ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆ウェスタンイクイプメント社/Western Equipment & Supply Company/設立1932,第1期1934〜1938,第2期 Western Products Incorporated 1938〜1942

 ウェスタン社はテーブルタイプのギャンブル系ピンボールメーカーの旗手として業界を賑わせた、巨漢の名物社長によるお騒がせピンボールメーカー。
 ペイテーブルというトレンドを巻き起こし、83ものゲーム機の特許を取得している。
 盗作すれすれ、法律ギリギリのゲーム内容は賛否を呼んだ。
 ピンボールのエレキ化もペイアウト機能もゲーム性も、最大手バリー社にぴたっと追従する高性能ぶりで、尚且つどこよりも価格を抑えた低価格販売路線は、常に業界を驚かせ続けた。後年野球ゲームのヒット作にも恵まれている。
 新米時代に同社から巣立った幾人ものエンジニア達は、その後業界に名を轟かす傑物となっている。

― 解説 ―
 かつてイリノイ州シカゴ市ウェストノースアベニュー925に所在。
 剛毅果断の名物社長ジミー・ジョンソン率いるウェスタン・イクイプメント・アンド・サプライ社/ウェスタン・プロダクツ社は、'30年代のピンボール市場勃興期の中では後発組に入る。

 しかしそれを逆手に取り、他社製品を徹底的に研究し尽くしたゲーム性とメカニクスの完成度は大手各社と遜色が無く、更にそれらを低価格設定で売り捌く戦略により、'30年代半ばの大手一社に躍り出た、急先鋒ギャンブルピンメーカーだ。

 特に、スロットマシン並の射幸性を煽る、ワンボール一発こっきりで高配当を狙わせるダーティーなワンボールペイアウト台の量産は、業界で良くも悪くも衆目を集めた。

 他にもピンボール産業への功労として、ミニサイズカウンター台の発展、電気ピンボールのコンセントプラグ化、リプレイユニット装置の完全確立……等が挙げられる。

 戦前と戦時中に1度ずつ倒産し、2度目の倒産である1942年以降、ジミー・ジョンソン社長はイリノイシカゴを去ってコインマシン産業とは別の道を歩み始める。

 それでも、のちにゴットリーブやウィリアムスでも大活躍するハリー・マブスや、ハリー・ウィリアムスと共にユナイテッド社を興すリン・デュラント、再ゲームユニットの発明者で生涯159機種ものピンボールデザインを手掛けたウェイン・ナイアンズ……等々、多くの才人を輩出した貢献は大きい。



 ウェスタンイクイプメント社創業者ジミー・ジョンソン(ジェームズ.E.ジョンソン)は1901年11月13日、ネブラスカ州アーリントン生まれ。

 ピンボールメーカー大手創業者に最高学府修了者が少ない中、ジミー・ジョンソンはネブラスカオマハ市のクレイトン大学を卒業している。
 成人後は身長2メートル以上,体重130キロという圧倒的な体格に恵まれ、大学ではアメフト部の花形選手に。タックルの猛者としてラインマンを勤めた。

 激しい情熱家でひとときもじっとしていられない。思いついたら即実行、暴虎馮河の向こう見ず。
 そしてエンターテイメント、ゲームの類にはもっぱら目が無かった

 ジミーは在学中からチューインガムのセールスで事業を興し、卒業後は天下のフォードモーター社に入社。
 同社の名モデルとして名高い“モデルT”が記録的な製造数を更新し続ける最中、ジミーは主要都市支店の在庫管理責任者及び効率アドバイザーとして駆け回っていた。

 事業家としてやっていける自信のついたジミーは1925年電気式コインピアノの製造会社であるウェスタン・エレクトリック・ピアノ社を設立。当時3社あったコインピアノメーカーのうちの1社である。
 これがジミー最初のコインマシン産業への参入となった。

 コインピアノとはオーケストリオンに似たコインマシンで、ニッケル硬貨を投入すると自動でピアノが演奏される筐体である。

 アンプとスピーカー登場前の前時代。音響,音量に限界があった自動コイン蓄音機より、遥かに美しいしらべが機械仕掛けの生演奏により迫力の臨場感で奏でられる為、コインピアノは重宝され、数多くの盛り場に設置された。

 禁酒法により余計需要が高まったスピークイージーやロードハウス、ボーデッロ(娼館)などが主な供給先だった。

 しかし大恐慌の襲来と、それに伴った失業者向けの娯楽―――ジュークボックスとピンボールという日進月歩なコインマシンの台頭ゆえ、コインピアノ市場は急速に衰えることとなった。


 ジミー・ジョンソンはコインピアノ産業に見切りをつけ、自社をウェスタン・イクイプメント・アンド・サプライ・カンパニーへと刷新。ピンボール事業参入へ舵を切った。1932年のことである。

 設立当初の2年ほどは小さなオフィスで試行錯誤を繰り返し、ピンボールのディストリビューターとしてオペレーターにゲームマシンを供給する程度にとどまっていたが、1934年には念願の自社ファクトリーを竣成し、カウンタータイプの競馬マシン「フューチャリティー」を世に送り出す。
 テーブルの上に置けるペイアウト台は珍しく、業界の注目を集めた。

 そして商品第2号機、且つ初のウェスタン製ピンボールが「ヘルズ・ベルズ('34/8)」だった。


 1934年当時のピンボール産業は、バリー社製「ロケット('33/10)」を皮切りに、ペイアウト機能――いわばギャンブル路線への急進が顕著だった時節。

 現金やトークンを投入し、入賞によって正確なトークンの枚数を払い出すペイアウト機能を備えたバリー社製「ロケット」は、一度の改良版の再発を経たものの、数千台製造しても不良品の報告が一切無く誤作動も起こさない。
 初めての完璧なペイアウトメカニズムを備えたギャンブルピンボールとして業界の耳目を集めた。

 更に同社ペイアウトピンボール第2弾「レッド・アロー('34/10)」の試作台をシカゴのレストランでロケテストしたところ、開店から正午までの間で11$75¢を稼ぎ出し、他の街のタヴァーンでは1日105$もの収益があった。

 もはや明日のピンボールの活路は紛れも無くペイアウト機である……と業界人達は確信した。

 バリーに続けとばかりにペイアウト台を推し進めたのが、スロットマシンやジュークボックスでも有名なODジェニングス社

 シカゴ市ウェストレイク街、イグジビット社の向いに本拠を構える彼らは、バリーと同じく初期故障に苦闘しながらも、10ボールゲームのペイアウト台「スポーツマン('34/2)」を完成させている。

 ハンティングの獲物が3つ揃ったら入賞……というスロットマシンに倣ったギャンブルルールのスリルは勿論、ウサギ・リス・鳥・緑豊かな森林、そして銃を構えるハンターのプレイフィールドのアートワークやキャビネットデザインは、殺風景なフィールドアートの多い当時のピンボールと比べても気韻生動の美しさ。
 ジェニングス社絶対の自信作だった。

 ピンボール産業は禁断のギャンブル化路線へ猛進し始めようとしていた。


 そんな「ロケット」「スポーツマン」「チャンピオン」を真似たのが「ヘルズベルズ」だったが、店側が2つの入賞の難易度調節が可能というそれなりのオリジナリティーもあった。

 イグジビットの「エレクトロ」、バリーの「チャンピオン」で取り入れられていた、極めて初期のコンティニュープレイ―――5¢で1ボール追加続行プレイ機能“バイ-バック”も、いち早く導入している。

 後発だったゆえ低価格路線を強いられた「ヘルズベルズ」は製作費を回収する程の売り上げは得られなかったが、ピンボール産業及びギャンブル機市場に初めて足を踏み入れるジミーにとって、新参者が業界を日和見するような露払いの意味合いの方が深かった。

 ギャンブル法規制の抵触ギリギリ、他社商品の盗作際どいデザイン。
 どこまで踏み込んでセーフか、そして今後どんな技術が必要か。
 ヘルズベルズは同社今後の指標の試金石となる重要な習作となった。

 ウェスタン社が業界で一気に頭角を現したのが次作「プッタン・テイク('35/1)」だ。

 プッタンテイクは今までにない程の高額配当・高額収益を謳う、射幸性の強いワンボール制ギャンブルピンボールで、煌びやかな最新機種が妍を競う1935年のコインマシンエキスポではバリーの「レッドアロー」を向こうに回すほどの注目を集め、同年ピンボールのベストセラーの内のひとつとなった。

 更なる好評機種となった「カリオカ('35/6)」も、やたら運任せに射幸心を煽る阿漕なワンボール制ギャンブル機種である。

 “ピンボールはスキルである”とするゴットリーブ社とは対照的に、初期のウェスタン社はダーティーなギャンブル路線にひたすら傾倒していることを如実に表している。

 業界における「プッタンテイク」「カリオカ」の影響は強く、他社が一斉にワンボール制ペイアウト台製造に乗り出す程のランドマーク的なスマッシュヒット作となった。


 ウェスタンのヒット作・話題作はその後も連綿と続いた。

 「タイニー('35/12)」“是非貴店のテーブルにお手軽ミニサイズペイアウト機を”と謳った、カウンター仕様に拘るウェスタンの指針が顕著な一作。

 筐体の横幅は33cm、奥行きは56cmという小振りサイズで、名前の通りバーのテーブルやシガーカウンターにうってつけのタイニーピンボールである。
 それでいて、入賞額を正確に計算して払い出すペイアウト機能と電源バッテリーの内蔵をきっちり押さえている。

 ミニサイズのペイアウト機種としてはピアースツール社「バレット('35/5)」及び「トーテム('35/6)」の登場の方が約半年ほど先立つが、ボールアクション、カラフルなプレイフィールドデザイン、ゲーム性の洗練、そして何よりもプレイヤー人気は「タイニー」が上回った。

 ゲーム内容は、やはり射幸性煽るワンボール高配当。12箇所ある入賞口のうち11箇所が払い出しで、残り1つがボールリターンホール……と、フィールド構成は魅力的。

 ところが球はどこにも、なかなか入ってくれやしない。全ては大抵地獄の底辺アウトホールゆき。オペレーターが一番喜ぶタイプの機種である。

 本機種エンジニアリングとデザインは同社人事部マネージメントとしても有能ぶりを発揮したエリック・ジョーナンダー
 タイニーで実現化したバッテリー稼働のミニサイズ・ペイアウト機構は計画的にパテント出願され、法務的にも厳重に管理された。


 1936年6月発表「ジッターズ」も世の耳目を集めた話題作。

 バックボックスJ-I-T-T-E-R-Sレターが灯るバックグラスライティング仕掛け。
 新技術プラグ電源仕様だが旧態バッテリータイプバージョンとも選択可。他コインセパレーターのオプション、チケット発行機能つき別バージョンもご用意。
 オペレーターのご要望に自家薬篭の至れり尽くせり、当意即妙の多機能ぶり。

 特に、初期のバッテリータイプから、整流器と変圧器の電源プラグタイプに移行する時節のエレキピンボールは、オペレーター側に面倒なセットアップの負担があって管理になかなか骨が折れたそうだが、照明付きバックボックス搭載の「スヌーカー('36/3)」以降、ウェスタン社のマシンには今で言うアダプターと言える[パワーパック]を搭載
 役の完成でJITTERSの文字が灯ってゆく今作では、その威力をフルに発揮。

 ペイアウト台の最大手バリー社に機能もゲーム性もぴたっと追従する、それらの高技術ぶりには他社も舌を巻いた。

 「スヌーカー」「ジッターズ」の制作陣を挙げると、ゲームデザインはハリー・コーゼル、ハリー・マブス
 メカニカルエンジニア及びデザイナーはガス・エリックソン
 電気エンジニアリング担当は当時25才のリン・デュラントとそのアシスタントで当時17才のウェイン・ナイアンズ

 ピンボールの歴史家からすれば、ぎょっとする程の錚々たる顔ぶれなのである。

 尚「ジッターズ」は5ボール制のペイアウト機種
 5ボールの内1個ぐらいは大抵入賞ホールに入るので、同じ色のホールを狙ってペア賞50¢を狙う。1$,2$入賞チャンスも有り。

 『時間差フェイントで球が揺れに揺れまくるボールアクションがエキサイティングで、“慌て者たち”というゲーム名がぴったりなんだ。お陰さまで大好評だ!』

 ……と、当時の業界誌コインマシンジャーナル誌でジミー・ジョンソン自らゲームの出来の良さを語っている。


 しかしウェスタン社の低価格路線は度々利益があげられないことも多く、ジミーは常日頃から運営資金の調達に困窮。

 戦前と戦時中に、二度の倒産を迎える憂き目にあっている。

 その一番の要因は、安すぎるピンボールの価格設定よりむしろ、見栄っ張りで羽振りの良い浪費家……というジミー当人の性格と無計画ぶりにあったようである。


 『ジミー・ジョンソンはビッグジミーって呼ばれてたな。インチキな飾り付けだらけのでっかいクリスマスツリーみたいな奴。派手で豪快、いつも大言壮語に大口叩いて、儲かると思ったら何でも手を出そうとする。全身から胡散臭さがみなぎってて、本当に面白い奴だった。他社大ヒット作の「ロケット」と「チャンピオン」のあからさまなコピー品を憚らず作ってたな』

 シカゴのスロットマシンメーカー一族の息子ジョセフ.A.ポーパJr.は、ジミーの印象をそう回顧している。

 ジミーの相棒でディストリビューター、後のジービーマニュファクチュアリング創業者エディー・ギンズバーグも、

 『ジミー・ジョンソン?相当イカレた野郎だぜ。話が抜群に面白い、ハスキーボイスのでっけぇ大男。でも発想が余りにも自由過ぎて向こう見ず。人の忠告を聞かずに何でも手を出して、失敗しては穴埋めの金策に喘いでいた。しかもどうしようもない大酒のみ酒乱癖。向うは社長さんでこっちは代理店だってのに、バーをハシゴしては持ち合わせの金を全部使い果たして、よく俺の方が飲み代を立て替えてたんだ。実は俺酒飲めねぇから正直迷惑だったけど、憎めないイイ奴だったよ。でももう一緒にバーには行きたくはねぇなぁ』
 と述懐した。

 かように、ジミー・ジョンソンは大酒飲み且つヘビースモーカーの着道楽。

 オーダーメイドのシャツとスリーピースのスーツを着て、ナンブッシュの靴の上にはグレーのスパッツ。いつもシガーをくわえてポケットにはハンカチーフの角を忍ばせる。

 ウェスタン社工場2階にはバーカウンターを設えた豪奢な接待部屋があり、訪れたディストリビューターや買い手達はめったやたらと飲まされていたそうだ。
 ジミーは常日頃“大口客を繋ぎとめる最たる方法は、酒でもてなすのが一番だ”と考えていたのだ。


 そんな浪費家で大雑把なジミー・ジョンソンの会社ウェスタンイクイプメントが、

 なぜこうも優れたカウンターペイアウトモデルを次々に発表し、
 当時のエレキピンボールの標準であるバッテリー内蔵タイプからアダプター装備の電源プラグタイプへの改革も自家製で実現し、
 更に当時不完全な仕様が出回っていたリプレイ機構を改良して特許の取得を果たし、
 ピンボールメーカーや娯楽マシンの大手一社になり上がることが出来たのか。

 それは、

 “傑出した才能を持つエンジニア、天賦の才を持つ発明家デザイナー達ばかりが、偶然駆け出し期に、次々と新米扱いの給料で揃いも揃って雇用できていた”

 ……という、驚異的な人材の強運に恵まれていたからである。

 ジミー当人はメカも電気も専門外な、客寄せパンダの名物社長。
 “面白い奴だ!”と、その豪傑なキャラクターで相手を魅了して資金を集めてくる才能だけ長けていたに過ぎない。

 同社ゲームデザイナーのハリー・マブスはのちのフリッパー発明者だし、電気のエンジニア リン・デュラントはその後ハリー・ウィリアムスとユナイテッド社を興して大成している。

 ハーブ・ブライテンスタインはかのバリー社「ロケット」の兄弟デザイナーのハーバート.G.ブライテンスタインとバド・ブライテンスタインらを兄に持つエンジニア(ハーブとGハーバートは兄弟だが別人,当時もよく間違えられたそうだ)。

 ゲームデザイナーでもあり同社人事担当としても賢能だったエリック・ジョーナンダー

 “電気回路のファンタジスタ”と評されたエミール・グッドマンは難渋な電気回路図を易々と早引きしてみせる電気工学の天才で、彼の手によるギャンブル筐体「モンテカルロ」はラスヴェガスで大ヒット筐体となった。

 他、ハリー・コーゼル、ドン・アンダーソン、クロード・ハッチンソン……と春秋に富む才人達が犇めく中。

 ウェスタン社の隆盛を語るにおいて最も不可欠なキーマンが、

 若干17才で入社した途端に稼働の正確なリプレイ機構を発明し、
 アダプター電源装備開発のアシスタントを務め、
 より洗練されたベースボール機を開発して倒産からの再建に貢献、
 20才で工場長を勤めたのち、
 移籍したゴットリーブ社でその後40年間ゲームデザインとエンジニアリングを勤めて生涯159機種ものピンボールを手掛けた、

 ウェイン・ナイアンズ、その人である(現在も102歳でご健在)。


 ナイアンズは1918年にアイオワ州メイソン市に生まれたが、8歳の時に父と祖父を同じ日に失うという突然の悲劇に見舞われている。

 作業中の転落事故による大怪我で入院中だった祖父危篤の一報を受け、仕事を終えるのを急ごうと取り乱した電気技師の父親が、水浸しのビルの地下室で感電死してしまったのである。その僅か2時間後に祖父も他界。

 この痛ましい悲劇は当時の地元新聞でも報じられた。

 同じ家族内で、しかも稼ぎ頭の男手2人を弔いに出さねばならなかったウェインと彼の母の心中の痛惜は察するに余りある。

 これからは母を、家を、僕が支えていく―――。
 幼いウェインに強い就労意識が芽生えた瞬間であった。

 1926年、ウェインの母は不祝儀の悲劇から立ち直って心機一転を図るべく、親戚を頼ってイリノイ州シカゴ市へ移ることを決意。
 バンやトラックも無く自動車道路網が未発達だった当時、大量の木材を敷いてレールを作り、列車まで家財道具を延々運び込む引っ越し作業の光景は、ウェインの幼心にも強く印象に残っている。

 アル・カポネ、ジョージ・バグズ・モランらギャング達の壮年期だった当時のシカゴは良くも悪くも活気がみなぎっており、ナイアンズ家出身の田舎町や他の都会と比べても暮らし易かった。

 ウェインの母は義理父や旦那の生命保険を元手に株式市場への投資で生計を立てはじめたが、1929年の大恐慌でそれも全て失ってしまう。
 しかし、頭の回転が良く洞察力も鋭いウェイン少年は銀行倒産直前で世の物情騒然を察知。
 やり手の新聞少年として稼いだ自分の有り金をいち早くおろしておいた為、1セントたりとも失わなかったというから驚きである。


 ウェイン・ナイアンズは父と祖父が他界してすぐに家計を助けるべく8歳で新聞販売を始めていたが、シカゴに引っ越してからの新聞販売は田舎での販売より10倍もの売り上げがあり、都会の活況にときめきを覚えていた。

 当時は子供が新聞を売る“ペーパーボーイ”の存在は別段珍しい光景ではなかったが、他の同年齢の子供が1日10部か15部しか預けて貰えないのに対し、ナイアンズは1日100部は売り捌き、週5$もの賃金を稼ぎ出していた。

 日曜日に人々が教会へ赴く道のりは意外な稼ぎ場であることをナイアンズだけが気付いていた。
 信心深いクリスチャンは子供に甘く、高めの料金設定でも完売御礼、チップもよくはずむ。

 クリスマスの時期には教会ルートまでカートを引いてどっさり売りさばき、そのシーズンだけで100$は稼いだ。今の日本円の価値で20数万円程だろうか。9歳,10歳にして既に事業家のような手腕を発揮した。
 ナイアンズは通りでゴミを漁っている浮浪者の姿を見かける度“なぜあの人は新聞配達をしないの?”と不思議に感じていたそうだ。

 カーネル大学構内もナイアンズ少年にとっていい販路で、一息入れてそこのドラッグストアのカウンターで飲むルートビア・ソーダファウンテンが大好きだった。

 そんなある日、ナイアンズの腕を見込んだストアのマスターが猫なで声で彼に近づき、
 “キミなかなかやるねぇ。ちょっと頼みがあるんだけど……コレをこの辺で配ってくれないかなぁ”
 ……と、カレンダー100部の頒布を無償でやらせようとしてきた。
 タダ働きはどうかと思ったが、恩を売っておくのもいいかと思い、ナイアンズも了承。

 しかし預かった現物を見ると、そのカレンダー自体は全く別業者の宣材なのに、マスターがドラッグストアの店名を上からスタンプし、自分の店の宣伝カレンダーに改竄した阿漕な代物だった。

 そこでナイアンズは自分で近隣のインクスタンプ店を見つけ出し、[ウェイン・ナイアンズ新聞販売店]なるスタンプを発注。カレンダー全100部全頁にばっちり押印。見事自分の店の宣材に仕立てなおしたカレンダーをキレイに捌き終えた。

 後日、いつものようにソーダを飲みにドラッグストアに入った所、血相変えたマスターが開口一番、

 “貴様ー!よくもふざけた真似しやがって!!出てけー!二度とウチの店に入るな!!”

 と激昂。例のナイアンズ新聞店のスタンプ済みカレンダーの現物を手にしながら怒声を浴びせてきたのだ。

 だってあなた、元々無償でぼくに頼んだんですよ?給料出さないんですよね?……と子供に正論を唱えられたマスターは余計怒髪天を衝き、ナイアンズを出入り禁止にした。

 そのマスターはひたむきに勤労に励む子供を利用しようとして、逆に利用されたのだった。


 かように恐ろしく抜け目が無く、頭の回転が速い優秀な子供だったナイアンズはやがてクレーン技術学校へ入校。電気回路と電気図面を3年、機械製図を3年間修得した。

 学校内でも突出して製図の成績が良く、電気、鉄工、ラジオ、それに属するあらゆることを学び尽くした。

 教師も感心し、何もかも修得し終えてしまった優秀過ぎるナイアンズに、通常カリキュラムでは教えることのない建築のことまで学ばせた。
 その教師とは師弟というより知性を共有し得る友達同士のような関係となり、その教師はのちにナイアンズがウェスタン社へ入社できるよう引接を介している。

 一方ナイアンズ当人は学業に励む傍ら新聞販売の仕事も忙しなく続けており、売り上げの良い街角に構えた新聞スタンドの近所にあった精肉店の旦那と意気投合。
 彼は1936年春の卒業を間近に控え、組合が頑強で給料も良い肉屋への就職を志望する。

 世は大恐慌以来、絶望的な就職難の真っ只中。専門技術に自信はあっても電気技師や製図技師になれる保証はない。
 母を養う身である彼は安泰な道を選ぼうとしていた。

 ところが肉屋への出勤が始まる僅か2日前。

 “急募、優秀な製図担当者。明日面接。ウェスタン・イクイプメント・アンド・サプライ社”

 ……という、随分と性急な求人が学校に飛びこんできた。
 このような形での求人募集は当時学校側にとっても異例のオファーだ。

 教師にも勧められたナイアンズは着の身着のまま、おっとり刀でその会社の面接に赴くことに。

 雪の降り積もるとても寒い朝に、20人ほどの応募者が会社前に並んでいた。
 扉が開いて中に入ると、そこは天下のピンボールファクトリー。

 しかし応募者一同、誰もピンボールをやったことがないし見たことも無い。
 既にシカゴではピンボールは非合法となっていたのだ。

 現在のゲームプレイヤーからすれば
 “ピンボールのメッカはシカゴなのに、そのシカゴでは早々にピンボールが禁止されてしまった”
 という当時の信じがたい情勢にピンと来ないのだが、これは本当の事である。

 面接官は前述の「タイニー」をデザインした、チーフエンジニアのエリック・ジョーナンダーだったが、応募者に電話番号を書かせただけで、住所も訊かず経験も問わず技量も試さず、面接らしいことは何もしない。
 失望したナイアンズは帰宅後すぐに肉屋への就職に気持ちを切り替えようとしていたところ、不意を衝いて電話のベルが鳴った。
 『早速明日から来てくれ。すぐに仕事を始めて欲しい。卒業まで暫くはパートタイムで頼む』
 と言う、Eジョーナンダーからの採用の知らせだった。

 実は前述の恩師がナイアンズをウェスタン社の人事へ強く推挙。
 彼の技量を雄弁に物語るナイアンズの図面を、ジョーナンダーに送っていたのだった。

 こうしてウェイン・ナイアンズはウェスタンイクイプメント社への入社を果たした。
 因みに例の精肉店へはナイアンズの口添えにより彼の友人が就職。こちらも天職として生涯肉屋の職を全うしたという。


 その後のナイアンズの奮闘と活躍には枚挙に暇が無い。


 初めての仕事は、ソレノイド稼働のペイアウト機構の図面引き。
 しかし現在のコピー機にあたる青写真機・青焼き機の設備が無く、何と図面と設計図をフレームガラスに挟み込んで太陽にかざすという、当時としても有り得ない手作業感光だった……とか。


 新米時代は3週間倉庫に配置させられ、そこで下積み経験。
 ケーブル引いたり、回路やリレー装置のはんだづけをしたり、パンチプレス、ドリル開け、倉庫管理、ゴミ掃除。他部所に欠員が出た日にはそこに走らされ、雑用はなんでもやった。

 しかしその新人期間こそファクトリー工程の管掌にとても役立った……とか。


 スロットマシンのエレキ化はバリーの技術者達の活躍による'50年代からで、'30年代のウェスタンでは到底実現化出来ないレベルの難攻だったが、野望高きウェスタン社ではそのプロジェクトが持ちあがり、上役は当時25才のリン・デュラントで彼がデザイン担当、新人ナイアンズが製図の係。

 結局エレキスロット計画は実現しなかったものの、ナイアンズのすぐ後ろのデスクだったデュラントとは気の合う友人関係になった。

 ところがウェスタン在籍中にデュラントの奥さんが重い病に倒れ、彼は心を砕いて看病に献身。残念なことに発症から数か月で亡くなってしまった。

 以後デュラントは独身を貫いたが、実はかなりの風来坊で退社後も色々な会社に赴いていた……とか。


 巨漢社長のジミー・ジョンソンは大変高圧的で梟雄な人物に見えるが決して残忍という訳では無く、愛郷家で、出身地ネブラスカ州アクサーベンを題材とした競馬ピンボールは当人の企画であった……とか。


 デザインチーフのハリー・マブスにはナイアンズと同世代の息子バドがいて、ナイアンズとも乗馬仲間。

 ただバドが粗野でがらっぱちな奴だったので、父ハリーはナイアンズの知性と気品に息子が薫陶を受けるのを頼もしく思っていた……とか。


 それまで全く触ったことの無かったピンボールはとても面白いと思ったが、ガラスの中で馬のミニチュアが走り回り、それとは別に跳ね回るライティングの照準に合わせて馬を撃つガンゲームが嫌い。

 内容は勿論、狭苦しい筐体の中に潜り込んで作業するのがナイアンズにとっては苦痛だった……とか。


 サム・メイという敏腕セールスマンが居た。

 ジミーはディストリ達をオフィスに招くのではなく、こちらから筐体を積み込んだトレーラーで相手方に馳せ参じる斬新な営業戦略を彼に担わせた。

 常に延長コードを持参し、先々で電源コンセントを拝借。トレーラーを引っかけ、州境にある販売代理店まで日がな一日はるばる公用車を走らせるサム。

 ある日帰社したサムの空っぽトレーラーを見て、

 “おい、大事なサンプル台はどうした!プロトタイプまで売るんじゃないこの馬鹿もんがー!!貴様はクビだー!”

 と、ジミーが憤激。しかしジミーに引けを取らぬ強気の大男だったサムは、

 “積み込んだ商品を全部完売させた腕利きの俺様をクビにするとは何事か!”

 と大癇癪、2人で口角泡を飛ばす大騒ぎに発展。

 結局貴重なプロトタイプは取り返せず、同社の同時期の自慢の新作エレキピンボールはまとめて幻の作品になってしまった……とか。


 ホテルで開催されたある年のマシンショーではゴットリーブ社が新作機種「ファイヤー・アラーム」を出展。
 会場内でドライアイスの煙をもくもくと焚く大胆なショー演出をぶちあげていた。

 ウェスタン社も負けじと“本物の鍵はどれだ!?”と大量の鍵の山から1本をゲーム性を交えてディストリやオペレーターに選ばせ、階上の自社部屋までまんまと上がって来させ、営業に繋げていた……とか。


 『今日夕方5時に他社の新機種ゲーム筐体を1台預かることになったから、ソレを盗作する。だが明日の朝また搬出せにゃならん。だから今夜皆で徹夜でバラし、完全コピーしろ』

 と社長命令が下った午後。
 [ヘアドライヤーモーター稼働のピンポン玉空中浮遊操作ゴールゲーム]
 なる、極めて斬新過ぎるゲーム機が社内へ運び込まれてきた。

 ナイアンズを含む手合いども6人で朝までかかって解析し、次の日完全に元通りに組み直した筐体を何食わぬ顔で搬出することに成功。

 しかし、それは所謂クソゲーだった為、本家も盗作版もさっぱり売れなかった……とか。


 ウェスタン社内には野球チームがあり、同業としての強敵で、尚且つ“コインマシン業界リーグ”でもいいライバルだったゲンコ社とは、よくロックオーラ社敷地内のグラウンドで試合をしていた。

 選手もコーチも監督も、ウェスタンチームも相手チームも、10代や20代の気の合う連中ばかり。

 老害のイメージが強い現在の日本のプロ野球とは違い、当時ベースボールは子供と若者の最先端カルチャーだ。
 ジミー社長も含め、職場で嫌いだった30代以上の威張ったおっさんなど出る幕はない。

 ナイアンズは決して運動神経の良い方では無かったが、相手チームも含めて同世代の気のいい奴ばかりな野球部活動は、楽しいというより気楽だった。

 そのゲンコ社と同じ敷地には当時ゴットリーブ社も所在しており、ウェスタン社倒産時にはその野球活動がツテとなり、失業した社員たちはゴットリーブ、ゲンコ、ロックオーラへの再就職をスムースに移行出来た。

 現にマブス親子はゴットリーブに、リン・デュラントはロックオーラに、そしてナイアンズもゲンコと迷った挙句ゴットリーブに移籍した……とか。


 ―――かような悲喜こもごものドタバタな大奮闘の日々を送るウェスタン社のジミーとナイアンズ達だったが、最も傾注と刮目に値するエピソードが、ナイアンズ新米時代の大手柄であるリプレイ機構のパテント獲得、及び直流バッテリー内蔵エレキピンボールを交流電源プラグ仕様に変換した[パワーパック]の開発である。

 当時出回っていたフリープレイレバーはコインシュートの下にあり、リプレイ入賞後にそのレバーを下げて再ゲームを楽しめたのだが、時々誤作動を起こして何度も遊べてしまうという欠点があった。

 その売りに出されていたフリープレイレバー機構のパテントを購入したのがウェスタン社だった。

 ナイアンズの入社間もない1936年のある日のこと。
 『野郎ども、凄いもん見せてやるぞ』
 とジミー社長がラボのエンジニア達に、購入したばかりのリプレイ機をお披露目。
 すぐウチの製品にもこの機能を取り入れろ、と説くジミーの周りの社員たちは首を傾げ、これは一体どういうものだ?どういう仕掛けなのか?と皆が理解に苦しんでいる。

 当時のピンボール産業は賭博化まっしぐら。突然舞い降りた救世主“リプレイ”自体、機構以前にその存在価値そのものが理解し難いものだった。少し前までこの世に“オートメーション・リプレイ賞”などなかったからだ。

 以前のウェスタン製ピンボールにもバリーフーにも、ボールがシューターにリターンしてくれる“フリープレイホール”と名の付く物はあったが、メカニクス稼働でまるまる1プレイ再ゲームなんて有り得ない。

 『あぁ、分かった!これはイージーですよ。社長はこうしたいんですよね』

 そこへ突然闖入してきたのが、本来蚊帳の外の製図担当だったはずの新米ウェイン・ナイアンズ。近くの作業デスクでずっと耳をそばだてて聞いていたのだ。

 ペーペーのお前が何を口幅ったいことを。本当に出来るのか?じゃあやってみろ!と社長に言われたナイアンズは二つ返事。
 何と僅か2日で、欠陥のあったフリープレイ機能が正確に稼働するリプレイ機序の設計を仕上げてみせたのだ。

 後日。
 『ナイアーンズ!今すぐ上に来い!』と工場内の天井の拡声器から社長のおたけびが大音量で響いた。

 そこで待っていたのは開発部長とジミー・ジョンソン社長。

 彼らがナイアンズに見せたのは、下請け会社のGMラボラトリーズが、リプレイ機構を製造出来るようにする……という契約書類。
 それは自分が発明した例のフリープレイユニット・ステップスイッチのパテント権利を会社側に譲渡する、という契約書であった。

 “契約書にサインすれば50$の臨時ボーナスをやる上にエンジニアの仕事に就かせてやる”
 とジミーらはナイアンズを懐柔。

 『新人なのにボーナスが貰える上もう出世なんて申し分ない!』と彼は即決でペンを走らせた。

 これは後から考えると、会社側が17の発明少年からパテント権利をうまいこと言って取り上げてしまった話。
 のちのち、ナイアンズは個人で儲けてビリオネアとなるチャンスを逃した……と悔やむことに。

 とはいえ、会社の与えた環境あっての物種であるし、フリープレイユニットのお陰でウェスタン社が躍進、ピンボール産業全体が、賭博依存のダーティーなギャンブル産業化路線から、スキルゲーム性重視のエンターテイメント産業へと脱皮する、活路が開けた瞬間なのである。

 欠陥のあった旧フリープレイユニットの発明者はビル・ベラーという少年だった。

 パテントは会社側ではなく開発者自身が取得していたものの、当人に事業の才が無く、分不相応の栄光に振り回された挙句、悲劇の末路を辿った。奇しくも彼は発明時、ナイアンズと同じ、齢17才であった。

 かように、リプレイゲーム発明による産業の活性と普及が、ウェイン・ナイアンズの改良とウェスタンのマシン生産開始まで足踏みしていたことを考察すると、ナイアンズが契約書にサインしたのは天啓の導きだったのかも知れない。

 ピンボール界の運命は、ここでまたひとつ変わったのだ。


 更にこの時節(交流電気へ変換の動きはゲンコやバリーなど他社でもあったことだが)、ウェスタン社は自家製で[パワーパック]、今で言うACアダプターの発明を為し得たことも画期的だった。

 ピンボールが電気化されたのはいいが、当時は整流と変圧がやっかいで、エレキピンボールはバッテリーで稼働していた。

 これらを改善すべく1936年夏、リン・デュラントウェイン・ナイアンズらは整流器付き変圧器[パワーパック]を開発
 ウェスタン社はこの商品名を“スタンコー・ユニヴァーター”とし、子会社のスタンダード・トランスフォーマー社に製造させた。
 尚このファクトリーはウェスタン社の前身であるのウェスタン・エレクトリック・ピアノ社の元工場である。


 不便だったバッテリータイプのピンボールを分解してアダプター式に交換してまわる仕事もナイアンズにまわってきた。

 当時は電気にうとい者による不用意な作業での感電死事故が頻発。電気製品の分解作業は恐れられており、電源交換は専門家の大仕事として、ナイアンズのような技術の高いエンジニアが行っていた。
 因みに今のアダプターとは違い、パワーパックはずっしり重たくて大き目のシロモノである。

 ナイアンズはその仕事ぶりと人柄からオペレーターの受けが良く、退社後夕方5時に車で拾われてロケーションまで連れて来られて夜通し作業。
 自宅に帰るのは朝の4時か5時……という日もあった。

 余談だが修理作業でコインマシンの筐体を開けると、中にはキャッシュボックスから零れ落ちた硬貨もザクザクと拾えた。
 公認でチップとしてポケットにしまいこんでいたが、数台の修理で結構な額になる為、ナイアンズにとってなかなか潤う仕事だったそう。


 ところで、ナイアンズのコインマシン業界でのキャリアがスタートした時点で、既にピンボール及びそのギャンブル機種はシカゴで非合法となっていた

 返す返す言うが、ピンボールもペイアウト台も、シカゴでは違法品のブツである。
 ウェスタン社は州法に抵触する商品を製造していたのである。

 では、なぜそんな違法品の製造業が成り立ったのか?

 答え。警察を買収していた


 ある日のウェスタン社のファクトリーでのこと。
 マイクを介したジミー社長の怒鳴り声が、例によって天井の拡声器から鳴り響いた。

 “野郎ども!注目!手を止めろ!皆静かにしろ!音を立てるな!静まれっつってんだろ!!………今からここに大勢の警官達が押し寄せる。ガサ入れが来た!全員仕事を中断しろー!!”

 ナイアンズを始めとした社員や工員達は血の気が引く思いでその場に座り込み、已む無く作業を中断した。
 異様な空気と不安感が暫くの間工場内を包み込む。

 その間1時間かけてジミー社長は大急ぎで大金を工面。包んだ賄賂を、会社玄関すぐ近くで手ぐすねを引いていた警察関係者に渡し、無事ガサ入れを回避したのである。

 尚、直前で連絡が貰えたのは、予め警察の内通者へ献金していた為。
 “これから1時間後にお前んトコにガサ入れあっから。どうすればいいか、分かるな?じゃよろしく”
と、ジミーに電話が入るのだ。

 ピンボール以上にダーティーなのは警察の方だった。まるで映画「アンタッチャブル」のような話。
 さすがは'30年代のシカゴである。

 バリーやミルズのような他のペイアウト系ピンボールメーカー大手は警察にどう対応していたのか。
 収賄や贈賄のやりとりを交わす当人らがそのような悪事を暴露した資料なんて、この先も出てくることはないだろう。
 しかし恐らく、よそ様もこの事例と同じようなことになっていたと推察できる。


 もうひとつこの時代のピンボールで興味深いのが、合成樹脂、つまりプラスチックパーツの登場だ。

 ナイアンズの証言によると、1935年までは“プラスチック”という品は全く見かけず使われず、皆名前すら知らなかったそうだ。

 当時、弾力性や緩衝性が求められる箇所にはスプリングが多用されていた。
 フラッグ・スプリング、ダブルフラッグ・スプリング、バレル・スプリング等々。
 これらが一般的に常用されていたのだという。

 アクウォード・スプリング社チャーリー・カーステッカーはスプリングのセールスマンで、ウェスタン社によく出入りしてジミー社長と契約を交わしてはスプリングパーツを卸していた。

 1936年のある日のこと。
 チャーリーはいつもの通りウェスタン社にやってきて、お馴染みのスプリング製品に加え、皆が初めて見るようなプラスチック製のピン・ポストも売り込んで来た。

 “レッド、イエロー、ブルー。カラフルで綺麗でしょう?スプリングの代わりにコレを使ってみたらどうです。盤面にネジで固定すれば、プレイフィールドデザインがもっともっと華やぎますよ”

 早速試供されたプラスチックポストにラバーを巻き、プレイフィールドに取り付けてみたところ、スプリング並にボールをよく弾ませ、それでいて見栄えはずっとスマートで可愛らしく、実にいい塩梅。
 よしコレで行こう!とウェスタン社のピンボールでプラスチックの導入が始まった。

 ところが、すぐにトラブルが発生。
 “縮むんだよ!プラスチックって。いちいちガラスを開けて毎回毎回締め直す、こっちの身にもなってくれ!”
 とオペレーターから苦情が殺到。
 日々この様ないらぬ作業、当然ロケーション側にとっては大きな負担だろう。

 そこで、チャーリー・カーステッカーと彼の会社はこの問題を解決すべく西へ東へ奔走。
 あらゆる化学・科学者達の元を訪ねてプラスチック形状の安定化を提言。
 その後プラスチックの製造方法が劇的に改善され、形状が一切崩れず安定する製品が業界に流通するようになった。

 この頃になるとチャーリーの会社はアメリカン・モールディッド・プロダクツと社名変更。プラスチック形成専門の会社に鞍替えしていた。

 こうしてピンボールやコインマシンでのプラスチックの使用は常識となった。
 コインマシンのゲーム機のみならず日常品にも忽ち溢れ返ったという。


 当時劇的に普及したというこのプラスチックがどんな種類のものだったか、ナイアンズはそこまで言及していないが、恐らくこれは[カタリン・プラスチック]だったと思われる。

 カタリンは1920年代後半から既に宝石に代わる安価な装飾品として世に出てはいたが、上述のように形状に安定性が無く、工業製品や電化製品に使われることは少なかった。

 それが1936年以降、コインマシン業界に導入しようと懸命に奔走したチャーリーのような営業マンと彼の訴えに耳を傾けた科学者達のお陰で、日常製品に普及するお馴染みの化学製品となった。

 殊に、ピンボール以上に鮮烈だったのはジュークボックスのカラフルなデザイン革命

 バックライトに照らされ、曲線を描く円柱パイラスター・カタリンプラスチックのファンタジカルな彩りは、それらを手掛けたワーリッツァー社専属デザイナー ポール・フラーの才能ばかりに称賛が集まるが、実はその前哨として、いち早くピンボールで導入したことによるプラスチック業界の努力と成功の下支えあってのものだったのだ。

 尚、最大手ワーリッツァー製ジュークボックスは1936年製まではラジオコンソール風なのに、1937年製以降になると途端にカラフルプラスチック化する。

 『1935年まではプラスチック製品は無かった』
 『1936年に業者がプラスチックを勧めてきた』

 というナイアンズの証言に開発期間のタイムラグを加えて考慮すると、ジュークボックス産業とも時間軸がぴたっと一致するのがとても興味深い。


 閑話休題、ジミーたちがその後辿った命運の話に戻ろう。
 ウェスタン社は1938年、一度目の倒産を迎える

 原因はジミー社長のどんぶり勘定経営と無計画な浪費にあったのだが、会社の資金繰り悪化を察知していたナイアンズは
 “週末に貰う給料の小切手は、即日現金化した方がいい”
 と、同僚にも囁いていた。

 案の定バンクラプトを迎えたウェスタン社は、社長のジミー・ジョンソン、ドン・アンダーソン、エミール・グッドマン、ウェイン・ナイアンズの4人を除き、全員解雇されることとなった。

 この時同社は最高の人材であるジョーナンダー、マブス、デュラントといった才気ばしる俊英を一挙に失っている。

 しかしウェイン・ナイアンズというオールラウンドな天才がまだ残っている。
 他のアンダーソン、グッドマンと共に心機一転ウェスタン・プロダクツ社として再建にかかった。

 取り掛かったのが「ウェスタンズ・ベースボール」

 実は倒産前に、ロックオーラ社製大型野球ゲーム筐体「ワールドシリーズ1937」を安易に真似た野球ゲームの不良品が有り、初期故障により返品の山を築いた。
 これをブラッシュアップしようというのだ。

 エミール・グッドマンはナイアンズをもってしても“彼には敵わない”と言わしめた不世出の電気技術者。
 そのグッドマンが初めから電気回路を引き直し、エレメカ的な装置をフロントの抽斗に設えて取扱いし易くし、リレーバンクを筐体右側に設計。

 ジミーはデスクワーク。後の3人で設計、組み立て、箱詰め、トレーラーに搬出、等々。
 雑役の肉体労働も全て3人だけでこなして乗り越えた。土曜は勿論、日曜日まで毎週駆り出されたという。

 “もし会社が立ち直ったらお前達を厚遇する。役職も給料もどんどん上げてやる。約束する。だから頼んだぞ”
 ジミーの言葉を信じて3人は心身をすり減らしながらも会社再建に奮闘。

 臥薪嘗胆、彼らの苦労が実を結び「ウェスタンズ・ベースボール」は同社が立ち直って再び従業員を雇い、工場を再開させるのに十分な程のヒット作となった。
 従前の野球ゲーム筐体よりピッチングやバッティングが斬新で洗練されていたのだ。

 元祖ロックオーラの筐体「ワールドシリーズ1937」はオルガン型で、1939年製「ウェスタンズベースボール」の筐体はスクエア型、後年ウィリアムスがシリーズ化したベースボール機はスリムなピンボール型だが、ウェスタンの筐体では選手の人形を廃してベルト状のカバー内からボールがピッチングされるようになっている。

 尚、日本のこまやが真似た「BASEBALL」「BASEBALLU」。2作目のコピー元はウィリアムスタイプだが、1作目はウェスタン社のスクエアタイプである。


 再び軌道に乗ったウェスタン社。ナイアンズは20才で工場監督に昇進。
 ところが彼は程無くしてウェスタン社を辞めてしまった

 時給40¢のままで給料が安かったから……というのが表向きの事情。
 しかし本当の理由は、自分の部下が全員年上というやり辛い職場環境における、ある一人の工員との軋轢だった。
 20のガキのクセに工場長に就きやがって、と日々暴力を受けていたのだ。

 『俺より半分の年のぼくちゃんのクセに、よくも工場長になんかになりやがって。でも俺より時給が10¢も少ないたぁどういうことだ?ハハハハー!』

 男の名はトニー・バーテル。彼の給料が工場監督のナイアンズより高かったのは、恐らく40過ぎの妻子持ちで子供を2人養っていたからであろうが、かといって毎日絡まれ、どつかれ、体当たしてくるような相手の粗暴行為、ナイアンズにとって堪える理由にはならない。

 1939年の8月31日の午前中。
 会社に愛想が尽きたナイアンズは、自分が職場を放棄する伏線として“時給を上げて欲しい”とジミー社長に直談判を申し込む。
 しかし案の定、社長が提示した額は僅か+2.5¢だけ。

 “そんなことより、1日のマシンの製造台数をもっと上げろ。トニー達の尻をひっぱたいてでもな!”

 ふっきれたナイアンズはその日の昼1時、辞表提出も挨拶も一切ないまま、自分の私物と工具箱を全てまとめて会社を去った。

 『随分と遅い御昼食ですな?流石は我らがボクチャン部長。ははは!』
 と小馬鹿にしてくるくだんのトニーから、立ち去る最後の最後まで嘲笑を背中に浴びたそうだ。

 その足でナイアンズはアポ無しでゴットリーブ社の門を叩き、“ピンボールのエキスパート”として自分を売り込みに行った。
 ジミーと会話してから1時間も経っていない。

 いともあっさり採用され、回路チェック担当の下働きを言い渡されたが、時給はウェスタンより10¢も高い。
 しかもこのゴットリーブという会社。見渡す限りウェスタンとは格が違う。

 エントランスには若くて美しい受付嬢がいるし、最初にナイアンズの面倒を見てくれた工場長モーリス・プリーストリーは、会社や仕事場の説明をしながらも、大量に散らかるワイヤーの山から迷わずひとつ選んで、図面も無しに易々とはんだづけを手早くこなしている。
 この人タダ者じゃない!彼が色覚障害者だと知ってナイアンズは二度驚いた。

 ここでずっと働こう。もうあそこには戻らない。彼はそう決心した。


 (文脈の流れからして割愛すべきだが面白い余談話なので無理やり挿入する。当日ナイアンズが怨嗟に打ち震えながらウェスタンを飛び出した時は再就職の宛は何も無く、漠然と個人でリペアショップでも開業すれば良いと思っていた。シカゴの路面電車に乗り込んで帰宅しようとした時、電車の窓からゲンコ社の建物が見えて、あっ一緒に野球やったゲンコだ!……と思って降車したのだそう。初めからゲンコやゴットリーブに目星をつけて辞めた訳ではない。当時のゲンコにはゲンズバーグ兄弟達は勿論、スティーヴ・コーデックハーヴェイ・ヘイスが居る。しかしゲンコと同じ敷地内にゴットリーブ社があり、成り行きでそこに向ったのだった。)


 ゴットリーブ社への会社訪問から即日ストレートで採用され、早速夜7時まで心地よく残業を終えたナイアンズが帰宅すると、アパートの前に派手なリンカーンコンチネンタルが停まっている。
 ……ジミー・ジョンソンの車だ!

 何とジミーがナイアンズの自宅に押しかけており、彼の母を籠絡していた

 『ウェイン、あの社長さんのウェスタン社に戻るべきよ。こんな酷い大恐慌の時代に、高校時代からずっと雇ってくれたひとを裏切ってはダメよ……』

 しかし翌朝、ナイアンズは迷わず真っ直ぐゴットリーブ社へ出勤。
 『母さん、あのジミーさんは間違ってる。一度痛い目に遭った方がいいんだよ。』

 そんな出勤2日目となるゴットリーブ社でのこと。照明を点けてプラグ接続したプレイボードのテストに勤しんでいたナイアンズの肩をトントンと叩く人が。
 シガーを手に口髭を蓄えた、小柄で小太りの男性が立っている。

 『キミがウェイン・ナイアンズ君か。突然スマンな、私はデイヴ・ゴットリーブだ。』

 驚きのあまり言葉を失うナイアンズ。しかしデヴィッドが続けて話した内容には尚更青ざめた。

 『やたら派手な服の大男が今ウチのオフィスに押し掛けて、“ウェインナイアンズをクビにしろ”って喚いているんだが。君に心当たりはあるかい?』

 これは酷い。ジミーの奴だ、間違いない。

 ナイアンズは頭を抱えながら、これまでのいきさつを釈明。しかしデヴィッドはこう諭した。

 『なぁウェイン君、聞いてくれ。私はこの会社を立ち上げ、ずっと引っ張って来て支えてきた。その私が今は君を雇ってるんだ。これからもきちんと面倒をみる。君はウチの社員だ。何も心配することは無いさ。』

 そう言うとデヴィッドはオフィスに戻り、身長2メートル以上,体重130キロの大男ジミー・ジョンソンを、大喝一声で追っ払った


 ウェスタン・プロダクツ・インクは倒産した

 新旧ウェスタン社の各メンバーはその後どうなったか。

 ハリー・マブスは息子バドと共にゴットリーブ社に移籍しており、ナイアンズとも会社内で邂逅。
 数多くのピンボールマシン及びゲーム筐体を開発し、フリッパー装置発明以降デヴィッド・ゴットリーブと衝突を繰り返すようになり、ウィリアムス社へ移籍。
 結婚と離婚を度重ねていたが最後の奥さんとの終の棲家はクイーンズ地区エルムハースト。ナイアンズとの友人関係は最期まで続いた。

 リン・デュラントは一度目のウェスタン社倒産時に解雇された直後にロックオーラ社に飛びこみ、そこで出合ったハリー・ウィリアムスと意気投合。
 共にコンビでイグジビット専属デザイナー勤務を経て、戦時中にはハリーをパートナーにユナイテッド社を設立
 終戦後にはピンボールとビンゴマシンの製造を開始。日本では馴染みが無いが、ボウリングとエアホッケーを足して割ったような大型筐体[シャッフルアレー]が大当たりし、一時代を築く。

 ウェイン・ナイアンズはその後40年間ゴットリーブ社への勤労に身を捧げている。生涯159機種ものピンボールデザインを手掛け、数々の名作を生み、多くの発明を成し遂げた。
 定年退職の日は2代目プレジデント ジャド・ウェインバーグの退職と同日で、2人一緒にゴットリーブ社の門を去った。
 102歳の現在も、歩行や食事なども問題なく自分でこなす介護いらず。自宅でお気に入りの工具箱を相棒に、穏やかな晩節を過ごしている。


 そして最後に、ジミー・ジョンソン

 破産寸前の戦時中には国からの軍需産業も受け、日本を爆撃する照準器を作っていたという逸話もあるが、彼はウェスタン社閉鎖後、イリノイ州からテキサス州へ拠点を移し、早くもジミー・ジョンソンズ・ウェスタン・カンパニーを設立。

 何と遊園地を開業している


 資金集めの口八丁手八丁は相変わらずの腕前だったようだ。

 1943年、彼はテキサス州サンアントニオ市のノースアラモとブロードウェイが交差するノースアラモ通り2222番地に遊園地を開園。

 その名も《ジミー・ジョンソンズ・プレイランドパーク》

 自慢の乗り物は16種。
 馬ではなく白鳥を象ったメリーゴーラウンドも喜ばれたが、とりわけ終戦直後の好景気需要に乗じて1947年に完成させた木製ローラーコースター「ザ・ロケット」はプレイランドパーク随一の名物機。
 1980年の閉園までナンバーワンの人気アトラクションとなり、その後他社が買い取って移設され、ペンシルバニア州エリスバーグ《ノーベルズアミューズメントリゾート》「フェニックス」として、今も稼働を続ける伝説の名機となっている。

 過去のコインマシン産業では放恣な経営がたたって散々苦杯をなめたジミー社長。

 しかし遊園地経営では“安全第一”の経営方針に重きを置いた。
 戦時中にかき集めた乗り物は元々中古品が多かった為、オフシーズンにおける修理、修繕、メンテナンスには肝胆を砕き、細心の注意を払っていた。

 特に稼ぎ頭で目玉である「ザ・ロケット」稼働日には毎日従業員を2人以上で軌道を歩かせ、日々の安全点検には気を抜かなかった。

 その甲斐あって、37年間全てのアトラクションでの目立った事故は一度も起きなかったという。

 このプレイランドパーク時代、ジミー・ジョンソンに篤志の人徳が芽生えている。

 地元の孤児院の子供たちに遊園地入園無料パスを配り、該当日には指定の乗り物を無料で子供たちに乗せてあげていた。アイスクリーム、ポップコーン、ソーダ。どれかひとつが無料で貰えた。
 また近隣のラックランド空軍基地基礎訓練中の飛行士達にも“労いフリーパス”を贈呈した。

 更にジミーは
 [本日白人の方の入場お断り。黒人さんいらっしゃい!ジューンティーンデー!]
 なるイベントを、毎年6月19日に敢行した。

 テキサス州及びサンアントニオ市では1940年代から1954年まで、黒人を隔離出来ない施設の公共事業を禁止していた。
 つまり、当時の遊園地には黒人が入れなかったのだ。

 6月19日はテキサス州で黒人奴隷制度が廃止された日で、“ジューンティーン”とはその記念日のこと。
 この日は園内でアフリカ系向けに家電製品が当たるくじ引きも開催された。

 勿論、これらは収益と売名をも十分考慮に入れた催事であり、パークの更なる活況へと繋がった。
 しかしこれらの催事はどれを取っても、大きな反発を喰らう覚悟と、本腰で腹を括った篤志の精神が無ければ、易々と行えることではない。

 その後アフリカ系を排他する法律は改正され、以後ジミー社長及びプレイランドはアフリカ系人種の入場をいつの日も大いに歓迎した。


 《プレイランドパーク》は'70年代半ばまで賑わっていたが、古き良き時代の遊園地スタイルに拘った同園は時代の変化に取り残されてゆく。

 ジョンソン一族は古巣のイリノイシカゴで、過去のコインマシンとは無関係の別事業が成功しており、遊園地経営の存続に固執する必要も無かった。
 愛着の深いプレイランドが一族の手から離れることを嫌がったジミーは、買収の名乗りを上げる企業が次々に現れても首を縦に振ろうとはしない。

 税金対策も兼ね、人入りが寂しくなってきてからも幹部の息子と共に運営を続けていたプレイランドパークだったが、1980年。ジミー・ジョンソンがアルツハイマー型認知症を患ったのを機に、《ジミー・ジョンソンズ・プレイランドパーク》は閉園を迎え、その37年の歴史に幕を下ろした

 現在、旧プレイランドパークの跡地はフェンスに囲まれ、入口の巨大ネオン看板の枠組みだけがその名残を物語る。
 乗り物は全て売却され、建物は廃墟になった。
 未だに元ハンバーガースタンドには焼いた玉ねぎの匂いがこびり付いているという。



 “コインマシン会社の社長なのに、メカも電気も専門外。わしらが馬車馬の様に働いてる時もデスクに座っているだけ。酒好きのおバカ野郎だ”
 と、ウェイン・ナイアンズによるジミー・ジョンソンに対する人物像の評価はバッサリ、にべもない。

 しかしジミーがテキサスへ移住した後の、彼に対する世の評価と印象は真逆であり、ジェントルジャイアントな名物社長として、撫恤に厚い篤志家として、皆に愛された好人物である。
 テキサス在住の永い高年齢者なら、誰もがその遊園地の思い出と愛着が深いという。

 ジミーが本当に成りたかった自分は、
 生き馬の目を抜くピンボール産業で一旗揚げようとがむしゃらに血道を上げるあまり己を見失い、大言壮語で自分を飾り、違法品の製造を続け、警察に賄賂を包まされ、若手社員を使い捨てていた前半のシカゴ時代のものではなく、
 弱者の味方の名物園長として晴れ晴れ且つ泰然と生きた、後年のプレイランドパーク時代にあったのかも知れない。

 『毎年4月から9月のオープンシーズンには、友達と何度も乗り物に乗って、ハンバーガーを食べて、ソーダを飲んで。ホホホホ〜と笑うファンハウスの前の女の人形が怖くて、そこを通る時はいつも走って駆け抜けたっけ。ガラスの迷路では顔をぶつけて鼻血を出したりもした。ローラーコースターの下には雑草対策も兼ねた羊たちが飼われていてのんびり草をはんでいるし、稼働してないコースターのレールの上を渡ったりもした。本当に毎日が魔法と夢のような、幸せな子供時代だったわ。』

 そう語るのはジミ―・ジョンソンの孫娘、ジュリー・ジョンソン・ピチ。
 彼女は成人後、フロリダでディズニーランドのキャラクターパフォーマーになっている。





(最終更新日2021年1月15日)