ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆ロックオーラ社/Rock-ola Manufacturing Corporation/1928〜1992、ピンボール参入期間1932〜1938

 ジュークボックスブランドとして今も富貴な品格を保つロックオーラは、元々1920年代にコイン体重計・ガムボールマシンメーカーとして創業。
 やがてピンボール事業にも参入し、ゴットリーブとバリーが業界を牽引していた第一次黄金期の1930年代半ばに、その2社の製品を凌駕する7万台セールスのピンボールを立て続けに発表
 入賞の度にフィールド下部のジグソーパズルが1ピースずつ完成していったり、野球選手のようにボールが出塁したりする高度なメカニクスフィーチャーは、当時のピンボール業界のトレンドを一変させた。
 ハリー・ウィリアムスリン・デュラントエドマンド・フェイといった大人物も輩出しており、ジュークボックスコレクターらには勿論、現在のピンボール歴史家やアンティークコインマシンマニアの間でその偉業は語り草となっている。

― 解説 ―
 ロックオーラ・マニュファクチュアリング・コーポレーションの前身ロックオーラスケール社1924年に発足。
 ミルズ系列のスロットエンジニア見習いからキャリアをスタートさせたカナダ出身のデヴィッド・ロックオーラが創業者である。

 今もそのブランド名で製造が続くジュークボックスの名門で、ブラジルやラテンアメリカではジュークボックスとは呼ばず“ロックオーラズ”の呼び名がジェネリックな通名になっているくらい。

 海外ではエレメカアーケードゲームシャッフルボード自動販売機の最大手としても高名。

 日本の温泉地やデパート屋上で愛されたセガ製「プロボウラー('72)」の元祖であるエヴァンズ社「テンストライク('39)」大ヒット時、同社のファクトリー力不足を補うべく委託して製造された、ロックオーラ版ボウリングマシン「テンピンズ('40)」も代表作に挙げられる。

 東京ディズニーランドにある野球盤ゲームの源流「ワールドシリーズ1937」もロックオーラ社製であるし、'80年代前半の同社ビデオゲームの佳作「ニブラー」もレトロビデオゲーマーに人気だ。


 そのロックオーラ社は1930年代にピンボール事業にも参入している

 期間はたったの6年だが、その間に業界を揺るがすギガヒットを立て続けに発表し、そのうなるような収益がジュークボックス事業参入への潤沢な資金となった。

 ジューク産業の王者ワーリッツァーと共に切磋琢磨しながらも、ロックオーラがジュークボックス第一次黄金期、戦後の第二次黄金期を招いたと言ってもいい。

 SP盤から45回転盤レコードへの転換、'60年代以降の業界の低迷、'70年代の華やかなディスコブーム、'80年代後半におけるCDジュークへの馴致。

 かつての強敵ライバルだった競合他社が次々と潰える中、60年近くに渡って激動のジュークボックス産業を牽引。

 ロックオーラ一族は'90年代初頭にレコード盤から完全移行したCDジュークボックス筐体を完成させたのち、他社企業にジュークボックス事業とロックオーラブランド名使用権を売却。その役目を終えた。



 デヴィッド・カレン・ロックオーラはカナダのマニトバ州ヴァーデンで1897年1月23日に生まれている。

 地元の小型ポンプメーカーに勤めていた彼の父ジョージ.A.ロックオーラも発明家の才があり、カナダのパテント記録には彼の手による特許記録が残っている。

 丸太・狩猟・農業以外には名物が何も無いヴァーデンという町は若者にとって退屈な土地だった。

 就労意識が夙成していたデヴィッドはいつか自分の店を持つという明確な目標を見据えながら、僅か12才で町を出てサスカチュワン州サスカトゥーン市のボールドウィンホテルでベルボーイの職に就いた。

 しかし都会へ一歩でて社会に踏み出した途端に己の未熟と無学を思い知ることとなったデヴィッドは、ホテルに努める傍ら通信教育で機械工学を学び始めた。
 後年、デヴィッド・ロックオーラはこの時に受けた教育と勉学こそ、生涯の成功を支えた礎石になったと語っている。

 数年後、資金が貯まってきたデヴィッドはアルバータ州メディシンハット市に移住。
 そこのホテルの一角を借り、若干17才でシガーストアを200$の投資によりオープンさせている。
 しかも若くて麗しいセールスレディを従業員として雇い、昼間は彼女がカウンターに立ち、夜はベルボーイの仕事を終えた自分が店番をする……という昼夜のハードワークをこなしていた。

 なぜデヴィッドが若い女性を雇ったかというと、以前勤めていたホテル内のシガーストアでタバコを買いつつも鼻の下を伸ばして看板娘にちょっかいを出しに来る男性客を、仕事の傍らでよく目にしていたから。

 しかしこの時のセールスレディがトレードスティミュレーター(地域の法律により賭博が出来ない代わりにガムやキャンディなどが当たる)のスロットマシンをデヴィッドの店のカウンターに勝手に置き、自分だけ潤い始めた。

 訊けば、“ここのカウンターにスロットを置けば君は取り分を受け取れるぞ”ミルズノヴェルティ社から2人の営業マンがやってきたというではないか。
 その収益の高さを目の当たりにしてデヴィッドはとても驚いた。

 “もうタバコ屋なんてやってられるか!”

 ロックオーラはそのミルズの営業マンと連絡を取り、無給でもいいから何か仕事をやらせてくれ、と必死に頼み込んだ。

 “無給でタダ働きするような馬鹿はいらないよ。でも仕事が出来て優秀なら一緒に来い。今ウィニペグに新店舗を出すところなんだ。”

 ミルズ社営業マンからそんな返答を貰えたデヴィッドは即刻シガーストアを畳み、至嘱と展望に満ち溢れたコインオペマシン業界の海原へ、この瞬間から飛びこんだのだった。


 早速ウィニペグ市に移転してミルズサービス社の技術者見習いとなったデヴィッドは日々ガムボールマシンの制作に没頭。
 “千台作って1週間に1ドル稼げば年間52,000ドル儲かるぞ!”
 などと頭の中でそろばんをはじいていた。

 やがて彼はミルズから独立して10台の中古スロットマシンを購入。新品同様に修理し、オリンラオ州ケノラ市で操業を始める。

 しかしまだ嘴の黄色い若僧が成功する程業界は甘くはなく、経済的に苦しい境遇が続く。
 この時期のデヴィッドはドライバーやタクシー運転手など、生計を立てる為に多くの副業をなんでもしていたという。

 ケノラ、トロント、モントリオールと行き詰まる度に先々を転々とし、ついぞ国境を越えて辿り着いたのは、アメリカはイリノイ州シカゴシティーだった。1919年のことである。

 ハンサムなナイスガイだったデヴィッドは既に結婚していたが、この時の主な収入源はタクシー運転手の仕事。シカゴに転居した時の所持金は、ポケットの中にあった僅か65$だけだった。

 1922年になると、旧名インダストリーズノヴェルティーから社名変更したばかりのO.D.ジェニングス(ミルズから独立したスロットマシンメーカーで、のちにピンボールやジュークボックスにも参入)のファクトリーでスロットマシンの検品係を担当。
 また、デヴィッドは同じ仕事でも給料がはずむミルズ社とも契約して仕事を掛け持つようになる。
 ミルズとジェニングスはシカゴの同じ地区内に本社があったのだ。
 因みに天下のナショナルビスケットカンパニー(ナビスコ)の食品工場もご近所同士だったという。

 かような下積み時代を経て、デヴィッドはラインワークの製造、各パーツの物流、コインマシンキャビネットの部品アッセンブルに対する深い見識を修得してゆく。

 やがて東部ミシシッピ河方面と南ニューイングランド方面のコインマシンオペレーターの人脈を築いたデヴィッドは、1924年にサウスパークアヴェニュー69丁目にロックオーラスケール社を設立

 更に、1925年にABT社のカウンタートップ台「ターゲットスキル」をオペレートする為のターゲットスキルマシン社を設立。同マシンにガムボール入賞装置を取り付けてABTからも一目置かれている。

 更に1926年にはブルーシールミント社を設立。会社の詳細は不明だが、社名から判断してガムやキャンディベンダー関連と思われる。

 そして1928年の終わり頃、それら組織の運営と製造を統合すべく、ロックオーラマニュファクチュアリングカンパニーが誕生
 いよいよデヴィッド・ロックオーラはコインオペ業界で頭角を現し始める。

 自社オリジナル商品第1号は、デヴィッド自身のエンジニアリングによる体重測定コインマシン「ロー・ボーイ」
 売り上げは新参者とは思えぬ程快調で、僅か数か月で従業員数とファクトリー面積を2倍に増やした(最も古い1928年版の画像資料がない為リンク先は'31年のリニューアル版)。

 同社は急成長し、シカゴ市内ウエストジャクソンブールヴァード625に3,900スクエアフィートもの広さのオフィスと工場を構えるまでに至った。
 更に1931年には12,000スクエアフィートに拡大している。

 物静かでいて気さくでハンサム、頼りになる好人物、何よりメカとコインマシン好き。誰にでも好かれるデヴィッド・ロックオーラの人脈は、忽ち業界内で拡充してゆく。

 その錚々たる顔ぶれは大物だけ挙げても枚挙にいとまがない。

 例えば3輪リールスロットマシンの発明者チャールズ・フェイ
 ワートリング社創業者トム・ワートリングとその5人の息子たち。
 ミルズ社のハーバート.S.ミルズとその兄弟や息子たち。
 ABT社のウォルター・トラッチ

 またスロットマシン事業でロックオーラと提携があったケイリー兄弟や、のちに強敵となるデヴィッド・ゴットリーブレイ・モロニーともこの時期に交誼を結んでいた。

 この1920年代半ばから'30年代初頭までにわたって築いたこれらの人脈は、ロックオーラにとって後々貴重な財産となる。


 一方、この頃のデヴィッドはシカゴの反社会組織、いわゆるギャングの犯罪に加担した容疑をかけられるというアクシデントにも見舞われている。
 ある日仕事を持ちかけてきた人懐こいナイスガイが、まさかギャングの一員とは知らなかったのだ。

 彼が起訴されると聞き、テナントビルのみんなが彼の無罪を求める嘆願書の署名を提出。
 1階のシガーストアにはデヴィッドの弁護費用を募る義援金呼びかけの張り紙まで出されていた。

 彼を慕う業界関係者の支援も集まり、お陰で経済的にまだ余裕がなかったはずのデヴィッドは、敏腕の弁護士と皆の請願により、有罪判決を免れることが出来たという。
 悪事千里を走るどころか、誰もが彼のイノセントを信じて疑わなかったのである。

 彼が容疑者とされている間、指導者不在となったロックオーラ社を支えたのは“ビッグジョー”ことジョセフ.O.ハーバー
 当時のデヴィッドの懐刀の一人で、その謹厳実直な人柄と運営手腕により、セールスマネージャーからジェネラルマネージャーに昇進した人物だった。

 この頃デヴィッドに代わってビッグジョーが舵を取ったのは、ピンボールとスロットマシンの販売代理業

 当時の定番台「バッフルボール」「バリーフー」「バリーラウンド」、更に旧キーニー社製ピンボール「レインボ」「シーソー」、他ミルズ,ジェニングス,ワートリング社製スロットマシンのディストリ事業も主導。

 また当時の業界誌“コイン・アンド・スロット”“オペレーターズ・マガジン”の通販代理・住所リスト作成という意外な事業も手掛けて業界を支えた。

 ジェネラルマネージャーとセールスマネージャー両方の仕事で多忙を極めていたハーバーであったが、その忠義が認められてロックオーラ社の副社長へと就任。
 1932年に同社は社名をロックオーラ・マニュファクチュアリング・コーポレーションへと刷新、製造ラインと経営基盤がここで確立した。

 因み社名がハイフン入りのRock-Olaとなったのもこの時で、これは“ロッケーラ”と間違って発音されるのを回避するため


 現場へ復帰したデヴィッド・ロックオーラは、未曾有のブームとなっているピンボールに触れてゆくうち、

 “打ち出したボールの先行きをぼんやり眺めるのではなく、ロッドのドライヴで球を操作することが出来たのなら、新たな面白さを開拓出来るのではないか”

 というコンセプトを思いつき、いよいよピンボール事業への参入プランを立ち上げる。

 1932年7月21日にロックオーラ社は新たなピンボール部門を設え、チーフエンジニアのビル・ネルソンと共に第一号機「ジャッグルボール」の開発をスタート。ネルソンとデヴィッドの名で特許申請も叶えた。

 どんなゲーム性だったかというと、入賞ホールへ入るようロッドを操作してボールをお手玉のように操作するというもの。
 中心ラインの上下にある2つの[G]のホールが難しい。7ボール制でJ-U-G-G-L-Eを完成させねばならないので、ミスが出来るのは1回だけ。

 ゴットリーブ社の「ハンプティーダンプティー」によりフリッパー装置が登場する'47年より15年も先立ってボールの操作性に着目した先見の明には脱帽であるし、また入賞ホールにJ-U-G-G-L-Eのスペルをふるという、現在も受け継がれるレターフィーチャーをピンボール史上初めて取り入れたのもこの機種である。

 しかし何より特筆すべきは、そのロックオーラ社の突出的プロモーション能力だった。

 デヴィッドの指揮のもと、ビッグジョーはビルボード誌から12頁もの広告枠を購入。

 “ボーイズ!我々ロックオーラは未来に向かって新たなプランが進行中だ。記録的で画期的な発明が登場するぞ。君たちも俺達のマシンを買ってビッグになろうぜ!”

 商品名も具体的説明も排し、謎めいた構成で耳目を集めようとする、いわゆる“ティーザー広告”と言われる手法だった。

 デヴィッド・ロックオーラとジョセフ・ハーバーは「バリーフー」を当てたバリー社や、「ファイヴスターファイナル」をヒットさせた時のゴットリーブ社のプロモート手腕を販売代理店の立場で直に感じ、その宣伝のノウハウを研究し尽くしていたのである。
 オートマチックエイジ誌にも同様の広告が出稿された。

 これら宣伝の策が功を奏し、まだピンボールの商品名すら明かさていないのにもかかわらず千台ものオーダーを受注。
 新たなセールスマネージャーとしてS.M.ピケンズが入社。更に最先端の15t巨大プレス機を工場に搬入、パンチプレス工員達も大勢迎い入れた。

 結局、ファーストユニット製造開始時に入ったオーダー数は1万台に届いた。その後更に五千もの追加オーダーが入ったという。

 ロックオーラ社の鳴り物入りプロモーション演出は二の矢、三の矢と放たれてゆく。

 9月に入ってから、じらしにじらしたピンボールの商品名「ジャッグルボール」をついぞ公式に発表。
 カラフルな4ページ広告が世界規模で出稿された。

 更にロックオーラ社は新製品発表の記者会見まで開き、その魅力と画期性を記者たちへ饒舌に語った。

 『この18ヶ月ほどの間、ピンボールマシンのゲーム性は停滞気味で似たり寄ったりの台ばかり。しかし、我々がこれまでのピンボールの常識を打ち破る商品を生み出しました。もうプレイヤーがアウトホールに向かうボールをなすすべなく眺めるような時代は終わりを遂げるのです。プレイヤーがロッドを操作して入賞ホールを狙う新たなピンボールゲーム、“ジャッグルボール”の登場です!更に2300ものオーダーが入ったため工員を増やし、製造を3シフト24時間体制としました!』


 そのゲーム性は同時期他社作品の水準を十二分に上回っており、当時の業界誌は

 “現在「ジャッグルボール」を筆頭に「シャッフルボール」「パイロット」「グーフィー」、といったスキル系の良作ピンボールが出揃いつつあり、今後この路線が発展する可能性が高い”

 ……と評価していた。


 ところが、ロックオーラ社の記念すべきピンボール第1号機「ジャッグルボール」は失敗作となった。

 キャビネットを豪華にデザインし過ぎてコストパフォーマンスが悪かったことにも要因はあるが、何より悪評となったのが、ロケーションでの回転・収益の悪さ

 運の要素が強い同時代の他のピンボールと比べ、あまりにもスキル性を重視していた為、1ゲームで20分、中には1プレイ1時間も遊ぶ奴が各ロケに必ず現れて、インカムがさっぱり上がらず、オーナー達にとっては商売上がったりとなった。

 この悪評は瞬く間に広がり、過剰在庫を抱えた業者からは“大嘘つきのロックオーラ社を潰してやる”と脅迫まで受けるようになったという。

 債権者たちがロックオーラ社に大挙して押し掛けた時、デヴィッドは現在の状況と今後のビジネスの方向性を真摯に釈明。
 会社の運営及びピンボール事業を継続させて頂きたいことを嘆願し、どうにか説得して帰って頂いたものの、今回の屈辱と、急務となる今後の方向性の見直しに、デヴィッド達はしばらく懊悩の日々を過ごすことになった。

 そんなジャッグルボールの在庫も、自身の頭も抱え込んだロックオーラだったが、アメリカでの大コケに反し、不思議なことに本機種のゲーム性の高さはイギリスの方で評判となった。

 ロンドンの販売代理店シェフラス・オートマチック社で最初は10台、次に20台、やがて100台単位で、追加バックオーダーが続々と入り始めた。スコットランドで人気に火が付いたのだという。
 ほろ酔いのバーの客たちが15分から1時間かけて、すっかり疲れ果てるまでジャッグルボールに夢中になっていたそうだ。

 シェフラス社のお陰で、ジャッグルボールの在庫を全て捌くことが出来たのだった。


 ―――この後ロックオーラ社は、ピンボール市場は勿論、コインオペ業界が全体がひっくり返るほどの革命的ギガヒットを2作連続で世に送り出し、忽ちコインマシン産業界の台風の目となってしまう。

 その名も「ジグソー」と「ワールズシリーズ」。何と両作とも7万台製造の大ブレイク。
 バッフルボールやバリーフーと同じか、それ以上の販売記録を打ち立てることになる



 ロックオーラ社のピンボール部門は、習作となった「ジャッグルボール」に続き、「ウイングス」なる佳作を発表する。

 ウイングスにはプレイフィールドの上下にルーレットの様な2枚の回転盤を誂えるという凝った仕掛けが搭載されており、まずまず楽しめる小品だった。

 だが当時の市場ではバリーのロングセラー「エアウェイ」ゴットリーブの「ブローカーズチップ」が流行。ゲンコ社は「シルヴァーカップ」のヒットにより躍進。
 スロット創世記から築いた盤石な販路を持つミルズ社は、安定した人気台「ミルズオフィシャル」の4万台ファクトリー製造を未だに続けていた。

 ロックオーラの「ウイングス」は大きな話題にはならなかったが、過剰に仕入れたジャッグルボール用キャビネット材を全て捌けただけに留まらず、コンベアーステーション上での二重アッセンブルラインを考案・実現するという進歩をこの時に果たす。一分半でひとつの行程が仕上がるよう編成し直した。

 このファクトリーの改変が、直後の大成への布石となっている。


 次にロックオーラ社は、スコアホール入賞の度に呼応したパズルピースをカシャッ☆と現出させ、同じ年に開催されたシカゴ万博博覧会の景観が完成してゆく……という、非常に凝ったメカニカルピンボール「ジグソー」の開発に着手する。

 同機種の着想は、デヴィッド・ロックオーラ当人がサウスサイドの小さなレストラン内にあった娯楽室のジグソーパズルを遊んだことがきっかけ。

 街に失業者が溢れた大恐慌時の'30年代に、ニッケル1枚で遊べる手軽な娯楽としてピンボールが持て囃されたように、同時期に巷ではジグソーパズルのブームも巻き起こっていた。

 1932年の春、ある企業が無料の特製ジグソーパズル型ダイカット広告によるプロモーションを打ち出したのを劈頭に、全国規模のパズルブームが勃発。

 街中の新聞販売スタンドでは25¢程度の値段でお手軽にパズルが売られ始め、1933年の1月には数百ものパズル会社が林立。
 ウィークリーJIG、ピクチャーパズルウィークリー、週刊パズル、週刊JIGGERS、ムービーカットアップス、ワンスウィークパズル……
 などなど週替わりで各社がパズルシリーズを発行。値下げ合戦も加熱し、大恐慌により派手な遊興が出来ない消費者たちを虜にしていった。

 ジグソーパズルレンタル店も登場し、一度は衰退して町から姿を消していたパズル図書館も復活。更にデパートやドラッグストアではジグソーカッターまで売られるようになった。

 デヴィッド・ロックオーラは頼みもしないのに「ジグソー」のメイキングやサクセスストーリーを各業界誌に寄稿している。

 “わたくしどもロックオーラ社は流行を徹底研究し、華々しいピンボールの開発を追及しました”
 “既に好評を博しており、このお手紙を書いている時点
(1933年9月)で早くも6700ものオーダーが入っております”
 “製作費は何と10万$!まるで宝石のような装飾は高級時計や近代高層ビルのような美しさ。決して故障発生でオペレーターの皆様にご迷惑をおかけしないよう、精巧且つ頑丈なつくりとなっております”


 ……などと滔々と説いている。

 あらゆる世間の風向きもロックオーラに味方した。

 もうひとつのテーマであるシカゴ万博はその年の秋に終わってしまうため発売後すぐに旬を過ぎるかと思われたが、シカゴ万博委員会は翌年に向けてワールズフェアの第二弾“センチュリーオブプログレス”を1934年5月〜11月の開催を目途に企画を進めていたのだ。

 更に、時の大統領ルーズヴェルトが長引く不況への処方箋として切ったニューディール政策が急激なインフレを起こすと予測されており、ジグソーの初回ユニット製造価格29$50¢が、今回の締切を逃すと大幅に値上がりする可能性が高いことを広告で煽ったのである。

 忽ち「ジグソー」の壮絶な量のオーダーがロックオーラ社へ殺到した

 ニューヨークにおける同社ディストリの最大手モダンヴェンディング社ナット・コーンもジグソーの大ヒットを直感して大量発注した業者の一人。

 シカゴのロックオーラ本社へコーンが高速飛行機で急行すると、12シリンダーキャデラックに乗った社長デヴィッドとセールスマネージャーのポール・ベネットが彼を直々に出迎え、工場内を案内した。

 もはや活況を超えて火を噴くようなその激しい製造ぶりにコーンは圧倒される。

 巨大パンチプレス機はいっときも止まることなく盛んにパーツを打ち出し続け、バッテリードリルはフル回転、数百も設えたコンベアーは延々と稼働し続けている。
 400人もの工員たちが24時間3シフトで1日に500台ものピンボールを製造、遮二無二量産され続けるジグソーがジャクソン通りやデスプレーンズの路地にまで積み重なって溢れ出ており、検品,梱包,輸送の行程も近寄り難い程の熱気とスピード感に満ちていた。

 45分後、モダンヴェンディング社は即決でジグソー5000台の前金2万5千$を支払い、契約を完了している。

 「ジグソー」のセールス7万台大ヒットの要因は、品質管理と工員達への徹底した教育及び流行や世相の研究、そして新しいピンボールゲーム性の開拓と進歩にある……と当時の業界誌は考察。
 1934年初頭にはABT社によるコインスライド機能の進歩もあったが、もしジグソーが無ければ、バリー製「エアウェイ」が発端となったボールトラップ系のフィーチャーの模倣ばかりで、'34年のピンボール市場は低減へ向かっただろう……と分析している。


 「ジグソー」とほぼ同時に開発がスタートしていた野球テーマの次作ピンボール「ワールズシリーズ」も、発売時には大変な騒ぎとなった。

 野球のグラウンドを模したプレイフィールドにはHit,Strike,Ball,Outのレーン及びホールが。
 ストライクやボールはポケットにキャプチャーされるが、ヒットに入るとボールは回転盤仕掛けのダイヤモンドへ
 ……ダイヤル稼働でボールが各塁へ野球選手の如く出塁するのだ!
 ホームインするとRUNのトラフへボールが入賞。でもアウトに入るとOUT数のリール窓数字が加算され、スリーアウトでチェンジ!キャプチャーボールがガチャッ☆とリセットされる。

 その抜きん出た精巧さとアイディアと、テンポよく歯切れの良い明確さは、他の先達メーカー達の誰もが舌を巻いた。

 初回製造「ワールズシリーズ」シアトル到着の第一便ではオペレーター達が先を争って搬出し、その場で追加オーダーを発注、大急ぎでマシンを輸送してロケーションへ設置した。

 10台500$が即座に売れ、次に5台が285$で売られ、最後の2台は実質2倍の150$がつき、あっという間に捌かれてゆく。

 商品版出荷時の混乱はまだマシな方で、1934年の3月から4月にかけ、ワールズシリーズ発売前のテスト台によるサンプル展示を行っていた販売代理店のショールームでは、オーダー殺到による発売延期に怒り狂ったオペレーター達が暴動まで起こしたという。

 ピンボール史上、こんな極端な熱狂は他に例がない。

 短期的なオーダーの殺到に応えるべく、ジグソー以上の量産体制が求められたロックオーラは、従業員を更にもう100人増員。ウェストジャクソン大通りのファクトリーは限界目一杯に拡張された。

 巨大パンチプレス機も48機に増大し、ワールズシリーズのパーツを激しい轟音と共に目が回る程次々に打ち出し続けている。
 大勢の工員達は何の迷いも無く流れ作業を整然とこなし、3機のベルトコンベアーからは完成したワールズシリーズとジグソーが20秒に1台運び出されてゆく。
 1日24時間で1200台ものマシンを製造した日もあったという。

 ロックオーラはファクトリーでの量産体制も、製造機器類の取扱いも、従業員教育及び人心掌握も含め、全て完璧に運営をこなした。
 「ジャッグルボール」の壊滅的な失態から一転、デヴィッド・ロックオーラは自社を危急存亡状態から見る見るうちに業界最大手へと逆転、狂瀾を既倒に廻らす剛腕を発揮してみせたのだった。

 このピンボール事業の大成がうなるような潤沢な資金となり、後述するジュークボックス部門参入への伏線となっていく。


 実はこの「ワールズシリーズ」の原盤。当初野球テーマでも何でもない別モノで、ほうぼうで散々突き返された挙句にようやくロックオーラ社へたどり着いた、しがない試作台であった。

 “あのゲームはロックフォードから来た青年から購入したものだったんだ。名前はもう覚えてないな。契約も設計も支払いも全部その時こっきりで、彼との関わりはそれで終えてしまったからね。ミルズにもジェニングスにもワートリングにも持ち込んでみたが異口同音に全部断られたって言ってたな。ジュークボックスを造り始める前のワーリッツァーの門も叩いたが、やはり突き返されたそうだ。”

 “彼が持ち込んだのは鋳造された車輪付きのピンボールゲームだった。メカニクスは興味深いが野球モノでも何でもなく、味気ない作風だったよ。それを見た時に閃いて、出塁するダイヤルホイールに改造、完全に違うゲームに作り変えて野球テーマにアレンジ、特許も私が取った。”

 “で、1台の売り上げにつき50¢の取り分で彼と契約した。それでも大分いい値段だぞ?彼はメカには強いが商才のセンスが乏しいしファクトリーも無いし。それでも工場のラインには必ず乗せてやると約束し、支払いの上限を25,000$
(現在の日本円の価値で言うと五千万円ぐらい)とした。それ以上は利益も不利益も君に課さないと。でもその商品があそこまで大当たりして、本当に25,000$目一杯支払うことになるとは思っていなかったな”

 後年そう語るデヴィッドだったが、他方の証言によりその人物はアーサー.W.スウェイソンであったと判明している。

 イリノイ州ロックフォード出身の彼は「ワールズシリーズ」の原盤をロックオーラに売った後、バリー,イグジビット,パシフィック,ウェスタンイクイプメント等、第一次ピンボール黄金期の'30年代に津々浦々のピンボールメーカーを渡り歩くフリーランスの技術者となっていった。


 ロックオーラによる「ジグソー」「ワールズシリーズ」なる驚愕メカニカルな傑作2機種により、1933年のピンボール業界は大きく飛躍することになった。

 腰掛けや便乗気分で参入して凡庸な台を出していた三流メーカーは淘汰され、大手各社はスポーツテーマを基軸にメカニカルな演出でゲームを盛り上げる……という新たなゲーム性の鉱脈を掘り下げ、より邁進していった。

 ロックオーラ製ワールズシリーズの快進撃を受け、スロット業界の覇者ミルズ社「プロフェッショナルベースボール」を発表。
 元祖ロックオーラの台ほど凝った内容ではなかったが、ミルズの強みであるファクトリー力と販路は同作を世に出回らせるのには十分なはずだった。

 西海岸ではワールズシリーズの配達遅延ゆえにエピゴーネンへの需要が尚更高まることに。
 サンフランシスコのOKノヴェルティー社「ホームラン」もその一例である。

 しかし、結局はワールズシリーズのバックオーダー入荷が追いつくと、ミルズの機種もOK社製のマシンも、すぐに淘汰された。

 最大手バリー社は'33年12月にはフットボールをテーマとした「ペナント」を発表。
 従来的なホール入賞をゲームの基礎としつつ、ゴールポストに模した風車型スピナーを設け、4枚バネの金属板でボールアクションを演出。22$50¢という低価格も重宝されたが、勢いに乗った風雲児のロックオーラ相手ではバリーですら敵わない。

 むしろ、「ワールズシリーズ」発売時にデヴィッド・ロックオーラの前に立ちはだかって彼を貶めたのはバリーでもゴットリーブでもミルズでもABTでもなく、現スターン社の遠縁と言ってもいいピンボールメーカー、ゲンズバーグ兄弟率いるゲンコ社である。

 何とゲンコはロックオーラが「ワールズシリーズ」開発時に出願中段階にあったプレイフィールドデザインの特許内容を調べ上げ、本家ワールズシリーズ発売とほぼ同時にそっくりな野球ネタの盗作台を発売して出し抜いたのだった。


 デヴィッドはジグソーのパテントと同じ日である1933年8月5日にワールズシリーズのパテントも取得している。
 その詳細はプレイフィールドのレーン構成とイラストレイテッド。ダイヤル盤やフィーチャー内容まではカバーしていない。

 流行り廃りの激しいピンボール業界。ひとつひとつの発行に煩雑な手間と時間を要する特許出願においてそこまで網羅する必要は無いと判断したのだろうが、その脇の甘さにゲンコがつけこんだのだった。

 例によってロックオーラの大々的プロモーションにより発売前から「ワールズシリーズ」は耳目を集めており、業界人の口コミでその完成度の高さを窺い知ったゲンコのデザイナー ハーヴェイ・ヘイスは、人脈を使ってロックオーラのパテント内容を突き止めた。

 その驚愕的ゲーム性の高さに慄然とした彼は、自分らだって十分画期的なスコア計算機能搭載ピンボール「ポンティアック」のプロジェクトを抱えていたのにもかかわらず、即座にワールズシリーズのイミテーション作「オフィシャルベースボール」の同時制作を決意する。

 尚「ポンティアック」「オフィシャルベースボール」のメカデザインのパテントはルイス・ゲンズバーグメイヤー・ゲンズバーグの名で登録されている。

 そして本家ロックオーラ台の配送が始まる一ヶ月前の業界誌に、ワールズシリーズのコピーキャット作「オフィシャルベースボール」を発表する、という離れ業をやってのけた
 しかもその広告にはワールズシリーズのものと同じ宣伝フレーズまで踊っていた。

 更にゲンコはオペレーターやディストリ相手に、
 “ロックオーラのワールズシリーズは素材が悪質なので良心的な当社の製品をご購入あれ”
 などと吹聴して売り捌いていたのだ。

 これには普段温厚なデヴィッド・ロックオーラも怒り心頭。

 シカゴのダウンタウンで見つけた弁護士ルイス・ヘルナンデンと共に悪質な盗作行為及びそれにまつわるゲンコの不行跡の証拠を集め、イリノイ州クック群の裁判所に「オフィシャルベースボール」の販売停止処分を求めて勝訴するが、この時各証拠を洗った結果、ゲンコは過去にも他社へ同じような不徳を何度も働いていたことが判明。

 しかも販売停止命令後もゲンコはパーソナルな販路の抜け穴でオフィシャルベースボールを完売、十分に潤ってしまった。

 その挙句、ゲンコ側は腕の立つ弁護士を雇ってロックオーラ側を逆訴訟。デヴィッドらに10万$の賠償を請求してきたものだから頭が痛い。

 ゲンコは咄々怪事なならず者だったのだ。


 デヴィッド・ロックオーラと弁護士ルイス・ヘルナンデンはゲンコ社へ直々に訪れて和解の話し合いを求めたが埒が明かなかったため、不承不承被告側として訴訟へ臨むことに。

 最終的にはゲンズバーグらの嘘が認められてロックオーラ側が勝訴

 業界では悪質な盗作業者が懲らしめられた訓話として大いに口の端に掛かったが、デヴィッドにとっては理不尽な骨折り損極まりなかったろう。

 その剽窃犯の張本人であるゲンコ社ハーヴェイ・ヘイスは後年、今だから話す……とようやく胸襟を開いてこう証言している。

 “ロックオーラの「ワールズシリーズ」がダイヤル仕掛けでボールを回転盤で出塁させていたのに対し、ウチの「オフィシャルベースボール」はダイヤル装置無しできちんとゲームを成立させてたんだよ。なのにデヴィッドは盗作のかどで俺達ゲンコを訴えた。”

 “お互いに時間もお金も浪費したし、大いに疲弊し、かなり高くついたしくじりとなった。でも我々だって生き馬の目を抜くようなピンボール産業の真っ只中で生き残りをかけ、必死にもがいていたんだ。だから敏腕弁護士クラレンス.E.スリーディー氏を雇ってどうにか正当化しようとした。”

 “結局我々ゲンコ側の敗訴に終わったが、この時節にはミルズとABTも互いに長引く泥沼の訴訟合戦の果てに殆ど相討ち状態に陥っていて、改めてピンボール産業には協定の様なものが必要であると考えさせられたんだ。”



 ロックオーラにとってこの裁判での浪費は、自分らのパテントの取り方が甘かったことを学ぶ高い勉強代となった。
 「ワールズシリーズ」は製造途中で幾度も改良が必要となり、同機種に複雑なヴァージョン違いがいくつも見られるのはこの為である。最終バージョンはその年の秋の発売版で、価格は37$50¢となっていた。


 そんな奇禍と障壁が立ちはだかったにもかかわらず、「ワールズシリーズ」は数々のエピゴーネンを吹き飛ばし、バージョン違いを含めて総計7万台の売り上げを記録した。
 ……「ジグソー」7万台大ヒットが出たばかりだというのに!


 ロックオーラはこの度の成功を経て、将来に向け気宇壮大な展望を思い描いていた。

 2回目のスポーツテーマとなるピンボール次回作予定の「フットボール」、及びフットボールに馴染みのない他国への同ゲーム輸出版「プレジャーアイランド」が控えている。
 しかしこれらの製造は今の工場でもパンクする。現状の土地ではこれ以上のファクトリー拡張はもう限界だ。

 それどころか構想中の硬貨式自動蓄音機〜コインオペレート・オートマチック・フォノグラフス―――ジュークボックス事業の展開など出来るはずがない。

 彼の出した結論は、他企業の買収であった

 その年の11月に打たれたある新聞記事は、コインオペ産業の関係者たちをあっと驚かせた。

 “自販機,ゲームマシン,体重計メーカーのロックオーラ社は1934年11月8日、シカゴ市ケッズィー大通りにあるピアノ・オルガン製造業者グルブランセン社の7エーカーもの巨大工場を買収した。引き続きグルブランセン社はロックオーラから9万平方フィートの区画を借地する形でピアノとオルガンの製造を継続する。この工場本館の床面積は約25万平方フィートもの広さを誇っている”

 デヴィッド・ロックオーラはこの莫大な面積の新工場で、ピンボールのエレキ化への対応、及びジュークボックス新事業進出へのプランを進め始めたのである。

 ピンボール事業参入から僅か2年と数か月。ロックオーラはあっという間に世界最大規模のピンボールメーカーへと伸し上がり、それどころか次の射程であるジュークボックス産業最大手となる道のりの地ならしまで始めていた。


 一方、ロックオーラ社の大躍進の波及は、西海岸側の大物をも動かしていた。

 カリフォルニア州ロサンゼルスに拠点を置いていたハリー・ウィリアムスは自社を持つ傍ら、地元西海岸のピンボールメーカー最大のファクトリーであるパシフィック社で、革命的な初電気化ピンボール「コンタクト」を1933年11月にリリース。業界の耳目を大いに集めていた。

 しかしパシフィック社社長フレッド・マッケランがエレメカピンボール第2弾としてハリーにオファーした「メジャーリーグ」の企画内容がワールズシリーズの模倣に終始していた為、制作陣から降板する。

 彼の頭の中には同じ野球ゲームでももっと大きな構想があったのだ。

 1935年、ハリーは活動拠点をロサンゼルスからシカゴへ移すことを決意し、運営していた自社の残務整理を父親へ一任。
 コインマシンメーカーとして世界的急先鋒となっていたシカゴ市ロックオーラ本社の門を叩いた

 彼がその時ロックオーラへの手土産としていたのが、日本でも親しまれている家庭用野球盤全ての源流であり、今も東京ディズニーランド内ペニーアーケードで賞玩され続けている野球ゲーム筐体「1937ワールドシリーズ」の企画書であった。

 ロックオーラ専属のゲームデザイナーとして一プランを任されたハリーは、今やバリー社のチーフデザイナーとなっていたジョージ・マイナーを訪問。
 マイナーはハリウッド時代からのハリーの友人だったのだ。

 “今こそ以前君が試作した野球筐体「オールアメリカンオートマチックベースボールゲーム」をロックオーラのラインに乗せるべき時だ”
 とビジネスを持ちかけ、彼からパテント使用の権利を購入。

 1929年の時点で同作の試作機が完成していたものの、大恐慌の勃発でファクトリーも資金繰りも回らなくなり、以来マイナーが商品化を諦めていた精巧な野球シミュレーションゲームを、ロックオーラ社のラインで世に送る絶好の商機であることをハリーが察知したのだ。

 デヴィッドらと協議の末、今やロックオーラの著名ブランドと化したワールズシリーズの兄弟的な位置づけとなるよう、商品名を「1937ワールドシリーズ」に決定。ハリーをチーフとし、マイナーの協力も得て開発がスタートした。


 天賦の才も人望もあるハリーはロックオーラでの仕事を通じて更なる人脈と交誼を深めている。

 例えばロックオーラ社内のハリーのオフィスに回転盤ステッパー型スコア表示計算機能ピンボールのプロトタイプを携えて飛びこんできた発明青年リン・デュラント
 彼とはその後イグジビット社、ユナイテッド社、そして自社のウィリアムス社でも共に仕事をしている。

 フィラデルフィア地区のロックオーラ商品ディストリビューターのサム・スターンとも親しくなり、サムはその後ウィリアムス社のオーナー及びマネージメントを勤め、そしてハリー自身は'80年代初頭にサムの会社スターンエレクトロニクス社専属の古豪デザイナーとして晩節をまっとうしている。


 閑話休題、「1937ワールドシリーズ」は4フィートもある大掛かりな筐体であるのにもかかわらずリアルな野球シミュレートと精緻なメカニクス、そして快活なボールアクションによりワールズシリーズ同等の特大ホームランとなった。

 ハリーのシカゴデビューの幸先を飾るようなめでたしい大ヒットの裏で、元となった原盤である「オールアメリカンオートマチックベースボールゲーム」生みの親ジョージ・マイナーが1935年10月7日、ワイオミング州シャイアンで不慮の飛行機事故により急逝する……という唐突な悲劇にも見舞われている。

 バリー社プレジデントのレイ・モロニーが飛行機嫌いとなったのは、同社制作チームの柱石を突然喪ったこの不祝儀のせいだったと言われている。


 ハリー・ウィリアムスはロックオーラでこの「1937ワールドシリーズ」と数作のピンボールを手掛けたものの、やがて退屈し始め、個人でバリー社の下請けの仕事も同時に請け負うようになる。

 そして公私ともに親密となったリン・デュラントと共に2年でロックオーラ社を去り、デュラントが立ち上げたナットハウス(社名なのかハリーとの通称ユニット名なのかは不明)でバリーから外注の仕事を請け負うことになった。

 デヴィッド・ロックオーラはハリーが会社を去ると知ってとても残念がったという。

 “ハリーは本当に優秀で賢能な人物だったよ。彼に欠点があるとすれば、周りの人間が誰もついてゆけなくなること。ワークホリックで常に何かをクリエイトせずにはいられないし、ギリギリまで一片の妥協もしない。ひとつの商品開発が始まったばかりなのに、もう次の企画を考案している。周りはそんなハリーのエネルギッシュな頭脳と行動に太刀打ちでず、歯がゆさを感じ始めた彼は私の元を去った。けど数年後、シカゴでのマシンショー会場の吹き抜けの階上から私を見つけたハリーは階段を駆け下り、デヴィ――――ッド!と叫んで飛びついて来てくれたよ。”

 後年ハリー・ウィリアムスはロックオーラでは何も貢献出来ずに去ることになってデヴィッドらに申し訳ない……と述懐しているが、勿論人柄による謙遜で、彼はロックオーラのデザインチーフとしてピンボールの電気化やゲームデザインのエンジニアリングに多大なる貢献をしている。

 1935年製「21」及び得点インフレ版「21000」内蔵バッテリーパック電源によるエレキ仕様ピンボール
 入賞ホールからの自動キックアウトは勿論、華やかなバックグラススコアライティングはプレイヤーにインパクトを与えた。

 '30年代前半頃のピンボール点数表示方法としてリールや回転盤の小窓表示が標準仕様になりかけていた矢先に、ハリーの発明による華やかな電気化ピンボールが登場。
 忽ちバックライトタイプのイルミネートスコア表示が劇的に広まり、そのままスコアトータライズの標準仕様となった。

 オールドファッションピンボールの象徴であるリールドラムスコア表示が標準仕様として馴致するのは、'50年代末頃以降のことなのだ。


 1936年に入ると、ロックオーラ社は「ビッグバンクナイト」を発表。
 バンクナイト映画興行というコンセプトが斬新で、その年一番のヒット作となった。

 バンクナイトとは、'30年代に流行った宝くじイベント付き映画興行のこと

 '20年代後半のトーキー映画ブームが一段落した矢先に起こった大恐慌により、'30年代の映画館では客足が低減。
 そこで劇場側が考え出したのが、スクリーンやステージで抽選会が行われて賞金が当たる懸賞金付きの興行。
 他にもお皿が当たるディッシュナイト、本が当たるブックナイトなる映画館も現れた。

 現代の感覚からすると、宝くじはともかく皿や本の為に映画館に行くか?と疑問に思えるが、
 “あの豪華で素敵なお皿セット絶対欲しい!夢にまで見た古典文学20巻セットが当たるなんて夢のよう!”
 ……と、客足は結構回復したそうだ。クリックひとつで何でも安価で手に入る今の我々とは物の価値観が違ったのだろう。

 その懸賞映画館のワクワク感を再現したのがこの「ビッグバンクナイト」で、アートワークに描かれている映画館名が“チヴォリ”となっているのにもニヤリとさせられる。

 ゲームスタート時チケット購入、ウイニングナンバーホール、積立式バンクいわばジャックポット、プレイヤープレゼントホール等々、実際のバンクナイトに則った各フィーチャーが優雅にボールアクションを盛り上げた。


 ビッグバンクナイトと同時発売だったペイアウト台「クイーンメリー」は当時のトレンドであるニッケル1枚ワンボール制のあこぎなギャンブル台で、タイトルの通りイギリスの豪華客船がテーマ。
 プレイフィールドには今にも着岸せんとするクイーンメリー号が正面からどーんと描かれている。

 サウンドの演出も凝っており、ロールオーバー通過の度にクイーンメリー号の時鐘を彷彿させるベルがゴキゲンに鳴り響いた。

 大当たりのブルーリボンレーンは8$賞だが支払い上限は10$なので他の入賞に意味がなくなるというちょっとズルいルール。
 底辺10箇所ポケットのうち毎度一か所が当たりとなるランダムフィーチャーもプレイヤーに楽しまれた。


 勿論、ロックオーラピンボール部門で辣腕を振るったのはハリーとデュラントだけではない。

 時系列は前後するが、ピアノ業者から買収した工場がロックオーラ新社屋となった頃、旧社屋でひとりきりで無電源のテクニカルメカ系の秀作ピンボール「アーミーアンドネイヴィー」を開発したビル・ヒューネガートなる優秀な人物もいた。

 頭脳はキレるがあつかましいヤツだったようで、一度デヴィッドを怒らせている。

 “自分の好きにやりたいからいちいち指図してくるなだと?あぁそうか分かったよ。じゃあ旧社屋の一番下の奥の部屋で一生やってろ!お前専用の部屋だ!壁も塞いでやる!頭ぶつけんなよ!”

 そう言うとデヴィッドは、直属の部下であるヒューネガートを本当に人気のない奥の部屋に放り込み、勿論ガチに監禁した訳ではないが、他の者を誰も立ち入らせずに半年無視して放置してやったそうだ。

 で、おーい生きてるか?とデヴィッドが半年ぶりに見に行ってやったら、凄まじく汚い部屋からぬっと出て来た彼が差し出したのが、「アーミーアンドネイヴィー」の原盤
 1935年1月に完成して2月のシカゴでのコインマシンショーで好評を博した。

 ニューヨークディストリのモダンヴェンディング社は
 “アーミーアンドネイヴィー購入者先着千名様に、ゲームのカラーリングである金色と青色のウールマフラーをプレゼント!名のある業者の特注品ですよ〜”
 などとプロモートしていた。シカゴの冬は寒いからね。


 更にこの時期、スロットマシンの発明家チャールズ・フェイの息子エドマンド・フェイなる頼もしいサラブレッドもロックオーラのチームに加入している。

 エドマンドは1896年2月28日、カリフォルニア州バークレーで、スロットマシンの発明者チャールズ・フェイの息子として出生する。

 母国ドイツからアメリカに移住して電気製品会社やギャンブルマシンメーカーを次々興した野心溢れる父親と違い、寡黙で無口。

 メディアの脚光を浴びることはおろか人前に出ることすら嫌っていたエドマンド・フェイは、組織に属して尽力することを仕事の矜持としていた為、コインオペ産業史において彼の名を拾うことは少ない。
 しかしエドによる発明や特許数の多さ、そのメカニクスや電気工学の才能は、実質父親以上の資質を湛えていたという。

 正にコインマシン産業の開拓者である父の背中を見て育った彼であったが、第一次大戦中はアメリカ外征軍の機関銃手としてフランスに出兵。帰国後は父と比べられるのを嫌って家を飛び出し、メリーゴーランドのオペレーターに就職。

 その時創出したガンゲームやレースゲームを売りに出すうち、「K.O.ファイターズ」なるボクシングゲームが大手に売れ、十分な収益となる。

 それを資金としてラ・プラーヤ街にビルを購入し、そこでアミューズメントマシンの改造や修理を請け負う会社ワムコ社(Western-Automatic-Machine-Company,略してWAMCO)を、1935年に設立する。

 この時彼はまだ業界の誰も叶えていないライティング機能つきバックボックスピンボールをパテント申請。何とウィリス発明/パシフィック社「ライトアライン」の発表よりも数か月早かったという。

 さらにエドマンドは、まだスティミュレーターの払い出しとクレーンゲームで掬い取るキャンディーの取出し口シュートぐらいしかプライズが無かった時代に、ピンボールの景品払い出しキャビネット機能まで創案。

 しかしどちらも地元マニュファクチュアから声がかかることはなかった。
 後に親友となる年齢ひとつ違いのデヴィット・ロックオーラなる知己を得るまでは。


 既にハリー・ウィリアムスやリン・デュラントに知遇を与えていたデヴィッド・ロックオーラだったが、1935年のシカゴで開催されたコインマシンショーでワムコの製品を見た彼がまたもや伯楽を発揮。
 エドの才覚を見出し、パテント購入と同時に彼を雇用契約の上製品化に着手した。

 エドマンドは以前から父チャールズ・フェイとデヴィッド・ロックオーラには面識があることも承知していたが、前述のように親からの七光りを嫌い、父を一切頼らずに、一切合財自分の実力でロックオーラ社エンジニアとしてのキャリアを勝ち取ったのである。

 エドマンドのエンジニアリングによる「ビッグゲーム('35)」「ボンバー('35)」は、何とバックグラスライティングで簡単なアニメーション表現があったばかりか、簡易ではあるがシンセサイザーサウンドデヴァイスを用い、銃声や爆発音を表現した音響演出機能まで装備していたというから驚きである。

 因みにこの時期、他社からはピンボールのキャビネット内に蓄音機を仕込ませてサウンド効果を謳ったマシンも登場。
 流石何でもアリの'30年代。ピンボールのカンブリア爆発期を象徴するような逸聞である。

 尚ゴットリーブ社は瞬時に名が轟いたエドマンドの発明に目をつけ、彼に使用料を支払ってまでしてソレノイド稼働によるミントベンダーのプライズピンボール「リバティーベル('35)」「プラスアンドマイナス('35)」を発表している。


 残念ながら1938年にロックオーラ社はピンボール事業から撤退を表明

 理由としては今後ジュークボックス事業に重きを置きたいことと、天才エンジニアコンビのハリーとデュラントに抜けられてしまったこと。

 そして1936年からニューヨーク市を震源に噴出したピンボール反対運動が、若者の非行防止を名目とした政府の利権目的と、あまりにも流行り過ぎたゆえの教育者達からの憎悪により、法規制が急激に整備されていった社会的時勢から。

 これらの要素が重なった故の結論であった。

 ロックオーラによるピンボール市場参入期間はたった6年。

 しかし隔世の現在においても「ジグソー」「ワールズシリーズ」なる2つの巨大隕石を落としたその功績とインパクトは絶大で、まるで驚異的な地質を発掘した考古学者を唖然とさせるような驚きを、21世紀のゲームマシンの歴史家たちに今も尚与え続けている。



 ピンボールからは距離を置いてしまったものの、測定器、ガムボールヴェンダー、スロットマシン、ボウリングマシン、占い機、シャッフルボード、スクーター、TVキャビネット、パーキングメーター、家具、缶やカップサイダーの自販機、不動産業、等々……。

 デヴィッド・ロックオーラは60年間何をやっても成功する会社経営の豪傑だったが、最たる主力はやはりジュークボックスである

 コインオペ業界の巨人であるロックオーラ社その後の軌跡を、ジュークボックス事業の栄枯盛衰を基軸として駆け足ながら最後まで追っていきたい。


 高価な家庭用蓄音機の名機種「ヴィクトローラ」を日々愛聴するにつれ、コインマシンフォノグラフへの憧憬が抑えられなくなったデヴィッドは、ピンボール事業の大成で拡大したファクトリーとエンジニアスタッフと販路を基盤に、ジュークボックス部門の設立へと着手した。


 1928年に音響増幅装置(今で言うスピーカーの原型)が普及したことにより、既にジュークボックス産業はこの年の前後にかけワーリッツァー,AMI(オートマチック・ミュージカル・インストゥルメンツ),シーバーグ,ミルズら先達によって隆盛しており、年間数十万台の筐体が製造されていた。

 更に遡ると、最初のシリンダー式コイン蓄音機は1889年に、初のレコード盤式コイン蓄音機は1898年に登場している。

 1890年代の蓄音機市場はアメリカ国内及び海外も含め、最大手コロンビアフォノグラフ社を先鋒に12社もの大手が凌ぎを削り、北アメリカとヨーロッパで“リスニングパーラー”なる新手の商売が流行。
 一過性ではあるが当時は大変な人気で、ビリオン規模のニッケルが動いたという。

 但しこの時期のコインオペフォノグラフは音楽を聴いたり踊ったりするのではなく、機械から伸びたくだに耳を当てて人の話し声が聴ける物珍しさに文字通り耳目が集まっていた。


 自販機や体重計を開発してきたデヴィッドらがいくらメカには強いとはいえ、蓄音機やジュークボックスを一から開発するのは無謀である為、先ずは手本として叩き台となるような、過去に埋もれていた特許の購入から始めた。

 ジュークボックスとしては早過ぎたが蓄音機産業にとっては遅きに失した、1906年パテント取得・史上初カバーキャビネットタイプ選曲機能付きコインオペ蓄音機の権利を、その所有者であり発明家のジョン・ゲーベルから購入する。

 次に、複数のレコードからセレクト再生可能でそのラインナップも交換出来る画期的な装置を開発していたポール・スマイスなる人物とパテント使用及び雇用契約を交わし、ジュークボックス第1号機の開発に取り掛かった。

 しかしこの時ロックオーラはこんな脅迫電話を受けている。

 “今すぐジュークボックスの開発なんかやめるんだな。既に市場は飽和状態だ。君たちが入り込む余地はないんだよ。恥をかきたくなければ身を引け、とデヴィッドにもよろしく伝えておけ”

 既にピンボールで大成していたロックオーラのジュークボックス参入を脅威と判断した最大手ワーリッツァー社からの恫喝であった。
 他にもロックオーラは、ワーリッツァー社の営業部長で後の連邦上院議員ホーマー・ケイプハートから、あらゆる圧力をかけられたという。

 誰もが仰ぐあの名門が、こうも卑怯な連中だったとは!

 デヴィッドらは歯ぎしりを鳴らしながらも万難排した1934年。遂にロックオーラ製ジュークボックス第一号機「マルチセレクター」を完成させ、ヒルトン系列として現存するシカゴのパーマーハウスホテル恒例開催のジュークボックスコンベンションでの初披露へとこぎつけた。

 ワーリッツァーの最高セレクト盤数10枚を超える12枚ものSP盤セレクト再生機能。
 ラジオコンソールキャビネットのような気品漂う外観。
 しかも手頃な価格で稼働の信頼性は高く、故障も少なくて頑丈。

 いわゆるジュークボックスと呼ばれる筐体の仕様は、この時代に確立した。

 オペレーター達からはロックオーラ製筐体への注文が殺到。ピンボール分野の時と同様に、たった数ヶ月でロックオーラはジュークボックスメーカーの大手へあっという間にのし上がったのである。

 しかし妨害工作の二の矢がワーリッツァー社から放たれる。

 ポール・スマイス発明のメカニズムがワーリッツァーのパテントを侵害したという主張により、ワーリッツァーはミリオンダラー単位の損害賠償を請求してきたのだ。

 だがその裁判はロックオーラ側が勝訴。同社は業界をリードするジュークボックスメーカーの地歩を一層固めたのだった。


 その後ロックオーラはジュークボックスの新機種を精力的に発表。

 1936年製「ナイトクラブ」「レギュラー」を、1937年には16枚選択機能「リズムキング」「リズムマスター」を、1937年には20枚セレクト台「インピリアル」を世に放った。

 特に1936年はロックオーラ社の転換期として多くの業界人たちの記憶に刻まれている。

 当時ニューヨークからの記念すべき初運航としてともづなが解かれた豪華客船クイーンメリー号の進水式に、ロックオーラは同客船のデッキへ自社新製品ジュークボックスを処女航海祝いとして贈呈したのだった。

 “クイーンメリー号がどんな航路へ向かおうとも、そこにはロックオーラ社製ジュークボックスによるスイートな音楽が奏でられる―――”

 その写真記事による各紙の報道は、ロックオーラ社製品の世界規模的パブリシティとなった。
 ここでもピンボールの時と同様、デヴィッドの才覚であるプロモーション力が十二分に発揮されている。


 '30年代半ばまでは当時のメディアの代表であるラジオに似せたキャビネットがジュークボックスの主流だった為、同時期のロックオーラはラジオキャビネットの製造パーキングメーターの事業も手広くこなしており、この時既に従業員は3,200人もの大所帯となっていた。

 そんなラジオ風キャビネットジュークボックスが飽きられだすと、今度はカラフルファンタジーライティングがトレンドに。

 皮切りはワーリッツァー社の名デザイナーポール・フラーによるアートフルなライトアッププラスチックピラスターキャビネットの「モデル24」。1938年製。

 オールドファッションなジュークボックスのイメージと言えば、半透明のプラスチック製シリンダーが曲線を描くカラフルライティングキャビネットだが、そのスタイルはポール・フラーにより'30年代後半に生まれている。

 ロックオーラも1938年製「モナークモデル20」及び'39年製「スタンダード20」「デラックス20」で初期のプラスチック材料“カタリン”を多用。カラフルライトアップ路線に対抗している。

 1940年にはその路線を発展させた「マスター20 ラグジュアリーライトアップ」を発表、独特のカラーライティングスタイルが好評で、“ロックライト”なる通名まで生まれた。

 ファンタジーな外観デザインのみならず、競合他社と切磋琢磨しながら新たなスタイル、新たな機能への発案と進化へも、デヴィッド達は研鑽の手綱を緩めない。

 1939年にはコンパクトサイズのカウンタートップ型「CM-39」1941年には同じ路線の「モデル1409」「ジュニア12」「ジュニアバーボックス」を発表。

 またトーンコラムシリーズと呼ばれる1941年製のスリム筐体「スペクトラヴォックス」は黒電話のようにダイヤル装置の数字でレコードを選曲する仕組み。
 タワー型キャビネットのトップにボウル型スピーカーを搭載しており、室内の天上からシャワーのようにサウンドが降り注いだ。

 戦前最後のジュークボックス製品「コマンドーザプリミア1413」「プレジデント1414」はトーンコラムシリーズのメカニズムの血を引く一脈で、キャビネットの底にアンプを搭載している。

 また'40年代当時、ロックオーラは客がジュークボックスに取り付けられた専用電話機から各地方で待機する電話オペレーターらに電話をかけて曲をリクエスト、すると電話オペレーター側は合点承知!とライブラリーからリクエストレコードを探し出し、電話回線からそのままブロードキャスト的に曲を流す!
 ……という、“ミスティックミュージック”なるシステムも試みている。現代のダウンロード配信もビックリだ。

 やがてジュークボックス筐体の音響に電話回線の音質を担わせることに限界が来て廃れたことは想像に難くないが、筐体内のレコート盤ストック枚数が限られていた時代。豊富なレコードライブラリーから選曲できることは魅力的だった為、戦後も暫くは需要が続いた。

 この備え付け電話リクエストジュークボックスシステムへはロックオーラの他に3社が参入。前述のジェニングスもその一社だ。リンク先画像はそのジェニングス製電話回線ジュークボックス。
 また、米映画「スウィング・ホステス(未,'44)」ではその電話線式ジュークボックスのオペレーターガール達が電話口でふざける客に苛立つシーンが描かれており、当時のレコードライブラリー及びオペレーター室の貴重な様子も窺うことが出来る。


 第二次世界大戦に入る頃にはロックオーラ製フルサイズジュークボックスは40万台、ウォールボックス型が25万台、カウンタートップ型が2万台ほど巷に溢れていたが、真珠湾攻撃の三日後、アメリカ合衆国政府からジュークボックスの製造を75%に抑えるよう、各社に御触書が巡った

 戦況が激しくなると娯楽機械の製造が禁止され、コインオペマシン各社は軍需産業に従事
 ロックオーラ社は男女3,200人もの従業員を率いてカービン銃、戦闘機エンジン部品、弾薬容器の製造を24時間3シフト制で昼夜兼行に献身。お国の勝利の為、欣然と労働を捧げ続けた。


 終戦の反動により、1940年代後半にはジュークボックスへの需要が急騰。
 ジュークボックス第二期黄金時代が到来し、1946年中期から1947年後期にかけワーリッツァー社を中心に10万台が製造されたという。

 この好景気の需要に応えるべくロックオーラはジュークボックス開発チームを刷新。

 かつて汚部屋ピンボール孤立デザイナーだったビル・ヒューネガートはチーフエンジニアに昇格。
 またワークスマネージャーとしてE.R.スミスを、チーフサウンドエンジニアとしてビル・ハッターを、セールスマネージャーとしてフランク・シュルツを迎い入れる。
 特にフランク・シュルツはスポークスマンとして同社を50年間支えてゆくことになるのだ。

 1947年、同社はシャッフルボードテーブル自動販売機事業にも参入。

 シャッフルボード特有のあの酷く細長い筐体は、日本でも流行ったエアホッケー筐体よりも遥かに場所を食うため、住宅事情の悪い我が国のゲームセンターでは馴染みの薄いゲームだが、この時代に海外で巻き起こったシャッフルボードブームはロックオーラ社が発信源だったと言っていい。

 自販機事業も波に乗り、測定器の製造は子会社のピアレススケール社が継続した。

 この時代はロックオーラも業界も快調ではあったが、56,000台ユニット製造の伝説の機種「モデル1015 ラウンドアップバブラー」が空前の大ヒットとなった王者ワーリッツァー社再君臨の時期でもある。そのシェアは何と80%を占めた。

 一方ロックオーラ社側では深刻な特許侵害が判明。

 戦前にフィルベン社とライセンス供与していた特許がフィルベンの金属産業下請ベータヴィア社で無断で転用されていたのだ。
 この複雑な事案の訴訟に永らく労力を費やされるという思わぬ災厄に見舞われた。


 '40年代末から'50年代前半の業界の変遷は目まぐるしく、この時節に登場した45回転ビニールレコード盤対応ジュークボックス開発の機先を制し、尚且つ初めて選曲数を100曲/50枚の大台に乗せた「M100A」発表のシーバーグ社が業界の覇権を握った

 プラスチックピラスターデザインのニッケルプレイSP盤ジュークボックスはもう時代遅れに。
 45rpm盤が最新モードになり始め、旧態SP盤仕様と45回転盤のハイブリッドやコンヴァーションキットなどが混在。
 カラフルファンタジー路線は廃れ、ガラスとクロームを多用した機能性重視の近未来メカニクスを強調する直角ラインのメタリックキャビネットが若者たちに膾炙された。

 この気運に追従すべく、ワーリッツァーとロックオーラも45回転盤に対応。
 AMIはドイツのローウェ社に吸収合併されながらもジュークボックス事業を継続。

 進取の気性に富んだロックオーラはこの時期、他社も参入していた[ウォールボックス]タイプのリモコンジュークボックスの開発に心血を注いでいる(リンク動画は復刻MP3仕様)。
 ダイナーの各席窓辺や壁際に置かれた子機にコイン投入し、ボタンで選曲すると親機の筐体にナンバーが送信。席を立たずして聴きたいビニールレコード盤が奏でられる……という優れものである。

 更にオールセット一式45回転盤レコード60枚/120曲搭載のスーパーマシン「コメット1438」を発表。
 四角いキャビネットの上部にガラスカバーの天窓、そのスケルトンな内側で目視出来るグリップアームがターンテーブル上でA面B面を切り替える機能を備えるまでに進歩していた。


 家庭にテレビが普及し、低価格ラジオや高音質ステレオコンポが身近になり、FMロック番組によってラジオが再隆盛し始めた'60年代になると、業界はジュークボックス時代の終焉が間近に迫ってきたことを知る
 盛り返し始めたピンボールですらコインマシン分野の強敵に映った。

 この時代、シーバーグ,ローウェAMI,ワーリッツァーは家族経営から企業経営へ転換。落伍したミルズ,ケイプハート,パッカード,エリオンは姿を消していた。

 一族経営のロックオーラ社は健在で、各事業を多様化。

 特に自販機部門を拡張したことが功を奏し、缶,牛乳,キャンディ自販機の収益が快調に。この事業が同社'90年代までの主力産業となる。

 デヴィッドはニューヨークとシカゴの株式を保有して不動産へと事業を拡大、新しい持株会社であるピアレスコープを設立した。

 それでいてジュークボックスへの新たな新機軸や発明への精進も弛まない。

 コンパクトな壁掛けウォールボックス型でありながら120曲/60枚選曲、曲名一覧メニューボードを手動で次ページにパタンとめくれる機能を持つ愛らしいプレイヤー「レジス120 1488」を発売。
 大ヒットには至らなかったが業界改革派ロックオーラ精神は未だ健在だった。

 この時期、デヴィッドのご子息ドナルド・ロックオーラは新時代のジュークボックスデザイナーとして頭角を現し始め、同社における頼もしい戦力となった。

 2つの大学へ精力的に通って物理学と管理工学の学士を取得したドナルドはチーフデザイナー兼エンジニアに成長。
 1957年製ジュークボックス「テンポ」が初仕事となった。


 しかし'60年代から'70年代初頭にかけ、いよいよジュークボックス産業への斜陽の差し込みが色濃くなってゆく

 都市の再開発が進み、ジュークボックスを置いてくれたダイナーもモルトショップもタバーンも軒並みに消えてゆく。音楽媒体も娯楽も多様化、需要は確実に失われていった。

 この頃ロックオーラは100枚/200曲セレクトの1961年製モデル「1495レジス」及び「1962プリンセス」なる機種を一応の成功作としているが、否応無しに危機感を抱いていたロックオーラは1963年に自販機事業を拡大、タバコの販売にも参入した。

 この時期ドナルドは副社長に就任
 弟のデヴィッドJr.もビジネス博士号取得後の1962年に入社し幹部となった。

 ジュークボックス市場縮小を食い止めるべく、各メーカーは試行錯誤しながら新機軸のジュークボックスを開発。

 '60年代の他社の中には模索し過ぎ、まるで筐体が巨大電気カミソリや大型洗濯機と化したジュークボックスを開発して迷走する中、ロックオーラ社は'64年製「418ラプソディU」のような、伝統デザイン及び最新技術メカニクスの可視化路線へ回帰した。


 1970年代に入るとかつての仇敵ワーリッツァーがジューク産業からの撤退を表明(のちの'80年代レトロブーム時に復刻版を一時的にリリースし、さらに時代が下ると別オーナーへ部門が売却され復活しているが、それも2013年に途絶)。

 これでアメリカ国内の現役ジュークボックスメーカーはシーバーグ,ローウェ,そしてロックオーラの三社のみに。
 そしてアーケード及びコインマシンの主流はテーブルサッカー、ビデオゲーム、ソリステピンボールへと容赦なく奪われてゆく。

 この時期の国内ジュークボックス筐体の稼働台数は戦後第二期黄金期の50万台から25万台にまで落ち込み、10年間全社の製造数をトータルしても12,000程度までに低減していた。

 1975年には息子のドナルド・ロックオーラがプレジデントに就任
 父の経営哲学と伝統を堅牢に守り抜き、情熱的で責任感のある仕事ぶりはディストリやオペレーター達にも信頼された。

 ジュークボックスのアートデザインやメカニクスの改良をも自ら手掛け続けるドナルドの器用さは正に父親譲り。その後会社売却までの17年間同社を牽引することになる。

 一方その時節会長職に就いたデヴィッドは引退など全く考えておらず、時折瓶詰ゼリービーンズとキャンディを頬張りながらもデスクワークをこなし、会社への采配を振り続けた。


 '70年代のジュークボックス産業の各ファクトリー達はミュージックビデオ製作会社や他の新規事業との離合集散やコラボレートを度々模索するうち、当時巻き起こった世界的ディスコブームの恩恵に助けられ、'80年代初頭には僅かではあるが収益を盛り返している

 1980年には嬉しいニュースがもうひとつ。ロックオーラ社のビデオゲーム事業への本格参入だ。ロックオーラがゲーム開発のフィールドに帰ってきた!

 パックマンの爆発的大ブームを受け、ビデオゲーム部門を立ち上げたロックオーラはシネマトロニクス社のベクタースキャンゲーム「スターキャッスル」のディストリを皮切りに、日本からはSNKの「ファンタジー」、アルファ電子の「ジャンプバグ」等のビデオゲームをアメリカへ輸入販売。

 完成度の高い自社オリジナルビデオゲーム製品「ニブラー」のヒットにも恵まれている。

 開発スタッフには若かりし頃のロニー.D.ロップデヴィッド・シールも居た。
 前者は今のスターンピンボールのプログラマー兼ゲームデザイナーで、後者はジャージージャックピンボールのサウンドコンポーサーだ。

 興味深いのは、チャーター便で出張移動したロニーらを
 “もし墜落事故で君らのような優秀な人材が失われたらどうするんだ!”
 と当時の社長ドナルド・ロックオーラが本気で叱責したというエピソード。

 2度に亘る飛行機事故でチーフデザイナーと社長の息子を失ったピンボール業界トップメーカーバリー社悲劇の爪痕が、ロックオーラ家の記憶にも深く残っていたのだ。

 この頃ジュークボックス競合他社からはオーディオテープタイプ、ビデオディスクによるモニター内蔵等々の新機軸が試行錯誤され、'80年代後半にはいよいよシーバーグ社がCDジュークボックスの開発に踏み切るが、ロックオーラは伝統的なスタイルの保守に留まった。


 1985年。最新鋭の100枚/200曲セレクトジュークボックス「スーパーサウンドモデル」を発表するが、この年にはあのケッズィーアヴェニューの大工場からアジソン郊外の小ぶりのファクトリーへと移転、ジュークボックス事業を縮小させている。

 ビデオゲーム部門もチーフの退社と売り上げ不振により閉鎖へ。

 ピアレススケール社を統括していたやり手の女傑マネージメント ベティー・ロックハートをヴァイスプレジデントに迎えて自販機部門を継続し、ゴルフ用具事業への進出を試みたが、かつてのコインオペ業界の猛者としての威厳は影をひそめていた。

 1987年の秋にようやくロックオーラもCDジュークボックスの開発に着手するが、慎重居士に徹してレコード盤との混合ユニット「モデル496」を手始めとしている。

 当時はオペレーター各位やレコードメーカー、音響メーカー、放送局ですらCDへの移行へは石橋を叩いていた為、レコード盤とのハイブリッド機こそ世間が求めていた需要だった。

 このモデル496はデヴィッド・ロックオーラのサイン、いわば落款入りの限定モデル。90歳のデヴィッドにとって掉尾を飾る一機種となった。

 同時期の'89年にデヴィッドは生涯最後の特許を2つ取得している。

 1つ目はレコード盤ジュークボックスをCDに改造するコンヴァーションキット。
 2つ目はレコード時代から適応されていたロックオーラCDセレクターメニューメカニズムの保護。1990年発売の「モデル2000」でその特許があてがわれている。

 1991年製「ミラージュ」1992年製「トリロジー」を発表、CDジュークボックスへの完全移行を遂げた


 ロックオーラ社に大きな区切りがついたのは1992年

 同社は自販機事業から撤退。そしてブランド名,ファクトリー,パテントなどのロックオーラジュークボックス部門のディヴィジョン一式が、南カリフォルニアのアンティークパラータス社に売却された

 同社は元々アンティーク復刻ジュークボックスの製造を行っていたメーカーである。
 工場はカリフォルニア州トーランスに移管され、ロックオーラブランドのCDジュークボックス製造を再開した。

 この時点でロックオーラファミリーの手元から経営権が別企業に手放されたことになるが、新生ロックオーラ社長グレン・ストリーターはミスター・デヴィッド・ロックオーラに深い仰望を表すと共に名誉会長に指名している。

 95歳のデヴィッドはこの時期も毎朝5時に起床し、例によって瓶詰のゼリービーンズをつまみながらデスクワークを現役でこなしている。

 カリフォルニア新工場での新たなデザイナー達による新生ロックオーラCDジュークボックスは技術的にも美的にも洗練されており、業界でも耳目を集めた。


 1993年1月26日。彼が96歳の誕生日を迎えた3日後。デヴィッド・ロックオーラは眠るように穏やかに天寿を全うした。


 ―――そして現在。

 タッチスクリーン搭載のストリーミング配信ジュークボックス、スマホアプリ連動によるウィッシュリスト再生のソーシャルジュークボックス、等々……。

 2000年代、2010年代以降も、ノスタルジア路線とソーシャル化路線の両輪により、ジュークボックスシーンは今も更新され続けている

 2019年7月。ロックオーラ社は、イギリスのゲームルーム社運営の企業家アレクサンダー・ウォルダー・スミスが新たなロックオーラ社のオーナーになったことを発表している。

 スミスの父は元々ロックオーラジュークボックスのディストリビューターだったという。
 前オーナーのグレン・ストリーターはプレジデントの要職を続投する。

 現在45回転ビニールレコード盤が世界的レトロブームとなっており、コンセプトレストランやホームコレクター需要に応えられるよう、最新テクノロジーとハイブリッドさせたジュークボックスを提供してゆきたい……
 と同社は展望を語る。

 2010年代以降にピンボール産業が新たな活路を開いて邁進を続けているのと同様に、ジュークボックス産業の歴史も、ロックオーラブランドの名声と品格も、途絶えることなく今も未来に向かって現在進行形なのである。



 1989年の春のこと。晩節を過ごすデヴィッド・ロックオーラの元に、ある人物から一通の手紙が届いている。

 “我らアメリカ国民がとわに誇る、このジュークボックスという魅惑的カルチャーに、貴方ほど貢献したお方は他におりません。デザイナーであり、プロデューサーでもあり、そして開拓者です。ジュークボックスと言う音楽媒体の大きな一ジャンルの構築と完遂をやってのけた貴方の偉業は、アメリカ国において大きな礼讃にあたい致します―――”

 それは時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュが、アメリカでのジュークボックス生誕100年を迎えた祝賀としてデヴィッドへしたためた、謹厳溢れる手紙だった。

 ジュークボックスは勿論、コインオペマシンの歴史そのものを、倒れて後已むまで歩み続けた人物に相応しい、仰望と感謝に満ちた言葉で綴られた慶賀の書簡である。


 デヴィッド・ロックオーラがイリノイ州シカゴのノースショア病院で息を引き取った時、彼を看取った妻のマーガレットと、2人の息子ドナルドとデヴィッドJR、そして2人の孫が遺されている。

 しかしコインオペ産業に彼が遺した端倪すべからぬ世界規模の功労は計り知れない。
 アーケードゲームにとっても、ジュークボックスカルチャーにおいても。
 そしておもちゃの野球盤やピンボールにおいてさえ。

 日本では彼の偉業が殆ど忘れ去られてしまっているのが、少し寂しい。


【2021年7月13日修正】
●ホーマー・ケイプハートはロックオーラ所属部長ではなく、ワーリッツァー社側の営業部長。
●レコード盤“格納枚数”とA面/B面を含めた“選曲数”との混同表記が多かった為、修正。
●他リンク切れなどを修正。



(最終更新日2021年7月13日)