ピンボール黎明期の創始者たち

番外編〜ピンボール以前のコイン娯楽機には何があった?

◆グスタフ・ショルツ/Gustav F. W. Schultze/Gustav Schultze & Co./コイン娯楽機参入期1880年代後半〜1920年代前半

 グスタフ.F.W.ショルツ(Gustav Friedrich Wilhelm Schultze)は19世紀末のサンフランシスコで、初めてカラーウィールタイプのスロットマシンを考案した発明家。
 当初はカウンタータイプのストレングステスターに運試し要素を加えた奇妙なノヴェルティー機だったが、やがて自動払い出し、ジャックポットベル、ウィール回転速度調整などを加え、その後それらの機能がスロットマシンの水準となってゆく。

 10¢〜2$の各色配当。どの色が出るかを予想して5¢を賭ける。レバーを引いて回転したウィールが停止、賭けた通りの色に止まれば、チーン!とベルが鳴ってオートマチックで払い出し。

 今の感覚で言うとスロットマシンと言うよりはルーレットに近いが、コナミの1976年製「ピカデリーサーカス」,国内セガ1974年製「ファロ」と言った、日本でも一時代を築いたメダルゲームの一ジャンルは、原基を遡ると1890年代にショルツが世に広めたウィールマシンにまで行き着くことが出来る。

― 解説 ―
 グスタフ F.W.ショルツ(1845〜1924)はプロイセンに生まれ、1880年代後半にサンフランシスコへ移住。40代に入ってからコインマシンの発明と製造に着手している。

 1892年という早い時点で、最も古いカラーウィールタイプのチャンスマシン「The Luck Machine」を発明
 いわゆる賭博禁止地域での景品ゲーム機“トレードスティミュレーター”初期の一脈で、入賞時にはオリジナルのトークンが贈呈された。

 但し、当時の盛り場に置かれるコインマシンの主流のひとつだったストレングステスターの需要をよすがとした機械で、力試しでレバーを引いた結果がカラーウィールに反映される……というゲーム性だった。

 コイン投入し、筐体の底にある2本のレバーを両手両指でグイっと開くように引き伸ばして“力試し”。
 そしてサイドのハンドルを下げて矢が回転し、“運試し”。
 入賞時には従業員が目視で確認し、トークン、景品、時にはこっそり金品をも手渡し。

 これが最も古い系譜のカラーウィール型トレードスティミュレーター特許のゲーム機の様相だった。


 ショルツは1893年には自動ペイアウト機能を備えた本格ウィールマシン「ホースシューズ」を発表。
 翌年1894年発表の「オートマチック・チェック」はトークン払い出し機能を備えたカラーウィールスロット。

 入賞時に内部のゴングが鳴らされる[ジャックポットベル]、自動払い出し機構[シングルスライド]、回転の速度調整[タイミングクロック]など、その後スロットマシンの標準となる各機能を搭載している。

 尚、このカラーウィールでは[赤]・[黒]に止まるとハズレで、10¢、25¢、50¢トークンが貼られた[白]がジャックポット。現在の色の感覚と異なり、この時代は赤や黒がハズレで、白が当たりなのだ。

 後に革命的三輪リールドラムを発明するチャールズ・フェイは1894年、ショルツの「ホースシューズ」と機能もデザインも名前もよく似た、尚且つより洗練されたウィールマシン「ホースシュー」を発表している。

 許諾有無の資料は出てこないが、この頃のフェイは自分の工房で作った部品を、当時ほんの2ブロック先のご近所グスタフショルツ社に卸していたので、何らかのショルツの了解や許諾はあったと思われる。


 また、ところ変わってイリノイ州シカゴ市で正式にショルツのウィール特許の許諾を得てカウンターウィールスロットを製造し始めたのが、一時期ショルツを師事していたダニエル・シャル

 シャルによる1896年製「イリノイズ」は彼の代表作。
 6色の配当色が都市名に準えており、その都市を当てると10¢から50¢までの配当が払い出される。
 デザインがよりカラフルに洗練されている上、都市名をフィーチャーした小粋なアイディアにより、この機種はイリノイ州のみならずサンフランシスコでも人気作となった。


 しかしこの1896年以降、特許など無視してこの手の類似品が大量に出回りはじめる。

 パウパ&ホークリーム、カウパー、モーティマー・ミルズといった大手が特許を無視し、コピーキャット機種を製造。
 特にミルズは1896年製「リトル・パウパウ」1897年製「クロンダイク」を連作、そしてフロアマシンの世界的名機「オウル」を生み出すことになる。


 グスタフショルツの強力なライバルは他にもいた。エジソン社のエンジニア ジェームズ・ライトハイプもそう。

 ショルツのものとよく似たトークン支払い型のカウンターカラーウィールスロットを発明、1893年6月20日にパテントを取得している。

 更にチャールズ・フェイの元パートナー セオドア・ホルツも彼の前に立ちはだかり、ショルツのものとそっくりなカラーウィールスロットを発表。

 1897年にショルツは元々面識のあったセオドア・ホルツを特許侵害で訴えたが、該当する特許はジェームズ・ライトハイプが三ヵ月早く取得している点と、下卑な賭博用途であることに争点が置かれ、モロー連邦判事はショルツの訴えを棄却した

 特許侵害訴訟に敗れ、市場独占の夢にも破れたショルツは東部大手スロットメーカーとの激しい競合にも苦戦を強いられてゆく。

 やがて工場を手放し、1898年にはチャールズ・フェイ社に入社。

 1899年。今日に至るまで3世紀もの時をまたいだ永遠の名機と言える三輪リールドラムスロット「リバティー・ベル」をチャールズ・フェイが発表する。
 グスタフ・ショルツの入社がその前年であることを考えると、ショルツもリバティーベルの開発に貢献した可能性がある。

 それどころかグスタフ・ショルツ&カンパニーに、セオドア・ホルツと袂を分けた後のチャールズ・フェイが在籍していた……と記述する資料もある。

 ショルツはその後、再度自社設立を目指し、5年後にはフェイ社から離れてショルツ・スケール社を設立。
 テスター、体重計、スロットマシンを手掛け続けた。


 1902年にはプレイヤーが自分の体重をピタリ当てると景品が貰える「ペイ・アウト・スケール」を発表。

 自分の体重を把握している者なら誰でも当てられるのでは?……とやすやす言い出せるのは今の私達の感覚。体重計が大変高額な最新機器だった時代では、そう簡単に自分の今の重さは分からない。レストランの入口に置いたら楽しそうだ。

 1911年には当時定番のダイスマシンカウンター筐体「シックスウェイ・ルーレット」を発表。

 レバーを引くとテーブルがスピン、中のサイコロと10個のビーズがシェイクされ、止まった時のダイスの出目とビーズの組み合わせで配当が決まる……という卓上ゲーム機。

 但しこれはチャールズ・フェイ社の卓上ルーレット機「トリプル・ロール」をある程度真似た物だが、ダイスの独自性を加味してうまくオリジナル性を出している。

 他にもショルツはエジソンのシリンダー型蓄音機を応用した「トーキング・キャッシュ・レジスター」も発表。
 なんと“おしゃべりレジスター”と言えるシロモノで、『何ドル、何セント』とレジの金額が蓄音機音声で発せられる!という、未来を予測したようなびっくりノヴェルティー機であった。


 ショルツは44歳で初めて自身の手による特許出願が受理されて以来、生涯12品目もの発明特許取得に成功。

 最後のパテントは74歳の時で、その5年後にカリフォルニア州オークランドで没した。享年79歳。


 コインマシン、チャンスゲーム、ウィールマシンの先駆者でありながら、その成功は40代半ばという遅咲き。

 しかも親子ほども年の違うチャールズ・フェイの様な、春秋に富むメカ狂いの少年達ばかりが火花を散らす若手メーカー連中に混ざり、真似し、真似され、寝返ったり、寝返られたり。

 逐鹿(ちくろく)が激しい1890年代のコインマシン業界において年嵩として奮闘しながらも、裁判に惜敗。

 特許戦争に敗れたグスタフ・ショルツの名は、今となっては殆ど世に知られていない。
 フェイもシャルもホークリームもショルツに師事していたはずが、今現在、スロットマシンの発明者として名が残るのはフェイだけだ。

 しかしコインマシン黎明期におけるショルツの功労と影響は多大で、殊にペイアウト式カウンターウィール機は大量のフォロワーを生んだ。

 「オウル」、「パック」、「デューイ」、「センター」。

 ミルズやケイリーらによって20世紀初頭の大ヒットとなったフロアマシンは、原基を辿れば、その総てはショルツのカウンター・カラーウィール・スロットなのである。




(2023年1月2日)