ピンボール黎明期の創始者たち

1940年代創業のピンボールメーカー

ユナイテッド社

― ※翻訳途中メモ書きにつき飛ばし読み推奨、清書は後日アップします ―
1933年5月製「ローン・イーグル」。見た目は普通のテーブルタイプのピンゲーム。しかし只者では無かった。自動で点数を計算する機能があったのだ。ひとつのダイヤルが、カチカチとカウントで進み、プレイ中のスコア及び最終合計得点を表示した。  当時のピンボールの点数表示は、手前に窓がたくさんあって、それぞれ開いて[100][300][500]が表示。プレイヤー自身が計算して合計額を算出した。ゲンコがリールドラムスコアカウントを発明していたが、数か所に分かれており、結局合計額をプレイヤーが計算する必要があった。  しかしこの機種ローンイーグルは、ひとつの窓に、自動でトータルスコアが表示されるのだ。 発明者は、マサチューセッツ州スプリングフィールドの若きセールスマン兼パートタイムのラジオ修理工、リンドン・A・デュラント。電気技師としても高度な教育を受けていた。 彼は学校を卒業して2年も経たないうちに、新機能ピンゲームのアイディアを思いつく。しかしお金の無いデュラントは資金提供社を欲し、やがてコネティカット川を挟んだスプリングフィールドのすぐ南にある高速道路沿い、マサチューセッツ州アガワムでガソリンスタンドとガレージを経営していたジョージ.H.キャンベルに資金を出させることに成功する。セールスマンとしてのトークも有能だったのだ。1933年5月18日にゲームの特許を申請した。 青写真では大手に売り込んで永続的なロイヤリティを貰って折半しようぜ、という話だったのだが、サンプル台と必要書類の束をもって、大手メーカーひしめくシカゴへの汽車に乗り込んだものの、紛争に巻き込まれて慌てて引き返す羽目となった。“抵抗の壁”と呼ばれるレジスタンス運動だったらしいのだが、詳細は不明。 マサチューセッツに戻ったデュラントは汽車の中で思いついたことをジョージに持ち掛けた“これはもう自分たちで製造しよう”。 ジョージは空いていたガレージスペースを割り当て、アガワムでC&Dマニュファクチュアリングカンパニーが発足。C&Dはキャンベルとデュラントの意。 尚ローンイーグルにはスコアトータライザー以外にもスームースアクションプランジャーと呼ばれるボールリフトに独自の工夫もあった。 バイヤーからの評判や手応えは良く、10月には改良版が製造。なんともうひとつのダイヤルでその週のハイスコアが表示された。それだけでもプレイヤーは燃えるし、ロケ側はリウォードを与えるの目安にもなる。 ローン・イーグル・マニュファクチュアリング・カンパニーと社名も変更した。 ただ、自動得点トータル表示は時代的に他社が一斉に取り組んでおり、それぞれ独自の構造独自の特許独自のバリエーションを生み出していた。 しかし、ピンボール市場ではヒット作が出ない。 1933年8月、ハリーウィリアムスはこう考えていたという 『製造もロケの売り上げも急な低迷に陥ったのは、各メーカーがスコアの自動計算トータル新機能ばかり目指していて、肝心のゲーム性が停滞したままだったからだ。当時私の会社オートマチックアミューズメントカンパニーは色々下請けしていたが、他社も自社も倒産に向かっていった。皆は新しいものを求めていたのに、凡庸でつまらないものばかり作っていた。』 尚ロサンゼルスのハリーウィリアムすのオートマチック・アミューズメンツ・カンパニーは、1933年8月に『COMBINATION』を、10月には『ADVANCE』を発売している。 東海岸側ではこの時、現金払い出しのピンボールが求められていた。禁酒法が廃止され、酒場が一挙に盛り返し、そこでスロットマシンが大量に設置されたのだが、急速に全国的にスロッとマシン賭博を禁止する法律が制定された。  しかしピンボールはまだまだ賭博の抜け穴。ペイアウト台の需要が急速に高まった。 1932年9月にD.Gottlieb & Companyによって作られたカウンタートップゲームCLOVERLEAFは、精巧な現金払い出し機能を備えたピンゲームだったが、すぐギャンブルピンボールが上手い他社に追い越された。 デュラントのシカゴ進出は決して骨折り損ではなかった。どうもツキが無いデュラントだったが、怪我の功名。断られつつも多くの業界人と接触し、パイプを増やしていった。デヴィッドロックオーラもその一人。 西海岸からやってきたハリーウィリアムスは、ピンボール業界がどこに向かうべきなのか一家言持つ人物。 イグジビット社のマネージメントのひとりハーブ・エッティンガーはデュラントとウィリアムスと共にいぐじびっとを去り、ユナイテッドに入社した。 戦時中のピンボールは戦闘機や潜水艦、ボムの爆発描写が多かった。後期はピンボール自体禁止となり、リバンプ台しか作れなくなった。しかし戦争が終わり、戦争テーマが消えた。ベースボールが還ってきた! イグジビット・サプライ社通称ESCOエスコ イグジビットは終戦直後、真っ先に野球ネタの台を発表した。野球テーマは外れが無い。シーズン中遊ばれていた。エスコは1946年7月に「ファストボール」を発表。 イグジビットはこの次節ロックオラーラのハリーウィリアムスとリンデュラントのメカの秀才コンビを引き抜いた。2人はイグジビットを'30年代後半から'40年代前半に大きく貢献した。成功をもたらした。 しかし戦争が始まり、戦時中イグジビットは軍事産業に従事し、ハリーとリンはうんざりしてイグジビットからの雇用契約を辞退、ユナイテッド社を設立してウォータイムリヴァンプ台の制作を開始する。 彼らは過去のイグジビット台を買い上げて新作に作り変える手法で大成する。 終戦を迎えると2人は袂を分かち、リンはユナイテッド社を継続、ハリーは遂に自社ウィリアムス・マニュファクチュアリング社を立ち上げる。 よって、戦後のイグジビット社にはもうリンもハリーもおらず、むしろ手強い競合相手となってしまったのだ。 しかし、彼らの遺した技術やセオリーがある。彼らの元で育ったデザインチームだって残っている。特に美術班のアートワークは目を見張る。エスコのピンボールは続く! 「ファストボール」は過去の秀作「スモーキー」「フィエスタ」「クロスファイヤー」「ヴァニティーズ」の血を引くものがある。しかし、この次節、とにかく新台を世に送ることが求められていたのである。 ファストボールは制作初期にハリーウィリアムスがいくらか手を付けていた跡が散見される。それでゲームデザインの基盤がしっかりしているのだ。また、当時普及し始めていたリプレイ機構の同社初搭載台だった。 “スキルショッツでフリープレイ!大人気のリプレイ台!華やかでスピーディーでカラフル!リピーター続出で高収益!何と30リプレイも可能に!5ボールプレイ。”  実際には、1945年の9月終戦から軍需体制及びリヴァンプ台製造の体制、法律の解禁から切り替えるまで1年以上のタイムラグがあり、実際にお目見えしたのは1946年の10月だった。「 20世紀初めごろから未だにコインマシンとして嗜まれている定番大型筐体としてSkee-Alleyスキーアリーがある。プレイヤーが球を持ち、細長いレーンへえいやっと球を転がし、ジャンプ段差(リップlip)に飛び上がらせ、点数輪っかスコアリングを狙って合計点を競うというもの。オリジナルは1909年に登場している。 '50年代のボウリングブームの追い風に乗ってユナイテッド社が大躍進したのが「シャッフルアリー」シリーズだ。 '40年代にも高性能のボウリングマシン「テンストライク」は好評だったし、1890年代にも当時なりの技術でボウリングシミュレーション機は登場していた。 しかし'50年代のアメリカは未曽有のボウリング場ブーム。American Machine and Foundry(AMF)社が、1951年にボウリング場用の自動ピンセッターを導入した技術革新により、全米各地にボウリング場がオープンした。 1949年10月、ユナイテッドはコインオペ・ボウリング筐体「シャッフル・アリー」を発表した。ホッケーパックを滑らせてボウリングのピンを模した10枚の平べったいターゲットを狙う。当たったピンターゲットはめくられる暖簾のように後ろに上がる。パックはゴム製の壁に当たって勢いよくまっすぐ跳ね返ってくるのでプレイヤーもすぐにキャッチ!またすぐ第2投!実にスピーディーでテンポが良い。勿論得点も自動計算。別名「パックボウラー」。ボウリング場で一番厄介な、あの面倒くさいシューズレンタルも手書きスコア計算もいらない。それはそれは大ヒット機となった。 1951年には6人プレイ機が発表され、この複数人数筐体がシャッフルアリーの主流となった。  このブームに他社が次々と参戦、特にシカゴコインの機種は元祖ユナイテッドの売れ行きを脅かした。もっと本格的なボウリングシミュレートを開発しなければ。そう感じたユナイテッドは1956年に「ボウリング・アリー」を発表した。これはパックではなく球を使った、本物のボウリング感覚を追求した本格的なもの。シカゴコインもすぐに追従、「ボール・ボウラー」を発表した。 最初の2年間は3インチのコンポジットボールを使っていたが、1957年後半になると、ユナイテッドはボールのサイズを41/2インチに拡大。これによりさらに本物に近づき、より正確に投げられるようになった。筐体はの長さは11フィートから25フィートまで用意された。大型ボウリング筐体マニアにとってこの頃のボウリングアリー、ボウルボウラーは最高峰だったが、手軽さが失われて不便さが顕現。人気は失速。ボウリング場でもないのに巨大な球を扱うせいでケガ人も出た。肥大化した初期費用もオペレーターを圧迫した。1967年の「コロナド」を最後にユナイテッドはボウリングアリー製造を打ち止めとした。 尚旧スターン社はボウリングアリーのソリッドステート化を試み、1970年代後半に「スターズ&シャドー」を発表している。 他、'50年代のユナイテッドはシャッフルアリーシリーズの大ヒットに気をよくして、スキーボールの滑走パック版「シャッフルターゲット」別名「スキーアリー」、ベースボールマシンの滑走パック版「フィフスイニング」を発表。入賞を決める度にウィリアムスのベースボールマシンのように、バックボックス内で野球選手が出塁した。 ジュークボックスもシャッフルアリーもボウリングアリーもテンストライクも飽きられていた1964年6月。シーバーグは先ずウィリアムスを買収した。当時ウィリアムスの株主権社長だったサム・スターン及び株主のバーナード・ワインバーグから全株式を購入。ウィリアムスはシーバーグの完全子会社となった。  そのわずか3か月後の1964年9月、ジュークボックス部門の失敗も重なって収益悪化の一途をたどっていたユナイテッド社をシーバーグが買収。サムスターンはウィリアムスに籍を置いたままユナイテッドのプレジデントとしてかじを取った。 1958年、シーバーグはバート・ミルズ社のコーヒーマシンを購入し、買収戦略を開始した。その後、Lyons社のコールドドリンク機、Bally社のホットドリンク機、Pic-a-Pack社のユーティリティベンダー、Kinsman Organ Company社、Choice-vend社、Cavalier社のボトル・缶ドリンク機、Du Grenier社のシガレット機など、自販機メーカーを手当たり次第に買収している。 これにウィリアムスとユナイテッドを手中に収めたことにより、シーバーグはコインオペ機器総合メーカーとなっていた。 ユナイテッドはシャッフルアリー、ボウリングアリーの大手で、ウィリアムスはピンボールとベースボールマシンで名を馳せていた。 こうして1964年10月31日、シカゴのノースカリフォルニアアヴェニュー3401にあったユナイテッドの工場は、ウィリアムスのファクトリーとなった。今もWMSの工場として現存している。 1965年、1966年頃のユナイテッド製筐体にはウィリアムスのロゴと住所が打たれ、やがて同ファクトリー製のシャッフルアレー、ボウリングアレーは“ウィリアムス製”となった。 ただ当時まだまだユナイテッドブランドは名高く、ウィリアムスは“United's〜”とユナイテッドのブランド名を使い続けた。 1983年ウィリアムス製シャッフルアリー「トリプル・ストライク」が、ユナイテッドブランド名を打つ、最後の機種となった。 【ボウリングメモ】 1949年10月、ユナイテッド社は「シャッフル・アリー」というボウリングゲームを発売した。このゲームは、プレイヤーがホッケーのパックのような金属製の小さな物体を8フィートのレーンに打ち出すと、フィールド上のスイッチが作動し、吊り下げられたピンが後退して倒されたような状態になるというものだ。 同様のコインゲームは1890年代にも登場していたが、それまでは大々的には普及していなかった。 しかし、今回は事情が違う。 ボウリングゲームに、電気機械工学、トータライザー、カラフルな照明付きバックグラスなど、ピンボールテーブルで最も人気のある機能を融合させたのだ。 しかし、より重要なのは、事業の多角化を目指していた大手防衛関連企業のAmerican Machine and Foundry(AMF)が、1951年にボウリング場用の自動ピンセッターを初めて導入したことである。 この技術革新により、ボウリングはアメリカで最も人気のある競技スポーツの一つとなり、全米各地に新しいボウリング場がオープンした。  ボウリングが人気になると、違法のイメージが強くなってしまったピンボールを倦厭していたバーのオーナーたちが、シャッフルアリーを次々に導入した。 その後、シカゴコインやゲンコが参入。1950年代半ばには隔月で新機種を発売したバリーが一頭地を抜いた。それぞれのニーズに応えた様々な機種を開発していたのだ。  1950年代後半には市場が飽和状態となり、各社新機種の発表は投入は徐々にペースダウン。しかし1990年代に入ってもシャッフルアリーの生産は続いた。 ユナイテッドの設立は1942年。ファウンダーはリンデュラント。社長兼財務担当に。ハーブ・エッティンガーは副社長兼秘書、レイ・リール副社長。ビリー・デセルムも副社長に。 時は1950年代。ユナイテッドのリンデュラントとバリーのレイモロニーはライバル関係にあった。レイモロニーはデュラントのパーソナリティーは好きだったし、デュラントはモロニーに対して憧れがあった。しかしレイのやることなすことなんでもデュラントは真似ている。レイがキャデラックを買えば、リンは2台買っていた。 それぐらいならまだいいが、ユナイテッドはバリー社の新機種のコピーキャットメーカーとなっていた。バリーそっくりな製品をボルト単位でコピーして別の名前で出す始末。しかも本家の発売直後。仕事が早い。誰が情報でもながしてるんじゃないか。 実はバリーのあるディストリビューターが、バリーの新作を真っ先にユナイテッドにおろしていることを突き止めた。そこで、フェイクをクズをわざわざ1機種こしらえた。トムとジェリーに出てくるチーズみたいに穴だらけで配線がいいかげん。無駄なワイヤーだらけ。それをくだんのディストリに卸させた。案の定ユナイテッドは穴だらけの無駄なワイヤー配線のマシンをだしてきた。“引っかかったなリン!”レイはしたり顔だった。 その逆の事態もあった。以前からバリーは本格ペイアウトビンゴ筐体を出したがっていたのだが、複雑な構造になり過ぎて商品化を断念していた。ところが1951年、ユナイテッドが「A-B-C」を発表、精巧なビンゴマシンを出してきたのだ。驚いたバリー社スタッフ一同。この筐体でどうやって!?ミズーリ州セントルイスでロケテストされていた「ABC」をポールキャラメーリが視察。日帰り列車で。 現地の公衆電話から本社のドンフッカーに連絡が入る。 『中を開けて見たか?』 “無理ですよ勝手に開けるなんて。ただ、コインシュートしてプレイする度、筐体の中からカチャカチャ、カチャカチャ、と繰り返し音が鳴ってて……” 『……そうか、リレーサーチか!』 限られた状況から構造を察知したドンフッカーは早速バリー製ビンゴマシンを開発。ユナイテッド以上に豊かなラインナップを築き、バリービンゴ、ユナイテッドビンゴ黄金期の'50年代を駆け抜けるのだった。 因みにドンフッカーは1934年に地元ロサンゼルスでキッカーコイルを発明、直後シカゴのバリー社へ移り、エンジニア,ゲームデザイナー50年近く同社へ貢献している。 『ウェストノースアベニュー925、パート製図技師募集』本当にこれだけ!卒業前からそこでの仕事を請け始め、1時半に学校が終わるとそこへ直行。エンジニアリングで製図の仕事をさせられた。そこで、私のすぐ後ろの席で働いていたのは、まさしくあのリンデュラントだったんだよ。その時彼と親友同士になった。 リンデュラントは運よくシャッフルアレーブームに乗っかった。100万台は売りさばいた。彼の工場内部を観たことは無かったが、搬出トラックが何台も並んでいるのを見て、あぁ大成功してるんだな、と思ったよ。 もしもっと早くユナイテッドが設立してたとなら彼のところに行っただろうね。ウェスタンを抜ける時はまだデュラントはイグジビットにいたから。一足先にハリーマブスがゴットリーブに移籍していたんで、彼についていく形で自分はゴットリーブに移った。 Billboard 1963年12月7日 リンドン・デュラント、税務訴訟で敗訴 シカゴ-ユナイテッド・マニュファクチャリング社のオーナー、リンドン・A・デュラント氏は先週、所得税脱税の有罪判決について連邦控訴裁判所に上訴したが敗訴した。 デュラント氏の弁護士は、連邦最高裁に上訴するか、控訴裁判所で再審理を求めると述べている。 デュラント氏は1962年に、1954年から1956年までの所得62万939ドルに対して14万2714ドルを脱税したとして、60日間の禁固刑と1万5000ドルの罰金を言い渡された。ユナイテッド社の幹部は1000ドルの保釈金で釈放されている。 公私ともに窮地に陥ったリンデュラントは、会社を手放す覚悟を決めた。



(最終更新日2019年8月26日)