ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆シカゴコイン社/Chicago Coin Machine Manufacturing Company/1932〜1977

 シカゴコインは'30年代最大手のひとつであるゲンコ社の、公私共々弟分といえるメーカー。創始者はそのゲンコ社ゲンズバーグファミリーの末っ子、サム・ゲンズバーグ
 法律による弾圧や不況期を耐え抜いて'70年代を迎え、ウィリアムス社のマネージメントをしていた敏腕経営者サム・スターンがファクトリーを継承。それをも含めるとバリーやゴットリーブと比肩して半世紀以上もの間プラントを回していた、ピンボール産業の功労社である。
スターンエレクトロニクス社'80年製「クイックシルヴァー」解説参照

― 解説 ―
 '30年代当時のシカゴコイン社最大のヒット作は「ビームライト('35/3)」
 同社初の電飾フィールドモデルで、戦況に呼応してカラフルなライトが明滅する演出は当時大評判となった。

 「ビームライト」の高いゲーム性はシカゴコイン創業者サム・ゲンズバーグの実の兄貴たちゲンコファミリーによる「クリスクロス('34)」がベースであったが、電飾のアイディアは実のところグレイトステイツ工業社'32年製「フラッシュボール」がインスパイア元。

 このフラッシュボールこそ盤面電球初搭載モデルだったが、ゲーム性の奏功には今一つだった上、無名メーカーの小規模製造だったゆえに埋もれてしまう。

 しかしコレに目を付けたのがサム・ゲンズバーグで、自ら設計デザインを手掛けて「ビームライト」の大ヒット作を生み出した。
 尚カラフルで鮮やかな各電球カバーは当時どうしてたかと言うと、獣医薬局で見つけた馬用カプセルを転用して被せたそうだ。

 一方バリー社もこれら他社の動向をめざとく察知、同社発の盤面電飾台として「スカイスクレイパー('34/12)」を発表していた。
 外部から招聘したエンジニアであるエドワード・J・ウォールフェルドのデザインにより、高層ビルの窓に灯りがともってゆくのに見立てた電飾演出は業界を席捲した。

 これら「ビームライト」「スカイスクレイパー」以後、盤面の電球による戦況の教示と演出は、ピンボール界のスタンダードとなったのである。


 ピンボールマシンのフィールドライトアップに関しては興味深い逸話がたくさんある。

 ネオン官が一本通っていただけのR&H社製のシンプルな台「フラッシュ('32/11)」はピンボールゲーム自体が非電源のピュアメカ仕様だったこともあり、さほど話題にならなかった。

 サイエンティフィックマシン社マックス・D・リヴァインが、のちにイグジビット社ゴットリーブ社で辣腕を振るう事となる発明家ジャック・ファイヤーストーンと、アイアンクローマシーンの元祖“パナマディッガー”の発明者オーギュスト・シュラッグと共に、初のフィールドライトアップ筐体「ライトハウス('34/4)」を発表したが、使い方がまだ地味すぎたようで大きな話題にはならなかった。

 '32年の「フラッシュボール」、'32年「フラッシュ」、'34年「ライトハウス」はどれもゲーム戦況との呼応は乏しかったが、初期のライトアップ仕様ピンボールの元祖ではある。

 また『パナマディッガーの発明』というのが実はとても興味深く、これは“アイアンクローマシーン”、今でいうクレーンゲームの元祖にあたるもの。

 パナマ運河建設に沸いた20世紀初頭のアメリカでは、新聞報道などで大々的に写真が掲載されたショベルカーがヒーロー扱い。それにあやかって鉄の爪でキャンディーを掬うコインマシン「パナマ・ディッガー」をオーギュスト・シュラッグが発明、コピー製品が大量に出回るほどの大人気となった。

 中には硬貨やお札、つまり現ナマを掬う「マイアミ・ディッガー('32)」を製造、パテント取得まで遂げて大成を収めたウィリアム・バートレットなる人物もいた。


― 翻訳執筆中パートメモ書きにつき飛ばし読み推奨 ―
シカゴコインになる直前のシカゴコインマシンエクスチェンジが、ストナーのガレージ制作「アリストクラット」をふぁくりー委託製造した際、バーミンガム・ヴぇンディング社にそっくりコピー盗作されたことがあった。1933年6月のことだった。1933年シカゴのマシンショーで発表されたアリストクラットを、バーミンガムがコピーキャットしたのだった。下手人はバーミンガム社マックス・ハーヴィッチとハリー・ハーヴィッチ。これに怒ったストナーと社名を新たにしたシカゴコイン側は結託して販売指し止め命令の鉄槌を食らわした。 シカゴコインはストナーと共同でバーミンガムヴェンディング社を相手取って訴訟を起こした。 侵害の事実は明らかで判決も俄然彼らに有利なものに。1934年1月5日。アリストクラットシリーズのゲーム侵害差止命令が永久に続くことになったというニュースが伝えられた。この訴訟を起こしたのは、「アリストクラット」の製造元であるシカゴ・コインマシン・カンパニーとオーロラのストーナー・マニュファクチャリング・コーポレーション。 この2社にも損害賠償が認められた。これにてハーヴィッチ兄弟はピンボール産業から完全に撤退。しかしその後コイン・ビリヤード事業に転向。こちらのジャンルで一旗揚げたという。



(最終更新日2019年8月26日)