各名門ブランド ピンボール・リスト

Capcom/1995

ピンボール・マジック

原題Pinball Magic
製作年度1995年
ブランド名カプコン
メーカーカプコン・コイン・オップ・インコーポレイテッド
スタッフデザイン:ブライアン・ハンセン、ロブ・ハータード/美術:ヒュー・ヴァン・ザンテン、ジェフ・ブッシュ/ドットアニメ:スコット・ピキュルスキ/メカニクス:マイケル・ジャーン、リック・モーガン/音楽:クリス・グランナー、ジェフ・パウエル/ソフトウェア:サミー・ゼアー
標準リプレイ点数
備考
▲プレイフィールド上部。マジックステッキを持つ巨大な手に存在感はあるが、ゲーム性に貢献するような使い方が出来ていない ▲プレイフィールド下部。7人のマジシャン達が描かれているが、個性もゲーム性も乏しく、ちっとも楽しくない
▲バックグラス。「ビッグバンバー」で評価されたスタン・フクオカではなく、美術担当はヒュー・ヴァン・ザンテンとジェフ・ブッシュとなっている ▲この右上のハビトレイル・シングルバンパー地帯が全く活かされていない。規定スイッチ数で様々なアウォードとかJPリットとか、何か思いつかなかったのだろうか
▲キックバックを担う中部左端3枚バンクスポットターゲット。アートの随所にパイソン・アンジェロの原案が感じられる。実際彼が初仕事のブライアンを全面サポートしていた ▲このマグナ仕掛けの空中浮遊演出の凡庸なことといったら。プレイヤーの意表をついてアッと言わせる他社製「シアターオブマジック」とは比較にも勝負にもならん

― COMMENTS ―
●僅かな期間でしたが、かつてカプコンブランドを掲げるメーカーがピンボールを開発・生産していた時期がありました(1995年6月〜1996年12月)。

 カプコン・コイン・オップ社……通称カプコンピンボールはU.S.A.カプコンの完全子会社として1995年6月に設立
 その後1年半の間に「ピンボールマジック('95/10)」「エアボーン('96/3)」「ブレイクショット('96/5)」「フリッパーフットボール('96/9)」といった4作ものオリジナルピンボールを発売。

 しかし業績と評判は芳しくなく、2作の試作機「ビッグバンバー」「キングピン」と2作の企画「レッドラインフィーバー」「ジンギービンギー」。計4機種のプランを頓挫させたまま倒産しました。

 時期的には'90年代半ばにおけるアーケードゲームブーム及び格闘ゲームブームの爛熟期。
 この時節のピンボール市場は、まるで共食いのような足の引っ張り合いと不良品の粗製濫造により、好景気から一転、坂を転げ落ちるような急転直下の零落に喘ぐ運命にありました。

 ゴットリーブやウィリアムスの消滅と並ぶ、ピンボール産業における不幸と業のひとつとして今も尚語り継がれています。


 U.S.A.カプコンにピンボール部門設立の企画が立案したのは1993年の3月

 それ以前にもU.S.A.カプコンは'90年代初頭、名門ゴットリーブピンボールプラント後継社プリミアテクノロジーを2500万$で買収しようとしましたが、プリミア側はこれを拒否しています。
 むしろプリミア社は近い時期、逆にカプコンからライセンス購入を行い「ストリートファイターU('93)」のピンボールを開発しているのも興味深いです。

 カプコンピン創立発起人3人の内のひとり、スティーヴ・ブラッツピーラーは実質カプコンコインオップ社のプレジデントの役割を担ってゆくことになります。

 来歴的にピンボール市場とは縁が薄いはずのカプコンでしたが、データイーストピンボールの世界的成功が華々しく顕揚されていたことと、更に当時はWMS社による2万台製造の「アダムスファミリー」や1万五千台製造の「トワイライトゾーン」など海外ピンボール市場がビデオゲームを猛追する程活況していた為、本家日本側カプコン社も出資にゴーサインを出しています。

 1994年3月15日。当初の社名であるゲームスター・インクが創立。しかしカプコンブランドであることを直言的に示した方が賢明と判断、直後カプコン・コイン・オップに社名変更
 処女作「ピンボールマジック」の随所に、星をかたどったゲームスター時代のトレードマークが残されているのはその名残り……というのはちょっとしたトリビア。

 しかし同社が歩んだのは、殆ど負け戦のような茨の道でした。

 ピンボール部門の開発スタッフを招聘するにあたり、カプコンは他社から人材をヘッドハント。
 「インディジョーンズ」のマーク・リッチーや「ピンボット」のパイソン・アンジェロ、プログラマーのビル・フッツェンローター、音楽家クリス・グランナー……といった最大手ウィリアムス社の中核を担う才人達を引き抜いた結果、その断行は執念深いウィリアムス社マネージンメンント達の逆鱗に触れてしまうことになりました。

 ウィリアムス側は訴訟を起こし、多方面からカプコンコインオップを裁判で徹底攻撃
 標的は会社のみならず、移籍したマーク・リッチーやパイソン・アンジェロ個人にまで及びました。

 その係争期間はというと、カプコンのピンボールファクトリーが回り始めるよりもずっと前の準備段階から早くも訴状が送りつけられ、倒産するまでの3年間もの長きに亘るまで徹底していたと言われています。
 この間、ピンボール市場はそれどころで無いような悪化の一途を辿っていたというのに!

 ウィリアムス社の執拗な法務攻撃により、同社が汎用しているフィールドデザイン、バンパー、フリッパー各装置の登用が難しくなった為、各仕様を一から作り直す必要性に迫られたカプコンは、完全に商品開発の出鼻を挫かれるスタートを切る憂き目に遭いました。

 そんな足枷の末に漸く完成した第一号機「ピンボールマジック」の完成度は低く、発売のタイミングもピンボール市場急落期である'95年10月。ピンボール部門立案から2年と7か月もの時間が経過しており、商機の時宜を完全に逸してしまいました

 本家日本側カプコンはピンボールマジックの出来の悪さと売り上げの低迷を憂慮し、2作目「エアボーン」以降の同社ピンボールの国内発売を見合わせることに。
 ゲーム性はかろうじて佳作の閾値だった3作目「ブレイクショット」も見た目は非常に地味で冴えないシングルレベルフィールド作。目立った注目を集める事にはなりませんでした。

 極めて苦しい運営を強いられたカプコンは、次作「ビッグバンバー」次々作「キングピン」の発売すら危ぶまれる窮状に陥ります。
 血迷った同社は世界市場を期待したサッカーテーマの時間制ピンボール「フリッパーフットボール」を拙速開発で急遽先行して発売に踏み切りますが、これが仇となり、従来のピンボールファンにすら見向きもされぬ惨憺たる結果を招きました。

 更にSブラッツピーラーはカプコンコインオップ倒産の噂を払拭しようと、U.S.A.セガ社プレジデントのアル・ストーンと強引にコンタクトを取り、
 “カプコンとセガ、ピンボール部門の合併を検討中”
 とプレス発表。勿論、独り相撲の勇み足です。

 これはセガピンボールのGMだったゲイリー・スターンにとっては極めて失敬かつ寝耳に水。

 親会社セガへ一方的に持ちかけた話が一応取り次がれただけのことであり、アル・ストーンは“これは単なる意図の表明であって、何の成約の成立でもない”とコメント。
 セガゲームワークス側やセガピンボールインク側に何のメリットがあるのやら?と初めから首を捻る業界人も多かったようです。

 そんな奔走や苦闘の果ての1996年12月9日。イリノイ州のアーリントンハイツ村にひっそりと建っていた赤レンガの工場カプコンコインオップファクトリーは閉鎖。同社は業界から姿を消しました


 こうしてカプコンコインオップの短命な歴史が幕を下ろした訳ですが、この後ろ暗いカプコンピンボールの負の伝説にはまだ続きがあります。

 カプコンコインオップ閉鎖から3年後、倉庫街の地主でローラースケート場のオーナーだったジーン・カニンガムイリノイピンボール社を設立。幻となったカプコンピンボール「ビッグバンバー」の生産と発売を行うことを宣言しました。

 マシンショーで誰も見向きもしなかった「フリッパーフットボール」とは対照的に、プロトタイプの「ビッグバンバー」の完成度の高さは語り草となっており、製造ラインに乗る直前でにカプコンが倒れたことを惜しむ声も大きかった。
 ……ならば自分がやろう!と、ピンボールのヘヴィーコレクターであったカニンガム氏が立ち上がった訳です。

 カプコンからビッグバンバーのプロトタイプ、部品、回路図を購入し、自身所有のローラースケート場の倉庫でファクトリー生産を計画。その製造資金も4500$を前払いさせるデポジット購入で賄いました。

 そして2007年夏になって、イリノイピンボール社リメイク版「ビッグバンバー」が完成
 元来おっとりしたお坊ちゃま気質だったカニンガムによる放漫経営は多くの人々に迷惑をかけてしまったようですが、最終的に彼は初志貫徹・有言実行を遂げた訳です。

 しかし4500$で募ったデポジット代金に対し、原価は実質7200$かかっており、ある程度覚悟していたとはいえイリノイピンボール社は大きな損益を被ることに。

 更に不運なことに、カニンガム自宅兼工場にあったトラックバッテリーの充電コードが老朽化により発火、あろうことかビッグバンバーの貴重な在庫や回路図を、カニンガムの自宅もろとも焼失するという、目を覆うような災難にまで見舞われています。
 焼失した資産やコレクションの中には、悲しいことに貴重なヴィンテージピンボールの数々や、かの「キングピン」試作機も含まれていました。

 2013年にジーン・カニンガムは破産、2019年11月に他界しています。


 どうもピンボールファンの脛の傷が痛むような不幸ばかりがまとわりつくカプコンピンボール奇談ですが、何も悪い評判ばかりだったという訳ではありません。

 「ピンボールマジック」「ブレイクショット」の故障の少なさは特筆に値したし、会社や工場施設内及びファクトリーの清潔さと安全性の重視、効率性の高さはゲームメーカーとして高水準。
 特に従業員の福利厚生の充実と製造・開発機器類の最先端及び高品質ぶりには、さすがは日本が資本のメーカーだった……とかつての社員達は今も礼讃を惜しみません。

 また、ビッグバンバーの次作「キングピン」が2018年、サーカスマキシムスゲームズ社によりリメイクされました。
 これは故ジーン・カニンガムからカプコンピンボール商品や回路図などの権利を買い取っていたプラネタリーピンボールサプライ社とマーク・リッチーの協力を経て、LCD仕様の最先端ピンボール筐体として再構築したもの。
 今日そのゲーム性の高さが改めて脚光を浴びています。

 また、「アタックフロムマーズ」や「モンスターバッシュ」のリメイク製造を成し遂げ、コレクターからも高く評価されているシカゴゲーミング社が、ビッグバンバーの再リメイクを検討中との噂も流れています。

 '90年代のピンボール業界の汚点だったカプコンピンボールは、今になってその功労が再評価されつつあるのです。


 さて、前置きが長くなりましたが本題「ピンボールマジック」について。
 残念ながらそのゲーム性は水準にも届かぬ、お粗末な駄作でした。

 当時デヴィッド・カッパーフィールドやプリンセステンコーが本国で圧倒的な人気を博していた時節だったこともあり、美貌の女流マジシャン率いる手品師軍団との戦い及びそのマジックがテーマとなっています。

 しかし、打ち心地が悪くスカッとしないプレイフィールド及び魅力的な目標が見当たらないレイアウトに、プレイヤーのモチベーションは一向に上がらず。
 殊に連続叩き返し不能でアンバランスなループレーンの気持ち悪さ、及び左ランプレーンのつまらなさとその近辺のデッドスペースは、失策としか言いようが無し。

 6人のマジシャンを倒して女リーダーのマトラに挑む……というストーリーラインが敷かれてはいるものの、その戦いは点滅箇所を1回か2回、通すか当てるかして、なけなしのスコアが入るだけで終了。
 これじゃ家庭用のおもちゃみたいな素人レベルのルール編成。ドラマやスリルを全く表現出来ていません。

 しかも、プレイヤーに立ちはだかるマジシャン面々の個性と魅力の乏しいことといったら。
 フランス系はMr.ミスティック、中東系は自然を司るジャドゥガー……とマジシャン達のキャラクター付けがあるようなのですが、後から入手した資料を読んでやっと気づいたくらい。ゲーム上では個性やドラマツルギーを全く表現出来ていないのです。

 “地味すぎる。ピンボールの特訓をさせられているような一本道フィーチャー”
 とは、当時当サークル人気投票ワースト部門に寄せられた評。『ピンボールの特訓』とは全く言い得て妙ですわ。

 見せ場となるボールロックとマルチボールも、非常に鈍麻で単調。

 ボールロック箇所である、なんの面白味のない慎ましいマジックトランクにボールが入ると、素早くボールロック判定ができずに暫くシーンと謎の沈黙をする処理ののろさは一体!?
 そしてマルチ時の稼ぎ処はランプレーンで取れる平凡なジャックポットが1本だけ。
 ……いやもっと多段階フェーズで据えるべきいくつもの行程があって然るべきでしょうに。ダブルジャックポットとかスーパージャックポットとかアドアボールとか。はっきりいって退屈!

 音楽・サウンドの使い方にも首を捻りました。BGMが殆ど聴き取れないのですよ。

 ……いやいや、サウンドボリュームはむしろ大きいくらいの店ではスキルショット成功やマルチスタート等々、サウンドエフェクトやファンファーレは大音量。
 ところがメインBGMは極端に音量レベルが小さく設定してあって、スピーカーに耳を引っ付けないと聞こえない。なにこれ?

 どうやら他社の大成作「アダムスファミリー」の、音楽よりヴォイスと効果音を大き目に強調したサウンド構成を倣ったようなのですが、その大小があまりにも極端過ぎる為、プレイヤーのテンションを盛り下げる逆効果を招いています。
 せっかくウィリアムスから引き抜いたピンボールミュージックの大家クリス・グランナーの意匠が台無しになっています。

 加えるに同時期、かの因縁のWMS社は同じくマジックをテーマとしたブロックバスター作「シアター・オブ・マジック('95/3)」を発表。

 プレイヤーの錯覚を巧く利用して、意表をついて瞬時にボールを消し去ったり、予測できぬ箇所から地下通路が突如飛び出したりする華麗且つ蠱惑的なイリュージョンギミックの数々は、「ピンボールマジック」における、見え透いた磁石仕掛けをのろのろと曝け出す凡庸なカプコンピンボールの存在感をあっけなく吹き飛ばしました。


 当然、'95年当時日本での稼働や評価ぶりも芳しくありません。

 世はピンボール市場零落期。売れ残った台を大手のカプコンから仕方なく買わされたオペレーターが、格闘ゲームラインナップ一辺倒のこぶりの店舗に、やむを得ず押し込むように設置。
 メンテ放棄で状態が悪化してゆくピンボールマジックの場違いな姿は、ピンボールプレイヤーからの憐みを誘いました。

 なんと箱から出した新品入荷時のキャプティヴボール部分にあった梱包時の緩衝用スポンジを取り去らず、付いたままで稼働させられていた台も有り、メンテナンスが出来るどころか、ピンボールに全く暗愚で無関心な店舗でたらい回しの末路を辿った惨状が窺えます。

 キャプティヴと言えばお約束、店員の中にはキャプティヴのボールを抜き取る馬鹿も各地あちこちに沸いて出るゆゆしき事態も頻発。

 キャプティヴボール抜き取りを指摘して直すよう店側に進言しても、そいつはハナから聞く気などなく、
 “そんなものは無い、最初からこうだった”
 と言い張り、マニュアル確認すらせずとぼけ通そうとする従業員。
 しかし筆者の場合、ピンボールマジックの正常なキャプティヴボールの写真を撮っていたので、携行していた証拠写真をその店員に突き付け、
 “じゃコレは何?テストレポートのチェックすら一度もしてないよね?運営元本社の部長さんに貴方の名前出して『迷惑かけられた』ってファックスしてもいいんだよ?”
 と毅然と断罪。責任を取らせ、きちんとキャプティヴボールを戻し、無事ピンボールマジックを遊べるよう剔抉を下していましたが、そこまでやるのはやはり私ぐらいのもの。

 “ウチの地元で唯一置いてある店のピンマジではキャプティヴBが店員に抜かれてて、ゲームが進まずまともに遊べないです……”
 とこぼすプレイヤーも実際にいらっしゃいました。やれやれ……。

 おまけに、雑誌ゲーメストの編集者が
 “カプコンのピンボールと言えば「ストリートファイターU」があったが、それ以来ヒソカに続々と新製品を出していた”
 ……などと、調べのひとつもしないで滅茶苦茶な記事を書き散らした、目も当てられぬ誤謬を発信。
 ピンボーラー達の間では臍で茶が沸く噴飯を誘っており、同誌の馬脚と見識の低さを露呈させる恰好の笑い種となりました。


 こうしてカプコンピンボール処女作「ピンボールマジック」は大きな躓きとなり、門出から完全に出鼻をくじかれた訳ですが、本作のデザイナーはピンボール業界でも駆け出しの新人だったブライアン・ハンセン

 ゲームデザイナーとしては菲才と言わざるを得ませんが、新生カプコンピンに迎えられる理由のある、それなりの来歴と業界への功労があった人物だったようです。
 しかも、“本職としてマジシャンをしていたことがある”なんて。
 一瞬ふざけてるのかと思いましたが、アイデンティティーを分析すると、なるほど、と腑に落ちることもいくつか。


 ブライアン・ハンセンは1960年12月20日、イリノイ州シカゴシティー生まれ。

 幼少期から夢中だった手品技術の修得に独学で没頭していた彼は、高校時代に学園でのイベントでステージマジックをご披露。
 そのアマチュアとは思えぬ演出の高さと腕の確かさに、“えっここの高校生!?ハリウッドかニューヨークから来た本場のアーティストかと思った”と観客から喝采を浴び、ブライアンは十分な手応えと矜持を身に着けます。
 1979年にフォレストヴュー高校を卒業すると、プロの手品師を目指して7年制のマジックスクールへ入校。そのままマジシャンとしてプロデビューするはずでした。

 ところが、中学時代の夏休みに叔父が勤めていたウェスタンオートマチックミュージック社(ジュークボックス販売代理店として1937年創業のシカゴローカルのコインマシンディストリビューター、通称WAMI、現存)で叔父と父の仕事を手伝ったことがきっかけでコインマシン産業にも大きく魅了されてしまいます。

 最初に彼が担わされたのは、店舗でのピンボールやビデオゲームの設置・搬入・搬出、店舗内の清掃、接客対応程度でしたが、活況に賑わう華やかなロケーションの空気に強く惹かれてゆきます。

 元来の手先の器用さもあってメカニックとしての才能も開花。更に地域の客層・地域のニーズを分析して店舗展開するオペレーターとしても才覚を発揮。

 アーケードロケーションの運営は、マジック興行の才能との共通点が少なからずあったのかも知れません。

 結局、1979年よりWAMI社へ正規雇用され、フルタイムで勤めることに。主な仕事はピンボールの設営、管理、修理、パーツ手配、不良品や誤作動の修繕。
 将来の目標は、一流のマジシャンからピンボールのデザイナーへ……と目移りしてしまいました。

 そんな日々を送る中、あるシカゴのロケーションでビル・パーカーパイソン・アンジェロに巡り合う人脈と幸運に恵まれます。
 3人は忽ち意気投合し、お互いの専門分野がそれぞれ薫陶をもたらし切磋琢磨を積んだ末、ビル・パーカーの自宅ガレージで共作したオリジナルピンボールが完成。

 その試作台を当初ウィリアムス社に持ち込み製品化のアピールをしたものの、残念ながら結果は不採用。
 しかし能天気でパワフル、更に営業トークが巧みでディズニースタジオのアニメーター出身という、全身から才気が走るパイソン・アンジェロは、この時にウィリアムスへの入社を叶えています。

 パイソンはその後「コメット('85)」「ハイスピード('85)」「ピンボット('86)」といったウィリアムスピンボールのヒット作の開発に関わってゆくことになりますが、ブライアンとビルのピンボールデザイナーデビューへの夢はここで一旦途絶えてしまいます。

 しかしパイソン・アンジェロは当時の友情を後年になっても決して忘れておらず、ブライアンをカプコンピンボールのデザイナーとして迎え入れただけではく、友人関係にあったプリミア社社長ギル・ポロックにビル・パーカーを推挙します。

 こうして完成したのがブライアン・ハンセンの「ピンボールマジック」と、ビル・パーカーの「レスキュー911」だったのです。


 前述のようにピンボールマジックは商品としても作品としても良い結果は残せませんでしたが、ブライアン・ハンセンは現在もピンボールメーカーのエンジニアとして現役で活躍中。

 2010年代に入ってからはジャージージャック社「オズの魔法使い('13)」でメカニクスを担当。
 バックパネルでのボール空中浮遊やカラフルな水晶ライティングは、正にピンボールマジックからの血を引く、彼ならではの演出。

 最近ではアメリカンピンボール社製大型リデンプション筐体「フライングダッチマン」をブライアンが完成させた……との一報も届いています。
 ピンボールマジック美術担当のひとりジェフ・ブッシュに至っては、アメピ製超個性派ピンボール「オクトーバーフェスト('19)」のアートワークを一手に担うという、頼もしい才覚ぶりを発揮中。

 もしかしたら近い将来、ブライアン・ハンセンとジェフ・ブッシュのコンビがデザインした25年,30年越しのピンボールが、アメリカンピンボール社から登場!なんて日も、そう遠くないことかも知れませんね。



▲左ランプレーン及びその入り口付近。左フリッパー根本からのバックハンドでもスッと通るフリッパー打力の強さは買う ▲フィールド全景。左上ランプレーン及びキャプティヴレーン高架下がデッドスペースになってしまっている ▲このゲームで唯一面白いのがシルクハットのスキルショット。プランジャー加減でうまくボールを放り込めた時は気持ちがいい
▲処理ののろいボールロックトランクとゲーム性に乏しいキックアウトスクープ。どちらにも狙う魅力が欠けている ▲キャプティヴボール。存在感はあるが、ヒットしてヴァリューが進むだけで他のフィーチャーと噛み合いが乏しく、生きていない ▲ボースフリッパー操作でステッキからボールを落とさせてうまく嵌っても、何の快感も特典もない2つの大口ホール。
▲左アウトレーンには至極普通のキックバックあり。 ▲まるでアダムスのハンド君のようなステッキハンド。軸の弧を描くように左右にボールコースを振り分ける ▲右アウトレーン近辺。お疲れ様でした。

(2020年2月11日)