れるものなのさ』と語る。 『確かにこの仕事は労働時間が長く、体に良くないな。でも視力が回復すればまた始めたい。今でも趣味としてかじっている。』 ワーリッツァー社主催のハワイでのイベントでは、懸賞でマスタングが当たったという。 また、Chat MacMurdie、故Marshall McKee、そしてもちろんPres Sturveといった業界の友人たちのことも覚えていて、彼らとビジネスや雑談をしたときの逸話を共有することができた。そして、ハリー・ウィリアムスに協力して世に送り出し、ピンボールマシンに技術的な飛躍をもたらした「コンタクト」のことも忘れてはいない。 ジェリーは、「もし、今、あのようなゲームがあったとしたら、今でも人気があるだろう」と言い切る。「特に89ドルで買えるとしたらね」と息子のディックがウィンクしてうなずいた。 アイダホ州コーダレーン 一方、意外なところで全く注目していないメーカーが、図らずも企図しないながら次の一手として動くことになった。ノースウェストアミューズメント社。オレゴン州ポートランド。W.C.ビルとジョージFグレーヴス。1933年3月に5フィートサイズの「ジャンボ」を、5月には「プレミア」を発表。これがパテントバトルの次の進展となった。 (ジャンボ、プレミア―は革命的だったが、パテントが獲れなかった。デザインやメカニクスの特許は取れても、大きさの特許なんて取れないのだ。すぐカリフォルニアでコピー品が出回り、その後全米にコピーキャットが広まってしまった。) 「オレゴン州ポートランドで生まれたジャンボサイズのピンゲーム、マーブルゲームが西海岸で大ヒット。長さ5フィート、幅30インチ。大方の予想に反して、店舗で出回っている。既に様々な機種が出ているが、最も人気があるのは「プレミア」と呼ばれるもので、大掛かりなフィールドに全土にボールを打ち込むのが爽快で、プレイヤーの技量が問われるゲームとなっている。これらのジャンボゲームは100ドルを超える価格で販売されているが各オペレーターに好評。」 このジャンボタイプを一番最初にコピーしたのは、同じくポートランドのマクギヴァーン社。3月末に「ビッグ・ボーイ」を発表。 当時ピンボールは小型のカウンタータイプが主流だったが、北西部で作られた5フィートの巨大ピンボール「プレミア」や、まるで大砲の玉をドカンと打つような迫力が楽しめた「シニア・ビッグ・ブロードキャスト」に人気が集まり、ピンボールのトレンドは再び大型化へ。当然予算もかかるが、それに見合うセールスが見込まれ始めた。ジャンボ機の需要が西海岸で一気に広がり始めた。 それをいち早く察知した大手がパシフィックアミューズメンツ社。フレッドCマックレラン早速「マスターピース」「メトロポリタン」の2機種のジャンボピンゲームシリーズを開発。4兄弟が役員を務める同社はこの機に各都市に支店・オフィスを立ち上げる手はずを整えていた。 しかしロサンゼルスやポートランドのメーカーは輸送コスト面で東側のメーカーより不利を被っていた。しかもこの度のブームは大型機種。 ジャンボサイズはゲーム性が凡庸だったりコピーキャットものだったりすると途端に魅力が落ちた。 1933年7月になるとバリー社がジャンボピン「クルセイダー」を発表。お株を奪われた。



(最終更新日2019年8月26日)