19世紀後半のバガテルメーカー レッドグレーヴ社は、ピンボールの元となった玉突きテーブルゲーム“バガテル”にスプリングシューター、所謂プランジャー装置を取り付けたメーカー。
ビリヤードの分派に過ぎなかったバガテルにプランジャーという独自の特性を設け、次世紀へ橋渡しするが如くピンボール産業勃興への前哨を牽引した。
ピンボールの起源を18世紀前半まで遡ると、ボウリングの起源「ナインピンズ」の屋内テーブル版で面倒がられていたピンのセッティングを省略化して“穴”に改変したイギリス産『ナインホールズ』、及びビリヤードにそれまで無かったスコアのポケットを設けたフランス産『スコアリングポケッツ』に行き当たるという。 それらは18世紀後半に、更なるスキル性とゲーム性と射幸性を貪欲に欲するフランス王族アルトワ伯爵ことシャルル10世の意向により、ゴージャスな彫琢を受けることになる。 キューショットルール、勾配のスリルを楽しむ為のフィールドデザイン、シューターレーン、木製ペグに囲まれたスコアホール、点数記録用のクリベッジボード……。 より洗練され、複雑化してゆくゲーム性は貴族制度廃止後、米独立戦争に乗じる形でフランス軍及びアメリカ大陸軍によってアメリカ本土に持ち込まれる。 それらはやがて“バガテル”という通称で庶民にも嗜まれるようになってゆく。 そして19世紀半ばには2人分のキューショットレーンと底辺スコアポケットを備え、スコア配分を複雑化且つクリベッジボードを省略したアメリカンバガテルゲームの代表定番、「チヴォリ」が通念化する。 それらのインドアテーブルゲームを19世紀後半にモダン化及び産業化し、ピンボールのフォーマットへ一挙に肉薄させた会社がある。 イギリス人モンタギュー・レッドグレーヴ率いるM.レッドグレーヴ・バガテル社がそれで、プランジャーのはしりである“スプリングシューター”の特許をアメリカはオハイオ州シンシナティーで取得、モダンバガテルブームの一時代を築いたテーブルゲームメーカーである。 それまではキューやカーブスティックで突くスタイルだった球を、右脇のチャンネル……今で言うシューターレーンにボールセット。 新規の装置であるスプリングシューターのノブを軽くつかんで引っ張り離すと、反動する螺旋状の針金仕掛けにより勢いよく爽快にボールが発射され、上辺アーチ状ボールガイドに沿って滑走する。 そしてスプリングの動力が尽きたボールは重力に従い、林立する真鍮製ピンに弾かれるように勾配をスリリングに下り、高額配点のホールもしくは底辺に並列配置するスコアリングトラッフポケットに漂着する。 レッドグレーヴはスプリングシューターの考案のみならず、それまでの木製ペグではなく真鍮製のピンを用いた他、盤面に品格ある肌合をもたらす布地コーティング、高額配点のトップホールやミドルホールの配置、パチンコで言う風車のような回転ゲート、直接ヒットで音を鳴らすベル……といったフォーマットを措定。 モダンバガテルルールとゲームデザインの基盤を確立し、のちのケイリー兄弟社1901年製「ログキャビン」やゴットリーブ社1931年製「バッフルボール」といったピンボール史上の各マイルストーン作への進化の橋渡しを担った。 1844年英サリー州ランベス区生まれのイギリス人モンタギュー・レッドグレーヴが渡米し、オハイオ州シンシナティー市に居を移したのは、南北戦争終結から僅か4年後の1869年のこと。 翌年の1870年になるとレッドグレーヴは、故郷イギリスでの最先端バガテルシーンの見識が事業に活かせることに気づき、それまで勤めていた食品工場を辞めてテーブルゲームボードのビジネスを開業。 ピアノ線の業者と提携し、子供用のおもちゃではなく、大人のアメリカ人に幅広く受け入れられる娯楽品の開発に心血を注ぎ始めた。翌年には妻となる19歳の女性アニーと結婚している。 彼の母国イギリスでも、バガテルのようなテーブルゲームは盛んであった。 実は1860年代初頭、プランジャーに該当する装置がイギリス国のパテントで登録済みで、レッドグレーヴもその存在を認識していた。 しかし、スモールテーブルトップ仕様バガテルのそれはゲーム性も品質も初歩的であり、海を渡るどころかイギリス本国でも普及していないのが現状だった。 一方アメリカでプランジャーと言えるべき特許が未登録であることに商機を見出したレッドグレーヴは、1871年5月30日、米オハイオ州シンシナティーから「インプローヴメント・イン・バガテルズ」としてスプリングシューター装置の特許を取得、いち早くモダンバガテルビジネスの機先を制した。 レッドグレーヴのバガテルが画期的だったのはスプリングシューターだけではない。ボールのダイレクトなヒットにより音を鳴らすベルの搭載も、当時は斬新に映った。 商品は地元で瞬く間に人気品となり、彼は更なるゲーム性の向上とスピード感のあるフィールドデザインの精進に心を砕いた。 当初レッドグレーヴはホーム仕様バガテルをも視野に入れていたが、時は西部開拓時代。手合いどもが興じるサルーンでのギャンブル需要の方が遥かに高いことに気付き始めていた。 そんな矢先。イリノイ州シカゴ市でのちに“シカゴ大火”と呼ばれる、アメリカ災害史に残る大参事が起こる。 1871年10月8日夜にシカゴで発生した大規模火災で、死者250人以上、17,400以上の建造物が全焼、10万人以上が住まいを失う惨禍となった。 以後行政は街の木造建築を禁止し、煉瓦・石造・鉄筋建造を推奨。 災害後の焼け野原となったシカゴでは復興を志した新たな鉄鋼業・建築業が短期間で集中的に林立する。 街は若い労働者達によって夜通し賑わい、特にマイナス10℃を下回る日もあるシカゴ極寒の冬の間は豪雪に閉ざされる為、屋内でのインドアゲーム的娯楽の需要が高まってゆく。 大火事という災厄の後、シカゴの街にバガテルやピンボール産業及びその娯楽文化が開花する好条件が整ったのである。 これに閃いたのがレッドグレーヴで、火災から2年後の1873年の半ば頃に自社の拠点をイリノイに移すべく、ワイヤーやスプリングの製造工場が密集する地区に目星をつけ、やがて不動産業フレデリック・ウィルソンと提携してレッドグレーヴ&ウィルソン社を設立。イリノイ州シカゴ近隣のクラーク郡に本拠地を築いた。 北米中心の市場を軸に置き、同年秋にはサルーン用とホーム仕様のバガテルテーブルの製造を開始。 1930年代にイリノイシカゴがピンボールのメッカとなった萌芽が、60年も遡るこの頃に早くも芽生えていたのである。 ここでバガテル産業を勃興させ、シカゴに一大ブームを巻き起こすかに思えたが、残念ながら地主ウィルソンと経営方針に齟齬が生じ始め、僅か2年後の1875年の終わり頃、ウィルソンとのパートナーシップを解消。 レッドグレーヴはせっかくの娯楽産業の沃地であるイリノイを去り、 ここでようやくスプリングシューターバガテルの名ブランド、M.レッドグレーヴバガテル社の設立に至るのだった。 8人もの子供を養う子だくさんだったレッドグレーヴ夫妻の邸宅及び本社と工房は、一旦ジャージー市リーノープレイスへと落ち着いた。 ここでM.レッドグレーヴのオリジナルブランドで「オリジナルパーラーバガテル(1876)」「パーラーバガテルテーブル」を発表。商品はシリーズ化され、ラージサイズのパーラー仕様、カウンターサイズのホーム仕様、そして子供向けミニチュア版。どれも当時定番の人気台となった。 更にレッドグレーヴは真鍮製カップ、アーチ型ゲート等々のアイディアと派生品を繰り出し、ニューヨーク、ニュージャージー、北米を中心にバガテル市場を拡大してゆく。 1877年になると近隣ペンシルヴェニア州フィラデルフィア市グローヴ街に新工場を設立。インドアテーブルゲームへの更なる市場開拓に臨んだ。 収益が右肩上がりとなったレッドグレーヴは1881年ウィローコートに新社屋を竣工。自宅も近隣のパヴォニア通り建てた大邸宅へ移った。通りの一角が全て彼の邸宅と工場になったのである。 渡米2年後に特許を取得したスプリングシューターの権益とバガテルビジネスで栄え続けて10年。モンタギュー・レッドグレーヴは大成を収めた。 一方、スプリングシューターのパテントを押さえていたのにもかかわらず、レッドグレーヴ社の優れた製品は多くの模造品を生んだ。 良品も散見されたが、粗末なコピー品も濫造。レッドグレーヴは該当する製造者相手に訴訟を繰り返した。 にもかかわらず1880年代後半に差し掛かる頃になると、スプリングシューターは十数社ものバガテルメーカーにより標準装備として濫用が尽くされていた。 ただ、中にはレッドグレーヴから正規の使用許諾を得た良作「パリジャン・バガテル・テーブル(1890)」を量産したR.ロースチャイルズ・サンズ社や、スプリングシューター装備に加えて星形風車やスピニングメーターなどカラフルで優れたフィールドデザインをアレンジして人気を博したボードゲームメーカー、ジャスパー.H.シンガーなる追随者も登場。 中には本家を凌ぐ高品質の他社製バガテルテーブルを逆にレッドグレーヴ側が権利を買い取り、量産することもあったという。 スプリングシューターのパテントが満期を迎えた後も、レッドグレーヴはより洗練させたスプリングシューターデザインでバガテル台を刷新し、何と1898年5月10日にプランジャーのパテントを再取得。 レッドグレーヴによる初期のシューターはキューも先端も完全に板で隠されていて手加減が難しかったが、後期の新版は現在のものと同じく覗き窓と目盛りで加減が計れるようになっていた。 この時期他社の発明だったスコアヴァリューのメーターや星形風車なども貪欲に取り込み、レッドグレーヴは尚も最大手として君臨し続けた。 同社の最盛期は1890年代。その時節は同時にビリヤードテーブル、バガテルテーブル、サルーンビジネスの最盛期でもあった。 しかしその後反対運動によりサルーンが急激に衰退。代わりにバールームビジネス、ペニーアーケード及びコインマシンビジネスへの変革が始まり、サルーンバガテルブームは徐々に下火となってゆく。 1918年の同社の従業員数は5人を数える程度となり、1925年を最後にバガテルの製造を休止する。 会社の存続が最後に確認された1927年においては、従業員数はわずか1名の事業にまで縮小。 この頃、既に引退していたであろう創業者モンタギュー・レッドグレーヴの年齢は80代の坂を越えていた。 こうしてピンボールビジネスの前駆者であるレッドグレーヴによるバガテル市場の統治は終焉を迎える。 創業57年というこの数字は、奇妙にも1927年に立ち上げて1984年に暖簾を下ろしたゴットリーブ社の創業年数と合致する。 モダンバガテルの父 モンタギュー・レッドグレーヴ氏は、イリノイシカゴで巻き起こった未曾有のピンボールブーム真っ最中の1934年、ニュージャージー州のモントクレアで死去している。享年90歳。 現在、レッドグレーヴの時代より遥かに遡った18世紀半ば頃のものと思われる、スプリングシューター機能付きピンボール筐体がドイツ南部のアルザス地域で見つかっており、レッドグレーヴ社をピンボール産業の元祖として探究する価値は低い……とみなす気運が見え隠れしている。 確かに、モンタギュー・レッドグレーヴはバガテルテーブルゲームの初考案者ではない。厳密に言えばプランジャーの発明者ですらない。 しかし、あやふやだった既存バガテルテーブルゲームのフォーマットを明確化し、産業として栄えさせ、世に顕揚した。 シンガーやロースチャイルズ、JMブランズウィック、ラフスキー、リーゼンフェルド、ボット兄弟、カランダー等々の多くの追随者を生んだ。 モンタギュー・レッドグレーヴは紛れもなく、バガテルテーブル及び後世のピンボールが、産業として収益になることを世に示した最初の人物だったのである。 |