忘れ形見の本来の意味は、父親の死後に誕生した遺児のことなのだが、この記事では文字通り「忘れ去られたまま形見となった」ある物のことと思って欲しい。
 ある物とは、押入に入りきらないほどのカメラたちだ。私の父が家族に隠れて収集していた物だった。私の大学生時代から社会人になって間もない頃くらいまでに発売された物が多い。その頃、父は体調を崩し始めて職を辞めた。だから学生時代の私は存分にスネを囓れなかったし、社会に出てからも安月給で生活は苦しかった。そんな時期に、父はのうのうとカメラなど買いあさっていたわけだ。いまさらながら腹立たしい。
 その後、父は十年以上も入退院を繰り返した。最後には重い痴呆症状も現れて、手がつけられない様になった。それなりに蓄えてあったはずの老後の資金も尽き果て、財産らしきものは飾り戸棚にあったNikon F2一台きりだった。
 葬式が済んで、汚物とガラクタが天井まで積み上がる惨状を呈した父の部屋を少しずつ片づけ、やっと三ヶ月目に押入まで手が届くようになった。押入の中には鍵をかけたスチール製のロッカーがある。机の引き出しの奥に鍵束があったことを私は思い出した。その束の中に合う鍵があった。
 開けてみると、ギュウギュウにカメラが詰め込んであるのが見えた。それらは見た覚えのないものばかりだった。高級機もあるにはあるが、電子制御式のものが多くを占めているので、おそらくは動かない。機械式のカメラも黴にやられていたりで使えそうなものは少ない。
 それにしても私と趣味が違うと感じさせられた。私にとってカメラは使うためのものだ。父にとっては集めて秘蔵するものだったに違いない。国内各社の高級一眼レフが勢揃いしながらレンズは50ミリばかりが並んでいる。サードパーティー製の安いズームレンズが一本あったので、アダプターを付け替えて使い回すつもりだったのだろう。しかし、実際にフィルムなど詰めるのは一度きりではなかったろうか。ボディに入ったまま残されたフィルムを現像してみたら、最初の1コマしか写っていなかった。当時最新の電子カメラを手にして、一度だけでもシャッターを押せば満足してしまったのだろう。ペンタックスSFX、キャノンEOS1など、ほとんど使用感が無いままで残っているが、電池を入れても無駄になるだけだろう。レンジファインダーもあるが、動きそうなのはライカくらいだった。ライカは写真学校を出た姪に形見分けして、今は手元にない。
 さほどの期待もなく、私は父の部屋の整理を少しずつ続けていったのだが、父の百箇日の供養を済ませた日に思いもよらぬ大物を掘り当てることになる。
 ガラクタと成り果てたカメラの山を掻き分け、ついに最奥に手が届いたとき、ソフトケースにくるまれた謎の塊が見えた。そっと取り出して中を覗くと、黴防止剤と除湿剤とが見える。それらを取り除いて中を手で探ると、大きなレンズらしき丸い物の感触があった。無造作に掴んで取り出してみると……。
 それはハッセルブラッド500C/Mだった。私には今でも手が届かない、かつて中判の最高機種と呼ばれた逸品だ。私は自分の目を疑った。まるで昨日買ってきたかのように使用感がまったく無いうえ、黴も錆もない。マガジンを見ると、どうもフィルムが入ったままのようだった。まったく扱い方を知らぬ私は、そのままカメラごとプロラボに持っていってフィルムを取り出して貰い、現像に出した。やはり写っていたのは最初の1コマだけだった。
 そのプロラボの人に勧められ、銀座の輸入カメラ専門店までカメラを持っていって点検を依頼すると、いますぐ使うことが出来る状態だと太鼓判を押された。そこで注意されたことは、独特な扱い方を要求されるカメラなので、ちゃんとした相手に教えを請うようにということだった。その日はtenten撮影会にモデルとして登場する女優さんたちの演劇を見に行く予定で、いったんカメラを家に置いて芝居小屋へ行き、上演が終わって帰ろうとしたとき、アラジン先生が「よく来てくれた」と声をかけてくださった。
 自分でも図々しいとは思ったが、その機を逃さず私は形見のハッセルのことを打ち明け、操作について教えてくださるようお願いした。そして、その二日後のtenten撮影会でフィルムの詰め方や手持ちでの構え方など、基本から教えていただいた。
 いまの私にとって、中判を使うのもポジを使うのも技量的に無理だと自分でもわかっているが、さりとて手放してしまうと父に申し訳ない気がする。いまは無理でも少しずつ勉強して、いつかはハッセルを自在に扱えるようになりたいものだ。
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