ピンボール黎明期の創始者たち

19世紀後半〜20世紀初頭バガテルメーカー

◆チヴォリ・テーブル社/Tivoli Table Company/1898〜1907?

― 解説 ―
 チャールズ・ラフスキー設立。
 1897年ミズーリ州セントルイス「チヴォリ・テーブル」を発表、高セールスに気を良くしたラフスキーは翌年シカゴに移転してチヴォリテーブル社を興す。
 その後もキューショットタイプのバガテルを続々と生産。代表作は「チヴォリテーブル」「ピジョンホール」「クロンダイクピジョン」「シカゴ」「マンハッタン」など。

 特筆は「マンハッタン」で、かのケイリーシーマー社の目に止まり、彼らの手で「リトルマンハッタン(1901)」として製造販売された。

 また、ニューヨークと東シカゴにおいて「チヴォリテーブル」「シカゴ」は2人用にバージョンアップして売られていたという。
 左端と右端でキューが2本備え付けられ、プレイヤー2人が左と右に座し、それぞれ順番に打ったというのだから興味深い。
 ピンボールで2人用機能が一般化したのは、1950年代以降のことなのだから。

 尚、1870年代から1880年代にかけて、ニュージャージーのバガテルテーブル屋ジョン・エルソンが手掛け、ベル・風車・板バネシューター搭載台としてパチンコ歴史本に掲載されていた「チヴォリ(1876)」シリーズと、ラフスキーのチヴォリは無関係である。
 当時は多くのバガテルメーカー達がチヴォリの名が付いた台を製造していた。




(最終更新日2019年8月26日)