フリッパー・トピックス♪

セガのプロ・ボウラーとウィルのミニ・ボウル


'98年頃の横浜ドリームランドで撮影
▲セガ1972年製の「プロ・ボウラー」
●今の30代後半から40代ぐらいの人にとって、セガの「プロ・ボウラー」(SEGA“Pro-Bowler”1972年製)は、非常に思い出深いエレメカ・ゲームマシンの代表ではないでしょうか。

 ピンボールに似た筐体で、ボウラー人形をノブとボタンで操作してスチールボールを投球。ミニチュアのピンをなぎ倒すと、ピンは上部機械の中へススーッと引き上げられる。カーン!というベル音と、カカカカッというリールドラムのスコアカウント。すると矢継早ににゅーっとピンが降りてきて10本キレイにリセット、リターンしてきたボールがぶ〜〜〜んというモーター音で持ち上げられ、ボウラー人形くんが構える手元にスチャッと戻ってきてくれる。そして2フレーム目、3フレーム目……。

 とてもテンポ良くゲームが進み、何度やっても爽快、且つスマートでリアリスティック。非常に完成度の高い'70年代のアーケード・エレメカ・ゲームマシンとして、私の脳裏にも強烈に焼きついています。
 世代を共にしたゲーム少年なら、温泉場、デパートの屋上、遊園地ゲームコーナー等々で、幾度となく熱中した記憶があるかと思います。

 写真は『'70年代から時の止まったゲームコーナー』として一部マニアの間で有名だった“横浜ドリームランド”の遊技場で1998年頃撮ったものなのですが、「プロ・ボウラー」はこの通り最盛期には3台も並べられて需要に応えていた訳です。またロングランヒット・マシンとして、'80年代後半頃まで各々のロケーションで現役稼動していたと記憶しています。

'98年頃の横浜ドリームランドで撮影
▲「プロ・ボウラー」のバックグラス。

 ところがこの「プロ・ボウラー」、セガが発明・考案・開発したものではないんです。あのウィリアムスが1970年に発表した「ミニ・ボウル」“Mini-Bowl”を盗用元とした、コピーキャット商品だったんです。
 じゃあこのウィリアムスの「ミニ・ボウル」が名機ボウリングマシンの元祖かというと、それも違うんです。この名作には、もっともっと複雑で、とても深い歴史と時代背景が秘められていました。



 先ず、アメリカはシカゴシティを中心としたコインオペ産業において、ボウリングをシミュレートしたこのテの最も古いアーケードゲームマシンは、1932年、カロム・ゴルフ・テーブル社製の「ピン・ボーイ」というマシンでした(※因みにピンボーイとは、まだボウリング場にてオートメでピンをセットする機械が無かった頃にフロアに遣えていた、手動でセットする従業員のこと)
 当時のノンフリッパー・ピンボールと同じ筐体、同じボールサイズを使用。ボウラー人形仕様は無かったものの、倒したピンはプレイヤーがノブを回してリセットすることができました。
 ただしヒットセールスには恵まれず、1939年に「ミニチュア・ボウリング・アレー」として再発するものの、さほどの話題にはのぼらなかった模様。

PIN GAME JOURNAL 2003年1月号より
▲エヴァンズ社1947年製の「テン・ストライク」
 しかし1939年、当時のスロットマシンの大手H.C.エヴァンズ社から、今回のボウリングマシン直系の始祖が誕生することになります。その名も「テン・ストライク」“Ten Strike”
 これは当時のフリーランスのゲームデザイナー、ジョー・ワーナーが考案・開発、パテント取得の上でエヴァンズ社に持ち込んだもので、既にボウラー人形君がプレイヤーの分身として登場。ボールセットはマグネット誘導で人形の手元に固定、ノブの軸操作で狙いを定め、ボタンで投球。
 ワイヤーでぶら下げられた10本のピンにもマグネット仕掛けがあって、リセットする時はピンの底と盤面に仕込んだ弱めの磁石同士で定位置にスチャッとセッティング。投球でなぎ倒されることにより磁石の固定から逃れたピンは、微妙なバランスの重り付きの滑車ですい〜〜〜っと上部へ引き上げられて一旦は機械の中に飲み込まれて姿を消します。でもリセットの時は滑車が戻され、にゅーっと降りてきた10本ピンはマグネットによって再び固定位置に行儀良くオールセット!良くできてる!

 しかも、ちゃんとスコアカウント機能もこの時点で既に搭載されていました。但しリールドラムなどではなく、当時ピンボールの主流だったライテッド式(バックグラスに記された100点、200点、300点……の数字にライトが点くやつ)でもありません。数字を刻んだステッパーディスクと呼ばれるものからバックグラスに投影する“ライトプロジェクション式”が採用されていたそうです。

 ただ、現実のボウリングでは1ゲーム10フレームなのに対し、初代テンストライクでは5フレームまでしか遊べませんでした(だから2投×5フレームでテンストライク)。リプレイはなく、スペアでエキストラボール、ストライクで2エキストラボール獲得のフィーチャーが有り。当時はゲームマシンへの法規制が厳しかったため、ギャンブルマシンと共にリプレイの搭載は禁止されていたのです。

 ともあれ、メカの仕組みやコンセプトなど、ボウリングマシンの基礎的なものはこの時点で確立、エヴァンズ社'39年発表の「テン・ストライク」がこの全ての流れの元祖ということになります。

 結果、この「テン・ストライク」は爆発的大ヒットとなりました。発売後わずか数週間で品切れを起こし、半年後には大量のコピー台が出回る事態も勃発。エヴァンズはこの状況に対応すべく、マニュファクチュアリング力のあるロックオラ社(ジュークボックスの名門)と契約してまでこの需要に対応。以後「テン・ストライク」は幾度ものヴァージョンアップを繰り返しながらも、15年間アーケードゲームマシンの定番としてコインオペ業界に君臨することになります。

 このテンストライク成功の要因は、斬新な仕掛けによるスマートなゲーム性もさることながら、粗悪なペイアウトマシン(ギャンブル機)の横行とそのとばっちりによるゲームマシン規制という、当時のアーケードゲーム機事情も背景にありました。
 射幸心を煽るばかりの内容でゲームの質が低いギャンブル機が氾濫。ペイアウトマシンの規制は勿論、リプレイルールを禁止、中にはピンボールそのものを禁止する州まであったご時世だったのです。
 そんな中、人形を操作してボールを放ち、ピンをなぎ倒して点数が手早くカウントされたかと思ったら、自動でピンがサッとリセットされてボールがすいっと戻ってきてくれる。実に小気味良く爽快なボウリングゲームが楽しく手軽に遊べる「テン・ストライク」の登場により、コインオペ・アーケードが大いに活気付いたのもうなずける気がします。
 また、当時の他のエレメカやピンボールよりも筐体がスリムで細長く、小さなバーにも比較的設置しやすかった点も、オペレーターに喜ばれていたようです。

 一方、前述のように供給の追いつかぬ品薄状態が慢性化、コピーマシンの跳梁やボウリングをテーマとしたエピゴーネン的エレメカ品やピンボールマシンへと需要が流れる事態も続出。かのゴットリーブ社やジェニングス社もその尻馬に乗ったクチだったそうで。そんな状況を憂んだエヴァンズ社が正式コピライトを売ってロックオラに作らせたのが'40年製「テン・ピンズ」“Ten-Pins”。同社製造だけあって真っ赤なマーブルカラーのジュークボックス調キャビネットは、未だコレクター評判が高いそうです。

 ところが、大戦下のきなくささがたちこめてくる1941年にもなると、贅沢な娯楽マシンの製造は一切合財政府による法規制が敷かれ、エヴァンズもロックオラも他のメーカーたちも、新機種製造を一切足踏みせざるを得ない時代がやってきます。
 しかし、娯楽好きなアメリカ人だけあって戦時中もゲーム機への需要は止まらず、彼等はウォータイム・リヴァンプ台(戦時中における中古のリニューアル改造)で細々ながら産業を保っていました。供給が追いつかなくて尚更急がしいくらいだったそうです。

 戦争が終焉を迎え、やがてコインオペ娯楽産業も活気を取り戻し始めた1947年。エヴァンズ社は早速「テン・ストライク」の新規製造に再着手。キャビネットをゴージャスにしたり、凝ったライテッド演出を加えたり、スコアフィーチャーの追加も施して新ヴァージョンを開発しました。
 一方、ロックオラは戦後二度とボウリングマシンもピンボールも作ることはなく、以後ジュークボックスとシャッフルゲームの製造に専心してゆきます。

 転機が訪れたのは1953年1月。エヴァンズ社は「テン・ストライク」製造の打ち切りを発表します。セールスはまだまだ少なくなかったものの、コインオペ産業におけるアーケードゲームの将来に不安を感じ、ジュークボックス事業への転進を図ろうとしての声明でした。

 ところが同年10月、事態は思わぬ急変を迎えます。エヴァンズ社のジェネラルマネージャーであるディック・フッドが急逝、同社は突然の閉鎖を余儀なくされます。エヴァンズの財産目録である各権利やパテント、商標や子会社、等々全て競売にかけられて四散解体。ボウリングマシンの名門エヴァンズは、たちまちコインオペ産業の表舞台から姿を消してしまったのです。

 こうしてボウリングマシン「テン・ストライク」とそのエヴァンズ社15年の栄光の歴史は一旦幕を降ろしました。

 しかしここでまた更に思わぬ転回が。この競売にかけられた「テン・ストライク」のパテントを、かのウィリアムスが競り落としたことから、'50年代後半から'60年代にわたる第2期テンストライク黄金期が招来します。


PIN GAME JOURNAL 2003年1月号より
▲ウィリアムス製1957年版「テン・ストライク」
 主力産業のピンボールが業界全体で低迷していたウィリアムスは、得意のリールドラムスコアユニット搭載のウィリアムス版「テン・ストライク('57)」を開発。当時のPINキャビネの主流であったウッドレール仕様に2人プレイ可能のドラムスコア、10フレームゲーム仕様を搭載。勿論ボウラーくん人形やマグネットと滑車ワイヤー仕掛けなどの基本的機能は踏襲されています。

 まさにウィリアムスの自家薬籠であるピンボールの最新技術によりブラッシュアップされた同社版テンストライクは、エヴァンズ社時代に劣らぬセールスを記録、同社ベースボールマシンとも比肩するほどの主力商品として永らくウィルからも国民からも可愛がられました。
 こられ業績の好調ぶりに気を良くした同社は、調子に乗ってドラムユニットを6機搭載した6人プレイヴァージョンや、ジャンボサイズ筐体版、といった話題性のある派生機種も開発、ピンボール不発の損益を埋め合わせた以上の快調な収益を潤わせていたようです。

 やがて1970年代に差し掛かり、ウィリアムス社からはもっとも洗練されボウリングマシンの最新機種「ミニ・ボウル('70)」が発表されます。
 このヴァージョンになると、現実のボウリングスコア計算と完全に同じ加算ができるようになり、スペアやストライクを出すとバックグラスで[/]や[×]のマークがライト表示され、次投球、次々投球のスコア持ち越し重複カウントルールも難なくこなしています。
 また、最終フレームでストライクを2連続射止めると、3投目のエキストラ投球が追加されるフィーチャーも採用。ボウリングの伝説的最高スコア300点を目指せ!なんて大仰ないきがり方も本気で挑めるようになれました。もちろんリプレイフィーチャーも有り!

PIN GAME JOURNAL 2003年1月号より
▲1970年製ウィリアムスの「ミニ・ボウル」。セガのプロボウラーはこの機種のコピー品だった

 しかし度重なる焼き増しにもう飽きられ始めていたのか、それともピンボールが好調期だったためか。過去のテンストライク程のセールスをあげることはできず、思ったよりロケーションへ出回ることはなかったそうです。

 で、このウィリアムスのミニボウルを盗用元として、そっくりコピーキャット製造してしまったのが日本セガ1972年製「プロ・ボウラー」だった訳です。

 しかし盗作と言っても、当時はゲーム機なんぞに著作権が認められていない時代。同じく同時期セガのエレメカでヘリをレバー操作で離着陸させる「ヘリコプター('68)」なんてゲームありましたが、あれもアミューズメントエンジニアリング社による海外のエレメカ「ヘリコプター・トレーナー('68)」が元になっています。しかもウィリアムスやミッドウェイもちゃっかり模倣品を出しているのです。
 こまやの野球ゲームだって、あれどうみてもウィリアムスのベースボールマシンが盗用元になってるはすです。数年後に登場するアタリのビデオゲーム「ブレイクアウト」が定番ブロック崩しとして、グレムリンの「ブロッケード」がお決まりの陣取りゲームとして、エキシディの「サーカス」がトレンドな風船割りゲームとして、コピーしようがされようがお互い様。そんな風潮がまだまだ業界に蔓延していた時代。エレメカの盗作なんぞ、誰もとがめることは出来ませんでした。

 くしくも'72年当時の日本は空前のボウリングブーム。ボウリング場は勿論、デパートや遊園地のゲームコーナーで、この「プロ・ボウラー」がピンボール以上の人気エレメカとしてこぞって大量設置されていったのは必然と言えましょう。
 ルールやメカニズムは本当にウィル版ミニボウルそっくりそのまんまでしたが、本家と比べて頑丈で、故障も少なく、特にボウラー人形はウィリアムス製の人形の代替として、今でも海外のコレクターたちに重宝されている。そんな逸話もあるそうです。



'98年頃の横浜ドリームランドで撮影
▲「プロ・ボウラー」フィールド全景。ボウラーくんの背にはSEGAのロゴが。
 子供の頃に熱中したボウリングマシンに、これほどにまで深遠な歴史があったなんて、通の人でも驚きを隠せないのではないでしょうか。何食わぬ顔でアートの色彩やタッチを真似てSEGAのロゴを入れ、当時人気の女性ボウラーの雰囲気をかぶせた女性ボウリング選手の絵(胸元にJPBAのワンポイントが。ジャパンボウリングアソシエーションの略?)を描いたバックグラス。今観ると本当に面白いです。

 一度元祖エヴァンズ版やロックオラ版、ウィリアムス版の「テン・ストライク」をプレイしてみたいものですね。
=参考・出展=
米誌“PIN GAME JOURNAL”2003年1月号
テレビゲームの世界A/ゲームス・スクエア(同人誌)

(2007/1/18)