ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆ストナー社/Stoner Manufacturing Company/1933〜1941)

― ※翻訳途中メモ書きにつき飛ばし読み推奨、清書は後日アップします ―
 ストナー社が初めてのペイアウト台を発表したのは1936年のシカゴコインマシンショーでのこと。「タックル」デザインは一族きってのクリエイター、ハリー・ストナー。 ペイアウトシステムの構築はカールニッカボッカー。一時期シカゴコインに在席。今やストナープラントの一角を任され、ペイアウト台の開発に専心していた。 彼らの最たる成功作は「ターフチャンプ」。競馬テーマ。5ボール。それぞれの競走馬に35¢ベット、最高倍率40倍。自動払い出し。チケット払い出しバージョンもあった。 しかしこのデザインはカールニッカボッカー。彼のパテントを介する必要があった。 ストナー社にとって本格的な収益を得た商品となった。 ストナーのディストリはエディーギンズバーグのアトラスノヴェルティー社inシカゴ。彼曰く「ターフチャンプ」の売り上げは凄かった。入賞ポケットの配列を競走馬に準えたマシンは前にもあったのだけど、故障が酷くて扱いにならなかった。しかしテッドストナーは言った。これがうまく改良できなければ我々は終わりだ。この商品にすべてをかけている! 結果売り上げは莫大で、ストナーの社運は勿論ディストリの我らにとってもカンパニー拡大の開基となった。 ブームは数か月続き、あまりの人気に6月には改良版「クローズフィニッシュ」が出された。  ターフチャンプはストナー最大のヒット作となった。売り上げは数年も続いた。 大分経ってからさ云フランシスコからきたというある男がやってきた。「ターフチャンプをシリアルナンバーで200台売ってくれないか、出来れば後の方の新しい番号で」 ストナーは先ずファーストプロダクションとして100ユニットをシリアルナンバー製造していたが、かといってセカンドプロダクションにゲームデザインに変更はない。しょうがないから在庫のシリアルナンバーだけうまく付け替えて最新プロダクションと称して売ってやったよ。お陰で相当もうけさせてもらったね。 「ターフチャンプ」は文句なしに1936年度の業界トップ1の商品だった。期待株として目されていたイグジビットのチケット仕様ピンボールを完全に凌駕した。 1935年、ストナー社はバリーやダヴォールと同じ結論に至った。この年のショーでの出展は「ビーコン」。ライティング機能と演出が仕掛けられている。商品名の由来は彼らの地元イリノイオーロラの新聞“オーロラビーコン新聞”からとったもの。デザインはハリー・ストナー、アシスタントはカール・ニッカボッカー。ストナーの新工場がフル回転し、更にプラント拡張決定の運びとなった。一旦電気化テクノロジーをモノにしてしまえば、一挙に展望が開けたのだ。セールスマニジャーのテッドストナーは“今後ピンボール産業は発展の一途をたどるだろう。進化への実験も、安定したセールスも確実だ。わが社ストナーも新機種「ビーコン」「キャヴェルケード」で国内外へセールスを拡大、知名度を上げてゆく。今後オペレーターやディーラーへのサービス向上の為、どんな投機も厭わないつもりだ。”しかしそれは極度に新し過ぎる前衛台を売る役割となるオペレーターへのプレッシャーと懊悩にも繋がった。ストナーディストリの筆頭ニューヨークはフォートエドワードのグイド・デルシグノアーは“どんどん複雑になってゆくマシンの取り扱いには毎度プレッシャーが増していった。きちんと掌握して売らねばならない。” ドカスカ稼働するポップバンパー初登場はウィリアムスのサラトーガだが、それ以前、現行バンパーの直系始祖とは言い難いが、稼働バンパーを発明した者がいた。ストナー社1938年製「ゼータ」を設計したウェンデル・バーテルト。インタビュー当時92才で矍鑠と庭の芝を刈っていた。1934年〜41年までストナー社でノヴェルティーゲームを開発。戦時中はゲーム開発を休止。戦後同社にカンバック。 ゼータバンパーの構造は? 「最初は、ガーディアン・エレクトリック社のソレノイドを使い、鉄のボウルを回転させた。スプリングワイヤーでドーナツを作り、それを支柱に吊るし、ドーナツの上にフィットする小さなスプリングをもう一つ用意し、その小さなスプリングをドーナツにハンダ付けした。ボールが接触すると、膨張してボールをあちこちに弾き飛ばした。」



(最終更新日2019年8月26日)