【1932年夏にオートマチックインダストリーズを失ったアール・フルーム】 その直後、フルームはあのBPヒグビーがオーナーのカーディーラーに一時的に身を寄せてフォード車のセールスマンに身をやつしたが、その店舗でも値崩れした「ホイッフル」の在庫を売っていたそうだ。 立派なフルサイズ筐体「ホイッフルデラックス」「オートマチックホイッフル」も、35$、25$まで大幅値下げして店頭販売。 車を契約したお客様にオマケでピンボールでもつけてたのかな。 【ホイッフルのコピー品】 百出した「ホイッフル」コピー品の中で最も売れたピンボールは「ラッキー・ストライク」。 ボールをスチール製にしてボールアクションにスナップを効かせたのは独自のアイディア。 この製造者の正体はメリーランド州ボルチモアのマイヤー・ホーウィッツ。ラッキーストライクを製造して売り捌く為だけにラッキーストライク工業社を立ち上げた。 バージニア州リッチモンドに拠点を置く東部最大のコインマシン販売会社モーズリー・ヴェンディング・マシン・エクスチェンジ社をディストリにつけ、デザイン特許も申請。 ……が、当然バッフルボールとバリーフーの登場で売り上げは失速した。 コピー業者の中に当時公開の映画「キング・コング」に便乗した「コング・コング('32/2)」なる機種を作った者も。しかも発売はキングコング公開前。あの映画は製作中から既に話題沸騰の注目作だったようだ。 【隠れた名品?プレイスリーズ】 錠前職人チャールズ・チゼワーが受託したピンゲームのデザインは、オートマチック社製ホイッフルと、モダンゲームズアンドノヴェルティー社「プレイ・スリーズ(1928)」の、両方いいとこどりしたものだったらしい。 プレイスリーズはコインオペ機能のないバガテルボードだが、ボールリターン機能とラバーを巻いただけのバンパーがあった。 【オートマチックインダストリーズのカナダ展開】 同社がカナダへはホイッフルを輸出せず、わざわざ現地支店で現地製造したのは税関の事情から。 カナダは輸入品の課税が高く、現地で製造した方が安く済む。ゴットリーブも同様の理由でカナダ支社を立ち上げていた。 やはりカナダでも当時ピンボールは空前の大ブームとなった。 レストランで。タバコ屋で。ビリヤードホールで。キャンディストアで。果物屋さんで。ガソリンスタンドで。ロードサイドストアで。映画館のロビーで。 高得点や大当たりを出した客には煙草ひと箱、チョコレートひと箱を景品プライズ提供するケースも頻繁にあった。ガソリンスタンドでは当たりに入ったらガソリン1ガロンサービス、なんてこともしていたそうだ。 “部品”の状態なら輸出,輸入しても課税されないし、現地で安く済む材料は現地調達。カナダの方が人件費も安い。 本国のヒット作だけ厳選ライセンシングして造れば売り上げは間違いないし、カナダでの失業者を工員として雇うのでカナダ政府にも一目置かれる。カナダのピンボール産業はこれで安泰! ……かと思いきゃ、案の定若者文化を憎む大人たちがピンボールを禁止するローカルローを次々に制定。カナダ全土に広がり、忽ちこの国のピンボール市場をも衰退へと追いやってゆく。 1936年2月にはコインマシン産業に極めて不利な法決議が致命傷となり、カナダのピンボール文化は全滅した。 ただ、第2次世界大戦中や戦後のアメリカ物資,製品不足によりカナダの製造力が頼られて、その節に同国のコインマシン市場が復興したそうだ。 【ミルズ社V.S.13社特許対策委員会の判決の資料が少ない】 ピンボール史上に残るこの泥沼裁判でミルズが負けたことは察していたが、肝心な判決の資料がなかなか出てこず、執筆に難航した。 当方が大量に獺祭した参照資料の中で、最も当時の詳細が伺える書籍でおいてさえ、その肝心の判決の行方については散々引っ張っておきながら、結局お茶を濁している。裁判判決専門サイトで記事がみつかったから良かったものの。 大手ミルズ社の大敗と失態を、当時の業界誌や専門誌は、ふて寝する虎の尾を踏むのを恐れて報道を控えたのだろうか。 そういえば、当時のコインオペ業界誌最大手オートマチックエイジ誌は、実は秘密裏にミルズ社出資による創刊である。 皆が口をつぐんでしまったようだ。 【当時のパテントと裁判事情】 “コインマシン産業”が登場して間もないし、ピンゲーム市場も生まれたばかり。特許法もまだ未熟な法律システム。 ボールリセットやらボールリフトやらスコアルールやら。特許侵害裁判で裁判官がどう判断するか。 勝訴の為には強力な判例、パテントに強い優秀な弁護士、自分らに肩入れする裁判官が必要。 判決がどう転ぶかは、当時の弁護士たちも業界人たちも、全く予測がつかなかったそうだ。 メカニクスもゲームルールも、両方をパクられたくなければ、メカ特許と意匠特許を連携させ、複雑かつ膨大な項目で自分の発明を主張した完璧な書類を作成し、申請しなければならない。その申請にはお金も時間も心労も浪費する。 半年前の大ヒット機能なんてすぐに時代遅れ。'30年代前半のピンボールトレンド盛衰の凄まじさを考えると、1作1作にこの過程をいちいちあてがうのは極めて非効率だった。 当時の各大手もコピーキャット対策は手を焼いている。盗作相手が自社と同じ規模のライバルメーカーだったりすると、訴訟は完全に泥沼試合となった。 【初期ホイッフル、後期ホイッフル、現存レストアホイッフルに差があり過ぎる】 現存するクリアなホイッフルの画像を拝見すると、むしろバッフルボールどころかバリーフーより洗練されていて、こちらの方がフリッパーレス・ピンボールの始祖らしい姿に見えてくる。 しかしこれは現代になってからぴかぴかにレストアされたもの。 特許資料や原盤オールドジェニーとは差が開きすぎている。 【大工のアーサー・ポーリンはピンボールの発明者と言えるのか?】 子孫の娘さん方は、“父こそピンボールの発明者”と主張し、アール・フルームや他社に栄光を奪われたことにご不満顔だが、ガラスを嵌め、ボールリセットやボールリフトのメカニクスを設計し、コインマシン化したのは紛れもなくアール・フルームだ。 一方、ポーリン子孫が保管する「オールドジェニー」の現物写真を拝見すると、ボールリセットやボールリターンやバッファがあるどころか、スコアトラフも[0点]アウトホールもない。 かろうじてプランジャーの存在は評価できるが、打ち加減を図る目盛りのスケール窓すらない。最先端バガテルと考えてもかなり見劣りを感じる。 ピンボールというより19世紀半ばのバガテルテーブル復刻盤と言った方がふさわしい。申し訳ないが“ピンボールの発明”とは言い難い。 【ホイッフルの参考元はジェニーリンドかコリンシアンか】 一番の謎がこれ。大工のアーサー・ポーリンは納屋の奥で埃まみれのバガテルを見つけてホイッフルの原盤「オールド・ジェニー」を作ったという。 ……なぜ“オールドジェニー”と呼んだ? いにしえのバガテルにも定番名がある。 コッカマルー,チヴォリ,コリンシアン,パーラーキープス,クロンダイク,パリジャン,そして、ジェニーリンド。 この“ジェニーリンド”から取ったのだろうか。 コインマシン歴史家リチャード・ビュッシェルはホイッフルの原盤オールドジェニーのまた更にその原盤を、 “納屋の奥から埃まみれでみつかったバガテルボード”とする説と、 “1920年代にイギリスで流行ったコリンシアンバガテルである”説の、 両方を記載している。 確かにコリンシアンバガテルはパチンコ歴史家 杉山一夫さんの著書にも写真があり、オールドジェニーとよく似ている。 ……が、この説が正しいならオールドジェニー誕生の1930年のクリスマスまで数年程度しか年季の経過が無い。 大工で家長のアーサーが、見覚えのないバガテルを、我が家の納屋の奥から埃まみれで発見する……という証言のシチュエーションが不自然になってくる。 じゃあ当時から50年以上前のジェニーリンドこそオールドジェニーの原盤だったのか。 いやそれもよく分からない。 困ったことに今度はこちらの“ジェニーリンド”のデザインがオールドジェニーと全く合致しない。 また、プレイフィールドにリヴォルヴィングターゲットが回転するリーゼンフェルド社1872年製「ジェニーリンド」のバガテルテーブルと、リンク先画像のブランズウィック社カタログのジェニーリンドも、相似が感じられない。 コリンシアン説もジェニーリンド説も、結局は諸説紛々の域を出ない。 一番自然なのは、当時は玉つき転がしゲームテーブルのことをオハイオ界隈ではなんでもひっくるめてジェニーリンドと呼んでいて、そのイメージからオールドジェニーと仮題したのではないか?という憶測。勿論臆見に過ぎない。 バガテルボード自体、19世紀からの流行を経て、国をまたいであまたに枝分かれした挙句、アメリカではすっかり下火になっていた、だいぶ前からあるお馴染みの定番ゲームだったのだろう。 |