ピンボール黎明期の創始者たち

1930年代勃興期の開拓者達

◆ヨハイオ工業/オートマチック・インダストリーズ社/Yohio Manufacturing Company/Automatic Industries Incorporated/1931〜1936

 オハイオ州の田舎町ヤングスタウンを拠点としたヨハイオ工業/オートマチックインダストリーズ社は、ピンボール産業大勃興の1年ほど前に大工、薬屋、電気屋3人組のお父さん達がのんびり始めた、至極初期のローカル・ピンゲームメーカー。
 昔からありふれたバガテルボードの復刻に始まり、次にコインマシン化したテスト台をドラッグストア設置。次に10台製造、更に100台製造……とゆっくり規模を拡大。
 しかしシカゴの目敏い海千山千コインマシンメーカー達にみつかり、5分の1のプライスで高性能マシンを量産する手練れの大手達にあっという間に追い抜かれ、忽ち存在感を失ってしまった。
 しばらくは田舎者の成り上がりとしてピンボール史上ぞんざいに扱われていたが、近年では真の'30年代ピンボールブームの発祥メーカーとして再評価されつつある。

― 解説 ―
 ピンボール産業の揺籃期において、初めてファクトリー化や商品パブリシティーを完全に確立したのはバリー社製「バリーフー('32)」である。
 また、ボールを使ったガンゲームやミニビリヤード、コインマシンバガテルなど、十把一絡げにマーブルゲームと括られていたコインオペ筐体を一挙にピンボールの一ジャンルへ洗練させたのは、ゴットリーブ社の「バッフルボール('31)」である。

 どんなにピンボール史を慎重に俯瞰しても、その史実は今後も揺らぐことはないだろう。

 しかし、バリーフーの手本となったバッフルボールには、前身となったコインマシンマーブルゲーム「ビンゴ」があり、そのビンゴにも「ホイッフル」を手本にした別機種が存在する。
 
 創業3代目、且つミルズノヴェルティー社設立2代目社長であるフレッド・ミルズは後の特許裁判で、バッフルボール発売の半年以上前にホイッフルとその亜流によるピンボールブームの兆しが市場でくすぶっていたことを証言しているし、ミルズ以外の大手ピンボールメーカー13社も協定を結び“ホイッフル発明者に十分な使用料を払うべきだ”と結論づけ、一時的に折衝しようとしていた。

 これほどにまで業界の賛同を得ていたにもかかわらず、「ホイッフル」開発者達の経営や判断力、及び製造や販売は素人同然で、2年ともたずに管財人の手に落ち、消滅している。

 ホイッフルの原盤は1930年のクリスマスに、極めてローカルな一介の大工の家庭で生まれている。これがご近所レベルの評判からオハイオ州の町ヤングスタウンじゅうのブームへと波及する。

 電気製品店部長やドラッグストアオーナーなどの出資者が揃ってヨハイオ工業社を立ち上げ、工場も竣成してオートマチックインダストリーズ社となり、「ホイッフル」シリーズの生産を開始。

 しかしのどかなオハイオ州の田舎町出自の素人経営が、工業大都市シカゴの怪物揃いなコインマシンメーカー達に敵うはずもなく、浅はかな特許取得戦略も失敗。

 果たしてピンボール史における「ホイッフル」は、真の元祖たる偉大な発明だったのか。それとも片田舎から出てきた山師どもの単なるあがきだったのか―――。



 話は1930年12月の初週から始まる。

 35歳のアーサー.L.ポーリンオハイオ州ヤングスタウン市郊外の農村ポーランド村に住む平凡な男だが、妻と幼い娘もいるいっぱしの大工だ。

 しかしくだんの大恐慌はこの田舎町をも襲い、村の製鉄工場が閉鎖。そして彼から大工の仕事をも容赦なく奪っていた。

 それでも根は真面目なアーサーは閑居しても不善を成すことはなく、昔からある自宅の納屋の掃除を始めることにした。
 薪の代わりぐらいになれば……と、出てきた不用品を次々に燃やしていたところ、納屋の奥に埃だらけのゲーム盤が眠っていることに気付く。

 それは50年以上は経っていると思われる、子供用のホームバガテルボードだった。

 入賞の穴が穿たれ、30本程のピン、つまり障害物として釘が盤面に打たれている。
 彼はそのボードの諧謔あふれる外観と不思議さに魅了され、黴臭いにもかかわらず、この古びたゲーム盤を燃やすことが出来ない。

 数日間しばし眺めているうち、やがて閃いた。そうだ俺は大工じゃないか。クリスマスも近い。金は無いけど、俺には時間と材料と腕前はある。娘にこれと同じゲームを新しく作ってプレゼントしてやろう!

 アーサーは早速手慣れた腕で新台を切り始めた。
 レーンを敷き、真鍮製のピンをフィールドの進路妨害としてめいっぱい打ち、入賞ホールの穴を空け、指でつまんで打てるプランジャーも付けた。
 『どうだ、50年前のおもちゃよりサイズもゲームルールもスケールアップしたぞ!』
 完成したゲーム盤は本職の手による立派なもの。彼はそのゲーム盤を「オールド・ジェニー」と名付けた。

 もちろんゲーム盤をプレゼントされた愛娘のロイス・ポーリンは大喜び。

 ボールの行方に一喜一憂。湧き上がる子供たちの歓声。彼女は友達を招いてみんなで遊ぶうちに評判が評判を呼び、なんとポーリンの家に子供らの行列ができるまでになってしまった。

 『これは儲かるぞ、仕事にありつける!』

 自信を持ったアーサーはヤングスタウン中心地のドラッグストアに話をつけ、店のシガーカウンターに両替機と一緒にゲーム盤を設置してもらった。
 まだコインスロットはなく、硬貨を従業員に手払いして遊ぶシステムだったが、この不況期に手軽に遊べる娯楽として大変な評判に。
 ストアのオーナー マイル.A.パークの食いつきも十二分で、収益に潤うだけでなく店主までもがゲームに夢中になっていく。

 そこへホイッフル第3の男、且つ実質的発明者で創業者となるアール.W.フルームが登場する。

 フルームはそのストアへ葉巻をしょっちゅう買いに来ていたカール・ポップ電気製品会社の営業部長で、彼もそのゲーム盤のとりことなった。
 フルームは口にくわえた葉巻に火をつけるのを忘れるくらいゲームに熱中し、一段落ついてからくわえたままの葉巻に気付き、シガーカウンター備え付けコイン式ミニチュアガスポンプに1¢硬貨を入れ、葉巻に火をつけてはまたプレイに興じた。携帯用ジッポーライターが登場するより数年前の話だ。

 大工のポーリン、薬屋店主パーク、電気屋部長フルーム。そんな3人が度々顔を合わせるうち、自然と
『これデカい商売に出来ねえかな』
 と気安く商談めいた会話を交わすようになる。
 店主パークは当初商品化やビジネス化に懐疑的だったが、フルームがゲーム盤とコインガスポンプを往復する様子を見て、“そうだ、コインシュート装置を備えれば儲かるじゃないか”と提案した。

 それがいい!と3人の意見が一致。ビジネス化と3人の協力関係がこの瞬間から組まれることになる。
 以降、ホイッフルの主導権を握ったのは営業マン気質、且つメカにも強い電気屋部長アール・フルームだ。

 フルームはその日のうちに原盤を脇に抱えて持ち帰り、自宅の作業場で独り製品の開発を始めた。

 先ずゲーム盤にガラスカバーを嵌めてボールの紛失を防いだ。
 それからボールリターンとボールリセットを考案した。
 シューターにボールを戻せるよう、角度と穴が絶妙に設計された車輪を取り付けてボールをシューターに転送させられるようにした。
 ボールリフトも、プランジャーのノブも、角材のレグまでも取り付けた。

 硬貨1枚のシュートにつき、きちんと前回ゲーム終了時のボールがリセットされ、新たな10ボールがセッティングされる。
 1901年製ケイリー兄弟社「ログキャビン」でかなえられなかった難題を、この時点でフルームが自家製で解決している。

 尚、10個のボールの中には1個だけ赤いボールが混ざっている。これは逆転チャンスのダブルスコアボールというルールだった。

 彼は1930年のクリスマスの頃には枠組みの設計を済ませ、1931年1月中旬に早くも仕上がったそのピンボールを一度は店頭に出したものの、メカニクスに誤作動が目立った為、すぐに持ち帰って修繕。

 そして数日後に完成した商品が、オリジナルの「ホイッフル」だった。

 5¢硬貨をプッシュロッドで挿入して、10個のボールがリセット&スタンバイ。
 プランジャーで打ち出すと球はシューターレーンからプレイフィールドへ爽快にすっ飛んでゆく。
 やがて無数に打たれた障害物ピンによってあらぬ方向へ跳ね回り、様々用意された魅惑の得点ホールインを願うが、大抵は無得点の底辺へと沈む。
 入賞への期待に輝いていたプレイヤーの顔は暗転、意気消沈。えぇい、もう1回だ!

 そのホイッフル初号機をドラッグストアのカウンターに置いたところ、たったの1時間で忽ち2$60¢もの売り上げを叩き出した。ほぼ1分につき1プレイの計算だ。この驚愕の結果に3人の顔色は気色ばんだ。

 『これと同じ機種を10台作ろう!』

 こうしてヨハイオ工業社の操業が始まった。

 創始者3人が1人300$ずつ資金を出し合い、レーヴェンズウッドアヴェニューとサザンブールヴァード角にある小屋がオフィス及び作業場となった。
 更にホイッフル第4の男として経理担当のウィリアム.B.ハウエルが加わり、ホイッフルの製造を開始した。1931年1月末のことである。
 職のあったはずのフルームも、この商売は絶対に当たると確信し、大恐慌真っただ中にもかかわらず元居た電気製品会社を辞めている。

 10台製造プランが成功して即座に完売すると、更なる100台製造計画が持ち上がる。

 この時点でやっとフルームたちはコインマシン産業の巨大な全容を把握し、存在すら知らなかったコインマシンショーや業界誌を意識し、サプライチェーンを理解して安価な部品調達経路も習得する。

 '31年3月15日、フォレストアヴェニュー南51番地のビルに入居、多くの従業員や工員を雇用し、量産体制に入った。4月18日には初号機に基づいたパテント申請も提出した。

 尚、当初オールドジェニーだった商品名が「ホイッフル」に変わったのはアール・フルームのアイディア。ピンからピンに球が跳ね回る気まぐれなイメージにぴったりだから……とこちらを正式名にした。

 最初に売れた10台の人気が人気を呼び、すぐヨハイオ社へ大量のホイッフルのオーダーが舞い込んだ。

 5月にはコインシュートを補正し、6月にはキャビネットを変更。6月15日には高級キャビネット版「デラックス・ホイッフル」を発表。
 シニア版も相変わらず好評で、メカニクスもデザインも絶えず改良を重ねながら年末まで生産が続いた。

 この時コインマシン最大手ミルズノヴェルティー社オハイオ支店のセールスマンが、「ホイッフル」というマーブルゲームが一部の地域だけで極端に売れている状況を社長のフレッド・ミルズに報告している。

 9月には地元の新聞記者に、アール・フルームは自社の活況を昂然と語った。

 『今俺たちは大きな事業を展開している真っ最中なんだ。店の裏手に2階建て社屋を増築していて、オフィスも新しいところに移設した。53人の工員と11人の事務員と2人のOLを雇用している。新社屋が完成したらもう60人採用する。注文が殺到して人手が全然足りないんだ。国中の販売代理店と契約済みで、当社のホイッフルボードは全国に向けて出荷される!もうこれ夢なんじゃないか、って自分の頬っぺたをつねりたい気分だよ!』

 しかし、彼らの隆盛はここまで。やがて歯車が狂い始める。


 暗転への最初の前兆は、ポーリンとフルームを発明者として、シリアル番号528,474、1931年4月18日付けで請願したホイッフルのパテントが、半年以上経った1931年11月31日付けで不受理として突き返されたこと。その綻びから瓦解が始まった。

 パテント却下理由は不明だが、コインマシン特許に不慣れな彼らの素人書類に不備があったことは想像に難くない。

 初号ホイッフルのパテント確保をよすがに会社を回していた彼らは慌ててヨハイオ社を解体。
 新会社オートマチック・インダストリーズを立ち上げ、資金も規模もスケールアップ。海外にも進出し、カナダ支店、イギリス支店をも立ち上げた。
 特許申請も問題点を修正し、最新版ホイッフルに沿った内容で修正特許出願を済ませ、祈るように受理を心待ちにした。

 地元オペレーターへ各10台程度だった卸し数も、一か所100台もの目標を掲げた。
 資金の膨れ上がった新会社で挽回しようと背伸びした受注生産を引き受け始めるが、フォレストアヴェニューの工房ではパンク状態。
 地元や他州での下請け生産を試みたものの、経験不足が祟って上手く管掌することが出来ない。

 加えるに、初号版と改良版のホイッフル。初号版センターシャトル・プッシュロッド・ボールリターンのメカニクスの特許はパテント取得失敗により空席状態。コピー品対策も無防備の丸腰でライバルメーカーと戦う羽目になった

 “オートマチックインダストリーズのホイッフル”、と社名も商品名も堂々と騙った粗悪なコピー品も地元オハイオで大量に出回り始めた。

 ニセモノ野郎を見つける度にフルーム達は製造販売指し止め命令を裁判所に要請。その指し止め処分が降りた頃に突撃しても偽物工場はもぬけの殻。しかもそんなならず者は1社や2社どころではない。

 結局ヤングスタウンシティだけで偽物業者は88人にものぼったという。これではまるでいたちごっこ、きりがない。

 更に頭の痛いことに、特許取得失敗によりホイッフルと同じメカニクスを用いながらもプレイフィールドデザインやゲーム名を刷新してしまえば、もう偽物業者にはあたらない
 そんなフルーム達の失策につけこんだ“パブリック・ホイッフル・メカ”を搭載した魅力的な力作や新作が、他の地域や他社から続々と市場に出回り始めていった。


 そんなバッフルボール以前、且つ二次ホイッフルメカニクス製品の中で、最も重要で着目すべき1台は「ロール・ア・ボール」だった。

 ユダヤ人チャールズ.R.チゼワーが手掛けたこの機種も、実に奇妙な運命を経てこの世に誕生している。

 1931年。シカゴシティでコインオペ握力測定器「ヘラクレス」を主力商品としていたヘラクレス・ノヴェルティー社代表兼技術者のチャールズ・チゼワーの元に、ある業者からマーブルゲームコインマシンの設計と製造依頼が舞い込んだ。
 それはかのホイッフルと同工の、ボールリフトやプッシュロッドボールリセット装置を備え、尚且つ「プレイ・スリーズ」という、モダン・ゲームズ・アンド・ノヴェルティー社1928年製バガテルボードのプレイフィールドを真似たものだった。

 チゼワーはポーランド移民のユダヤ人で、元々腕前のいい錠前師だった。

 ワルシャワのユダヤ社会を倦厭して1916年にシカゴへ移ると、そこで自ら鍵と錠前の工房を立ち上げた。自ら発明もすることもあれば、依頼があれば委託製造をも請け負っていた。

 ただ、ヘラクレス社を設立したのは成り行きで、飽くまで錠前屋職人のチゼワーはコインマシン業界参入に関してあまり乗り気でなかったという。

 同社コインマシン第1号機のグリップテスター「ヘラクレス」も、自分自身の開発製品ではない。

 1920年代後半頃、信用していた大口顧客からグリップテスターの製造を受注して250個仕上げた矢先、相手方は今更になって自社で製造することになったと言い出し、契約を反故。
 脇の甘いあやふやな約束の隙を突かれた自分の瑕疵とは言え、抱える250個の商品在庫をどうすべきか。
 それらを売り捌いて損失を埋めるべくチゼワーが設立したコインオペ会社が、ヘラクレス・ノヴェルティー社だった。

 時間軸が前後したが話を1931年に戻そう。

 今やピンボールブーム発火寸前のこの時節に引き受けた受注―――ピンと、ボールと、傾斜ボードによる、コインオペゲームの受託製造

 元の企画や設計書も十分優れており、ガラスカバーもボールトラップ機能もボールリターン&リセット構造もホイッフルを踏襲している。その上高得点で景品コインを払い出す画期的な機能が付加されていた。
 チゼワーがこの企画の設計書通りにサンプル品を完成させた矢先、今度は依頼主が債務不履行に陥り、支払いを焦げ付かせてしまう。

 仕方なく今回もチゼワーはその機種にオリジナルのアイディアを加えて改良し、自社製品コインマシンとして売ることを決めた。
 それが「ロール・ア・ボール」1931年4月のことである。

 同月にはサンプル台のロケテストを行い、5月にはパブリシティーを開始して発売を宣言。
 6月には5¢硬貨ニッケルモデル5ボール制だったコインシュート機能をペニーモデルに改良し、1¢硬貨5ボール制に再設計
 景品コイン払い出し機能を別売りオプションの+3.25$として、本体価格を僅か16$50¢に抑えた

 ホイッフルで言うと、本体価格は100$、1ゲーム料金は5¢だ。

 プレイ料金と本体価格両方を大幅に抑えたこの功労とインパクトは大きい。自分の工房を持つ機械工のチゼワーからすればお手の物だったのだろう。

 チゼワーはついでにとばかりに、もう一機種のピンゲーム「エース・イズ・ハイ」を開発。
 1931年の秋、この2機種は十二分なセールスを獲得し、コインマシン業界に更なるピンボール旋風を巻き起こしてゆく。


 その「ロール・ア・ボール」の人気を目の当たりにし、無許諾コピー量産で売り捌こうとした別口の輩が、ネイサン・ロビンという老獪なスロット修理屋だった。

 彼も第一次世界大戦前からシカゴにやってきていたユダヤ人。絵描きを目指していたがメカにも強いロビンは1920年代半ば頃、シカゴ西部で小さなリペアショップを開いてコインマシン事業を始めた。

 のちのピンボール販売代理店開拓者エディー・ギンズバーグは、ロビンからコピー品製造のビジネスを何度も持ち掛けられたが、全て断っている。

 “ネイサン・ロビンのことはよく覚えてるよ。旧国出身の爺さんで随分古い時代の訛りが抜けてなかったからね。働き者なのはえぇけど狡すっ辛い親父でさ。奥さんも随分すばしこい人で、いくつもの金儲けを掛け持ちしてて、例えば田舎まで赴いて世間知らずの人に違法品の花火を行商したりしてたよ。”

 “ただ、俺からすればダメンアヴェニューでスロットの修理屋を営むいい常連の顧客だったからつきあいがあったんだ。ある日奴は旧式の窓用の鍵みたいなスイングアーム状のコインシュート装置を俺に見せてきた。『でっけぇ仕事がありよっと、おめ一緒にやんねぇべか』って。何度も誘われたけど、俺は自分の仕事で手一杯だったから一切断った。結局彼はサッシ屋のアル・レストっていうパートナーを見つけて、本当にピンボールの製造業を始めやがったんだ。”


 このサッシ屋アル・レストはロビンのご近所キャンベルアヴェニュー南側に店を構える、シカゴで古くからあるサッシとドアの専門店ローンデール・サッシ・アンド・ドア・カンパニーのオーナーのひとりだった。

 このサッシ屋の旦那と、スロット修理屋の胡散臭い爺さんのコンビが、「ロール・ア・ボール」を真似したカウンタートップ式マーブルゲームを作り始めた。

 互いに数百ドル出し合って資金を捻出し、ロビンの自宅で自家製造。キャビネットが粗雑で見た目は粗っぽいが、ロールアボールのボールトラップのメカを更に改良した5ボール制。日頃からコインマシンを取り扱う彼なりのセンスでプレイフィールドもアレンジされている。
 彼らはこれを「ビンゴ」と名付け、会社名をビンゴ・ノヴェルティー社とした。

 この「ビンゴ」がロビンとレストの想像を遥かに超える勢いで売れ始めた。

 大恐慌真っただ中におけるお手軽ペニープレイな非合法カウンター景品ボールゲーム。ラフなつくりだろうが面白くない訳が無い。

 突然の商機。火が点いたように殺到するオーダー。
 2人は浮足立った大はしゃぎでシカゴの西のはずれのオグデンとトランブルにある廃屋ビルに転がり込むようにして「ビンゴ」の大量生産を始めるものの、所詮三流の素人。工場の運営など何一つうまくいかない。

 経験者の指南を仰ぐ必要に迫られた2人は、既にコインマシン会社とファクトリーを操業し、グリップテスター商品「ハスキー」を成功させていたゴットリーブ社の元へと向かった。1931年の夏も終わろうとしていた頃のことだった。

 このゴットリーブ社のファウンダー デヴィッド・ゴットリーブはこれまで名前が出てきた二流三流の連中とは格が違う剛の者で、今更説明する必要は無いと思うが、ただこの時節、ゴットリーブ社は倒産の危機に直面していた

 ゴットリーブはあまつさえ西シカゴアヴェニュー4318に移転した時節と大恐慌が重なった上、主力商品の不振を打開しようと手を出した灰皿製造販売も失敗。余計傷口が広がるばかりだった。
 そんな八方塞がりの苦境に立たされた最中に舞い込んだのが、ロビンとレストの新しいコインオペゲーム「ビンゴ」の製造受託だった。

 素人の思い付きや二流職人の改造でくすぶっていたコインオペ・マーブルゲームが、ついぞピンボールの父 デヴィッド・ゴットリーブの手に渡った。正にその瞬間である。

 デヴィッドは粗削りで問題のあったすべての部品を何もかも再設計し直した。
 無駄に複雑化していた構造をすっきりさせ、4桁、いや5桁の量産にも耐えうる製品に作り変えた。
 キャビネット素材に胡桃の木材を用い、耐久性を格段と上げた。
 プレイフィールドのアートワークに多色刷り技術を用いたことにより、見栄えがカラフルに華やいだ。
 アルミ製の立派なマーキーをこしらえ、今でいうバックボックスの位置に“BINGO”のゲーム名のプレートをゴージャスに飾り付けた。

 デヴィッド・ゴットリーブは社運をかけて自ら設計とデザインに心を砕き、自らこの商品に投資し、製造と販売の独占権を交渉。1931年9月にはゴットリーブ版「ビンゴ」の広告が業界紙・業界誌に出稿された。

 その途端、壮絶な量のオーダーがゴットリーブの元へ雪崩れ込んだ
 原材料も高価な胡桃木材もゴットリーブの金で大量に発注したが、全く追い付かない。このままじゃ需要が他所にもってかれる。
 デヴィッドは親友ジャック・キーニーが経営するキーニー&サンズ社に助けを求めた。

 シカゴのサウスサイドの40丁目700番地に所在していたキーニー&サンズ社は小規模ながら、ジャック・キーニーと弟ビル・キーニーが操業する、デヴィッドとも昔馴染みの店舗とファクトリー。
 ゴットリーブと共同でビンゴを製造販売する話がついたキーニー社も、9月から10月にかけてキーニー社名で「ビンゴ」の広告を出稿している。


 ところが、常に生き馬の目を抜くシカゴシティのコインオペ業界。既にゴットリーブからロイヤリティを受け取り始めていたはずのネイサン・ロビンらビンゴノヴェルティー社がゴットリーブを裏切り、第三者との二重契約を目論んだ。

 割り込んできたのは、最初にビンゴを製造していたトランブルアヴェニュー1832番地の廃屋ビルのご近所ローンデール地区の、工具と鋳造と自動車部品下請けメーカー、且つコインオペ業界の楽屋雀、レオ・バーマン

 バーマンはゴットリーブ版「ビンゴ」の性能の高さと強力な商機を察知。
 ネイサン・ロビンとアル・レストを懐柔させ、己を3人目の経営者にしてゴットリーブを締め出したという。
 奴らはビンゴ・ノヴェルティー・マニュファクチュアリング・カンパニーと社名を刷新、レオ・バーマンが新会社のフロントマンに就任してしまった。

 年が明ける前、ネイサン・ロビンはゴットリーブが再設計した改良版ビンゴを、なんと勝手に自分の名前でパテント申請。
 またバーマンはオグデンアヴェニューにある3万平方フィートの本格規模な製造工場へ移管の手配を済ませ、やがてビンゴの大量生産を開始。
 更にバーマンは、ロビンが考えてもいなかったニューヨークの販路へ商品を乗せ、トラック1台分のビンゴを売り捌いた。

 年末頃にはニューヨークやシカゴを中心に、ビンゴは話題沸騰の超絶人気コインマシンとなっていた。

 一方、設計や大量生産の手配に血道をあげている間にまんまと膏血を絞られたデヴィッド・ゴットリーブは絶体絶命の窮地に立たされた。

 ……もし特許空席のホイッフルメカを基礎としたBINGOのパテントが受理され、ロビンの奴らが権利を手中に収めたらどうなる?
 私が無法者になるのか?人に煮え湯を飲ませて横取りした奴らが正義で、私の方が他人のパテント侵害で製造を続けるゴロツキになるのか……!?
 大量に仕入れたビンゴ製造用材料の山はどうなる。部品も、板金も、とびきり高価な胡桃材だって。
 台所事情は火の車だ。これ以上は首が回らない……!


 出た結論はひとつ。“こうなったら、自分で新製品を開発するしかない。”

 1931年11月初旬。デヴィッドは大急ぎで前述の頼れる親友ジャック・キーニーの元へ駆け込んだ。

 『君らを男と見込んで頼みがある。急いで新商品のプロダクションを共有してくれ。こちらはメカニクス技術とファクトリー生産に専心するから、ジャック達にはゲームデザインと広報を手分けして進めてくれ。今すぐにだ!』

 ゴットリーブとキーニーらはその新製品の名を「バッフル・ボール」と名付けた。

 “ボールを思い切りプランジするとスプリングの『バッファ』に跳ね返って、天端のアーチ状のレーンを振り子のように往来するから、バッフルのボール”
 ………という由来などではない。
 ほんの半年前にミネアポリスの無名メーカーが出したピンポン玉バスケットボールのコインマシン名が“バッフルボール”で、その名にインパクトがあり、ニュアンスもピンゲームにぴったりだった。それでそっくりそのまま名付けたのだという。

 1日,1時間,1分の無駄が命取りになるような焦燥と忙殺の日々。じっくりネーミングを練っている時間など全く無かった。

 結果、デヴィッドらは狂瀾を既倒に廻らす大逆転を果たした。

 完成した「バッフルボール」への需要は、最終的に75,000台ものオーダー数となった。
 30人もの工員が昼夜兼行、24時間交代シフトで火を噴くような執念と胆力で、1日最高400台ものバッフルボールを製造した。
 しかしそれでも、ゴットリーブとキーニーをもってしても5万台しか製造しきれなかった。

 一方、「ビンゴ」も5万弱程のオーダーを獲得していたが、大半はゴットリーブ製かキーニー製。
 「ビンゴ」の購入者は大抵「バッフルボール」もセットで買っていたし、途中でバッフルに乗り換えるオペレーターも多かったという。

 この大恐慌の真っただ中。バッフルボールの卸売価格は16$なので、粗利は80万ドル。

 現在の日本円の価値で言うなら、ざっと16億円ぐらいか―――。

 当然、ネイサン・ロビンらビンゴノヴェルティー社の商品は遥か遠くへ霞んだ。

 しかし、霞んだのは「ビンゴ」や「ロール・ア・ボール」だけではない。

 当然元祖「ホイッフル」のオートマチックインダストリーズ社も、バッフルボールのみならずこの後レイ・モロニー率いるバリー社「バリーフー」5万台ヒットや、ゴットリーブの「ファイヴスターファイナル」等によってとどめを刺されることとなった。

 年が明けた1932年、1月19日。オートマチックインダストリーズ社にホイッフル修正特許受理の知らせが今更届く。
 時すでに遅し、正に証文の出し後れ。

 ピンボールの市場は工業の町シカゴシティを再編成させ、アメリカは勿論、世界を席巻する巨大な化け物産業と化した。
 アール・フルームらオハイオの田舎から出てきた世間知らずの山師達の手に負えるようなものではなくなってしまったのだ。

 同年のコインマシンショーでオートマチック社は、自社トレードマークとして考案した鳥キャラクターの“ホイッフルバードくん”をこしらえて臨戦。自慢のデラックス版ホイッフルやシニア版ホイッフルを出展したがその影は薄く、衆目はゴットリーブ社の「バッフルボール」と、同じく量産体制が整ったバリー社「バリーフー」へと集まっていた。

 そのマシンショーでの光景を目にしたアール・フルームは呆然とする。

 “1台100$で販売しているうちのホイッフルの在庫が27,000台。でもバリー社は安手の木材でカラフルなシルクスクリーン印刷プレイフィールドのバリーフーを、たった12$50¢で売り捌いている。こっちは本物のクルミのキャビネットでしっかり頑丈に作ってあるのに、誰も見向きもしない……”


 同社はピンボールタイプのホイッフル以外にも、今でいうエアホッケー対戦のマグネット稼働版「ホイッフル・ジップ('32/6)」なる意欲的なエレメカゲームを晩年に発表したが、世に殆ど出回っていない。

 ホイッフルジップは2人用10ボールの対戦で向かい合うスチールボールゲーム。5つの得点ポケットを巡ってスライドラケットで攻守。
 赤いパワーボタンを押すと電気磁力によりボールが弾け飛んだという。まるで今のピンボールの盤面マグナパワー演出みたいだ。

 10個のボールは1個ずつフィールドインされ、1分以内には得点が決まるスピードゲーム。
 ゲームもフライヤーも広告も派手で斬新だったが、6月にアメリカとカナダのディストリ先で販売しただけで終わった。


 ヨハイオがオートマチックインダストリーズになった頃合いに、同社のカナダ支社とイギリス支社がフルームファミリーの舵取りで設立されていたが、こちらも本社の共倒れとなってゆく。

 第2の製造拠点カナダ支社ではイギリス/フランス/ドイツ/イタリアの硬貨別コインスロットをたくさん取り付けたワールドワイド版ホイッフルを製造していた他、家庭用バガテル、木製品のおもちゃ、パズルなどにも裾野を広げて小売市場開拓を目指していたが収益は低迷、結実しなかった。

 流通センターとして立ち上げたイギリス支社でも同様に現地製造に奮闘したが、こちらも本国の行き詰まりと共に閉鎖となった。


 1932年9月。オートマチックインダストリーズ社は債権者らに訴えられ、ピンボール事業から撤退

 創業者の一人である薬剤師のマイル.A.パークと、彼の得意先銀行員フランク.H.フィッシャーの管財人の下で運営されることになり、会社を失ったアール・フルームは地元ヤングスタウンでフォード車ディーラーのセールスマンに身をやつし、糊口をしのいだ。


 しかし、お話はここで終わらない。まだまだ続きがある。

 むしろ、本当の騒乱はここからが本番なのだ。


 オートマチック社閉鎖から5か月たった1933年2月。オクラホマ州タルサ市の地方新聞に小さく掲載された広告の中身は、こう。

 『全てのマーブルゲームの製造、販売、設置に関わっている方全員に警告します。ボルチモア、ピッツバーグ、カンザスシティ、ダラス、タルサの各連邦地方裁判所は、エリソン特許番号第RE17,961号を支持する判決を下しました。この特許とはマーブルゲーム一般でみなさんが勝手に使用されている、スライドパネルのボールリセット機能のことを指しています。その他の登録特許としては、レンツ特許番号1,694,691と、ニコラス特許番号1,730,523がございます。これらパテント所有者から許可を得ていないオペレーターやオーナーは特許侵害に該当します。by:パージョ・アミューズメンツ・インク

 ………は!?

 スライドパネルのボールリセットなんて、今やゴットリーブもバリーもミルズもゲンコもロックオーラも好きに使っている。それが特許侵害だと?莫大なバックロイヤリティーの無心かよ!なんだその利権屋?ぱ〜じぉ〜社だぁ?なにもんだお前!

 ピンボール産業全体が震撼するような通知が、地方新聞の片隅にしれっと載っていたのだ。

 ―――それはとうに息の根を止められたはずの、浮かばれぬホイッフルの亡霊。他人の手に渡った特許が、利権として化けて出たのである。


 旧名ヨハイオ工業社/オートマチックインダストリーズ社。

 オハイオ州の田舎町ヤングスタウンのこの会社は急速に衰退。

 1932年のマシンショーで「ベイビー・ホイッフル」「ホイッフレッテ」「ジングルズ」「ブラック・ジャック」を発表したが、高性能でゴージャスなのに安価、且つ派手やかなプロモーションで売り捌くシカゴの洗練されたメーカー達からすれば鎧袖一触。
 目の肥えたシカゴのオペレーター達の目には、時代遅れの製品ばかり並べる田舎からの成り上がりとしか映らなかった。

 '32年5月には「ホイッフル・デラックス」、6月には渾身の「ホイッフル・ジップ」で最後の勝負に出たが、まったくセールスが見込めず9月に閉鎖を決定。
 裁判所からはマイル.A.パークとフランク.H.フィッシャーを管財人とし、10日以内に書類を提出して会社の財務状況の監査を受けるよう命じられていた。

 残った財産らしきものと言えばホイッフルの特許だけ。

 アール・フルームはせめてもの足しになればと、テキサス州アントニオ市で類似商品業者相手にパテント侵害訴訟を起こしたが、あえなく裁判所はその訴えを退けた。

 『10月9日(土)連邦地方裁判所は、特許権侵害の疑いで論争が続いていたマーブルゲームについて、デュバル・ウエスト判事が、地元で製造された各種ゲームボードの製造,販売,使用を禁止する一時的な禁止命令を解除した。オートマチック社から提訴されたマーブルゲーム製造各社の弁護人は、10年前からコインスロットのアミューズメントゲームを運営しているというJ.E.トーネヒル氏の宣誓書を提出。トーネヒル氏によれば、昨年南部のほぼすべての都市を訪れたところ、各都市には6件〜15件の現地製造工場があった。それぞれマーブルゲームボードをパブリックに製造している。地元の事業者達は特許侵害を否定した。』

 フルーム最後の悪あがきすら敗北に終わってしまった。

 ところが、オートマチックインダストリーズのカンザス支店長が、ホイッフルパテント侵害訴訟で2件の勝訴を勝ち取った……という朗報が入る。

 “もう自分は裁判には関わらず、やり手のカンザス支店長にホイッフル特許訴訟を全て一任してしまった方が、まだ利益が期待できるのではないか。”

 そう悟ったアール・フルームとアーサー・ポーリンは1932年11月7日、訴訟費用も利益も一枚噛むことを条件に、オートマチック社のホイッフル特許権利を、その支店長の新会社 オクラホマ州タルサのパージョ・アミューズメンツ社に譲渡したのだった。

 その支店長の名は、B.P.ヒグビー。ファーストネームはビーチャーだったが本人が嫌がり、皆にビーピーと呼ばせていた。

 エンジニアでもなければ、ましてやデザイナーでもない。経営者として腕はいいが、それ以上に仕掛け人タイプの策略家。

 また彼はフォード車販売代理店のオーナーでもあった。
 フロントガラスの前で給油する際、ガソリンが漏れたり車の表面が傷ついたりしないよう、他人が発明したゴムコーティングガソリンホースノズルの特許権を購入し、自由に使いこなす目敏さがあった。
 特許法に関する見識があったのだ。

 実際、ヒグビーの起こした訴訟では、オクラホマ州でホイッフルのコピー品を製造していたウォーレン家具店に14,243$35¢と7,578$94¢の支払い命令、更にティレストン家具店には2,085$と6,930$75¢の支払いを命ずる判決をもぎとった。

 フルーム,ポーリン,パークの訴訟資金援助の後ろ盾つきでホイッフルパテント権を譲り受けたBPヒグビーにとってはまるで天の佑助。またとない一攫千金の好機に浮足立った。

 ヒグビーはホイッフルメカニクス特許を更なる武装で固めるべく、過去にさかのぼって類似メカのパテントを漁り始めた。

 手始めに買い取ったパテントは、オハイオ州アクロンのモダンゲームズアンドノヴェルティー社製「スリーズ('32)」に基づいた1929年の特許
 発明者ジム・ニコラスは既に業界から足を洗っていた為、こんなものでよければ!と喜んでその特許1,730,523を売り渡した。

 次に「ピグミー・ゴルフ('32)」の装置に基づく1928年のパテントを買おうとしたが、発明者フランク・レンツはシカゴのヴァン・イクイプメント社に特許を供与していた為、売り渡しへの折衝に手間がかかったものの、どうにか特許1,694,691号の権利を確保した。

 更に1918年発行、1930年再出願、1931年再発行された、今も現物が見つからぬ幻のローカルコインオペピンボール「サイクロ」の特許の所在を、ヒグビーの弁護士J.ハンソン・ボイデンが彫心鏤骨の末につきとめた。バージニア州リッチモンドの“パテントブローカー”ハックリー・モリソンとを仲介人として譲渡させた。
 “コインメカ中古特許を扱う仲介商売人”なんて奴がいて、そいつとの取引まで成立させたのだそうだ。

 他にもヒグビーらが目を付けたものの値段が高額過ぎたり、権利者が行方不明であったりもして、結局手に入れられたマーブルゲームの特許はこの3つだけ。しかしこれに勝訴した2件の判例が加わる。
 なかなか悪くない手札が揃ったぞ。

 法廷にも場慣れし、おのれの優勢を感じたヒグビーは、今こそ狼煙を上げる時!と大手ピンボールメーカーらを標的に弓を引き始めていた。

 更にヒグビーは最後の総仕上げとばかりに、ペーパーカンパニー[ホイッフル・インダストリーズ・インク]を地元カンザスシティに設立。

 自分はメカ設計や発明自体は不得手な為、ホイッフルの名称/意匠/ゲーム製造ライセンスをノースカンザスシティーのピアーレス・プロダクツ社に与え、流行りのエレキピンボール「エレクトリック・オートマチック・ホイッフル・モデル34」なる新商品の製造まで始めた。

 1933年12月5日。ホイッフルの特許1,938,495が正式発布の日を迎えると、その特許はほぼヒグビーのものに。
 8分の1は先ほどのパージョ社の弁護士J.ハンソン・ボイデンが所有し、残りの8分の7の取り分は、まんまとヒグビーの手中に落ちていた。

 今やバリーやゴットリーブら大手メーカー達はヒグビーにとっていい金づるだ。奴らからいくらむしれるか。全てのピンボールは俺様の持つ特許に依拠してるんだぞ。ヒグビーは静かにほくそ笑む……。

 ヒグビーと弁護士ボイデンのコンビは、“ホイッフル特許たかり屋”と化していた。

 このパテントトロール野郎が最初にコンタクトをとったのは、スロット及びコインオペマシン黎明期からの大家、ミルズ・ノヴェルティー社

 当時同社の社長フレッド・ミルズは、「ホイッフル」が世に出回り始めた頃合いには既にその存在と流行の兆しを認識していたが、斯くも巨大な市場に化けるとは思っていなかった。
 しかし日増しに巨大化してゆく需要に対応すべく、1932年3月1日頃になって漸く重い腰を上げ、部下を送り込んで市場調査。
 出回っているゲームを研究し尽した末、「ミルズ・オフィシャル」という名のピンゲームを完成させ、1932年6月頃から販売を開始していた。

 そのミルズオフィシャルにおけるロイヤリティーを我々に払ってもらいたい……というのが、ホイッフル特許に基づいたパージョ社の要求だった。

 フレッド・ミルズは慎重にその特許内容を鑑み、パージョ社側の言い分には筋が通っているものと判断する。

 1934年1月12日付の契約により、ヒグビーとボイデンはミルズノヴェルティー社と5年間ものホイッフル特許独占ライセンス使用契約を交わした

 ミルズはこの状況を特許ゴロの無心とは捉えず、むしろ自社が優勢へ運ぶよう有効活用する戦略に出た。

 同社ピンボールの代表作「オフィシャル」のペイアウト改良版「ペイ・テーブル」を1934年のマシンショーに出展。
 これはミルズ社のスロットマシン「ミルズ・サイレント」のペイアウト機構をキャビネット前方に設え、ボールリフト、プランジャー、レバーを誇らしげに装備したものだった。

 更にミルズは、
 『1933年12月5日にポーリン,フルーン(フルームの誤植)が特許第1,938,495号を発行した事実にご注意下さい』
 と、ビラや広告出稿で声明を出した。
 尚、ミルズ社内には印刷部があったのだが、そいつらがFroomをFroonと誤植してしまったのだそうだ。

 ともあれ、浮かばれぬホイッフルの魂はしばらくミルズの製品の中で生きることとなった。

 『ペイアウト機能のピンテーブルの試作を終えて満足している。今後も同系列の製品化を進める予定』

 『市販されているピンゲームの大部分は特許侵害製品ですが、正規にライセンス購入して作られているピンゲームはミルズだけ。訴訟の危険を回避すべく、是非独占ライセンス品のミルズ社ピンゲームのみ、安心してご購入下さい』

 本当の発明者である大工のポーリンとフルームへの取り分がきちんとあったのかは不明だが―――ともあれ、ヒグビーとボイデンの懐にミルズ台のロイヤリティーがこんこんと注がれ始めた。

 欲をかいた2人は更なる標的として大手各社へ、鉄砲のような特許侵害訴訟を闇雲の如く大量に起こし始めた。

 年末から1935年にかけて、ヒグビーはABT,ゴットリーブ,バリー,シャイバース,オリオール・コイン、さらにはパシフィック社にまでホイッフル特許侵害の訴訟を起こす。
 1936年のコインマシン博覧会の頃には、全米のピンボールメーカーに対して13件もの訴訟がパージョ社により起こされていた。

 実はミルズとパージョがホイッフル特許独占契約を結んだ1934年の時点で、大手ピンボールメーカー達はこのまま手をこまねいてはいられぬと、特許対策委員会として非公式の談合がミルズを除く13社の共同で立ち上げらていた。法に抵触するのでもちろん極秘だ。

 1934年と言えば、銀行強盗犯ジョン・デリンジャーが射殺され、ボニーとクライドもハチの巣にされ、ナチスドイツが台頭。更にチャールズ・リンドバーグ愛児誘拐事件の悲劇まで起こった騒がしい時節柄。
 そういった新聞を賑わす数々の世相の裏で、ピンボールメーカーは結託し、利権をふりかざしてくる特許ゴロにびた一文支払うものか、と呉越同舟の共闘を誓っていたのだ。

 しかし、13社の各代表とその弁護士団が出した結論は意外なもの。

 『発明者にそれなりの額を払って、穏当に済ますべきだ。』


 1936年2月、シカゴのシャーマンホテルで開催されたコインマシンショーでのこと。

 アール・フルームは新製品ピンボール「コッパー・マイン」「フォックス・アンド・ハウンズ」のペイアウト台2作と、エレメカゲーム「ザ・ウィップ」、そして当時一時的に流行った点数印刷機を携えてブース出展していた。

 しばらく雌伏の時間を過ごしたフルームだったが心機一転、新たなパートナーらと共に地元オハイオ州ヤングスタウンでフルーム・ラボラトリーズ社を設立
 前回の桂馬の高上がりを戒めとし、身分相応の規模でピンボールを主力としたコインオペゲーム会社を再興していたのだった。

 アール・フルームはこの日、非公式ピンボール特許対策委員会にVIP扱いで丁重に招待されている。
 勿論自分が俎上に挙げられていることも、委員会の存在も知らなかった。

 その日のことはその場に帯同した息子 ロバート・フルームが鮮明に覚えている。

 招聘されたのはフルームラボラトリーズ社各役員、アール・フルーム、息子ロバート・フルーム、新役員メレル・ワイブリング、クレイ・ヒックスら4人。

 4人は錚々たる大手ピンボールメーカー役員たちにもてなされ、特にアール・フルームは
 “貴方こそ誰もが認めるピンボールマシン原型の発明者!”
 と一同から褒めそやされた。

 “……しかし、しかしだ。ミスターフルーム。過去にまで遡及するパテント使用料の支払いはさすがに我々も難しい。どうです。ここは原告側の方々を発明者の貴方が説諭して、該当の裁判を全部取り下げてもらえませんか。今ここで、ロイヤリティーを調整して取り決めを済ませてはどうです。ここで額を決めて、そのお金で原告の方を納得させれば、十分満足のゆく額が貴方にも落ちるでしょう。今ここで穏当に解決すれば、本当にこれで終わりなんですよ。”

 肩を怒らせてパテント書類を振りかざしてくるパージョ社連中の正面を切らず、ここは搦め手で、発明者当人を懐柔しよう―――というのが特許対策委員会の算段だった。

 しかし、フルームは首を縦に振らなかった。

 既に特許戦争の主導権はパージョ社のヒグビーが握り、ミルズ社までもがその権益に手をかけている。フルームらが手綱を捌ける裁量を越えてしまっていたのだ。

 “父は、あの時に何が何でも大手13社と折衝すべきだった……と後悔していたよ”


 一方その頃のパージョ社は。

 秘密裏に大手が結託した共同弁護士団を相手に、特許侵害裁判は長期戦の様相を見せており、ヒグビーらの財源はついに底をつく。
 裁判の続行は資金難により頓挫目前の危機を迎えていた。

 “あと一歩だ。ただ1件でも勝てば判例になって何十件もの勝利が確実となる。諦めるもんか!”

 野望捨てきれぬヒグビーは最後の手段として、ミルズノヴェルティー社へ、ホイッフル関連特許一式の全てを譲渡する話を持ち掛けた。

 フレッド・ミルズの反応は二つ返事だった。裁判費用はミルズ社が全てまかなうが、その代わりホイッフル使用ロイヤリティーが無償になり、パテントの筆頭利権も手裏に収められる。願ったりかなったりだ。

 すぐヒグビー側とミルズ側は契約を交わした

 1936年8月の第二週、その時オートマチックインダストリーズの管財人となっていたウィルソン.S.クリアルに1$でホイッフル特許権利が譲渡され、そのクリアルは1936年8月19日にミルズ・ノベルティ社へ1$で権利を譲渡した。

 これでホイッフル特許は一切合切ミルズノヴェルティー社に帰属
 この時点でヒグビーと弁護士ボイデン、発明者ポーリンとフルームの裁量から離れ、全てはミルズの管掌となった。

 ミルズはこの虎の子ホイッフル特許を武器に、手始めはゴットリーブ、次にバリーを相手取って訴訟を起こす準備を始めた。

 そのことが明るみとなるにつれ、ABT社ワートリング社、ケイリー兄弟社までもが反発の声明を発表。

 ワートリングの創業者トム・ワートリングの息子で、スロットマシンの名機「ロール・ア・トール/ロール・ア・トップ」設計者バーンズ・ワートリングは、
 “俺だってスロットマシンの発明者じゃねぇよ。ミスター・ゴットリーブ、負けんでください!”とゴットリーブを擁護した。

 「ログキャビン(1901)」の大先輩 ケイリー兄弟社からも
 “球を打って傾けた盤面を転がすゲームなんざ、ウチじゃ大昔からやってるさ”

 と、頼もしい声援が送られた。

 いつも権高なミルズファミリーと違い、誠実な好人物のデヴィッド・ゴットリーブは元から皆に好かれていたのだ。

 しかしミルズ社側弁護士は、ヒグビーとボイデンが継続中の、ABT社製品「シルヴァーフラッシュ('33)」「シルヴァーゲイト('33)」「スペシャルホースシュー('33)」「ミニチュアスペシャル('33)」を侵害対象としていた裁判を引き継ぎ、ABT主力製品「ホースシュー('33)」「マーブルジャックス('33)」「オートカウント('33)」にまで対象を広げて攻撃した。

 その全バックロイヤリティー請求額は会社資産を上回りかねず、ABT社は存続危機の窮地に立たされた。
 しかし同社はかの特許対策委員会に加入している。基金の補助を受け、弁護士団の援軍を引き連れて全力で反撃に出た

 ABT側反訴の主張はこう。

 『アーサー.L.ポーリンとアール.W.フルームが発明,発見するより以前、請求されているゲーム装置はこの国で通念的に知れ渡っている。ポーリンとフルームはオリジナルで最初の発明者ではない。同機能、同材料のパテント記録は、以下の通り数多く登録されている。』

(年月日/名称/申請者/特許番号)
●1876/12/12 Game Board/S.Keimig/185,239
●1881/5/24 Bowling Alley/Suess/241,831
1893/8/29 Electric Bowling Alley/P.P.Nelson/504,087
1899/3/21 Toy Pistol & Game Apparatus/H.D.Bailey & H.B.Budgett/621,440
1901/7/9 Game Apparatus for Trading Purposes/W.Tribble/677,905
1902/10/16 Game/Caille/711,383(ログキャビン)
●1904/3/8 Check Controlled Game Apparatus/G.W.MacKenzie/754,377
●1906/5/8 Game Table/S.C.Roberts/820,367
1907/6/4 Game Apparatus/J.W.Wallace/856,118
1911/6/13 Game Apparatus/L.O.Sutton/994,963
1915/2/9 Toy Golf Game/E.R.Connor, C.W.Voelpel & J.M.Connor/1,127,861
●1918/1/15 Game Apparatus/F.H.Ellison/1,253,471
●1925/5/26 Game/S.Diamant/1,539,547
●1928/7/8 Amusement Apparatus/A.Kudler/1,662,504
●1929/7/16 Amusement Device/A.H.Bechtel et al/1,721,201
●1929/10/8 Game/J.S.Nicholas/1,730,523
1931/4/28 Game Apparatus/G.H.Miner/1,802,521
1928/4/18 Game/F.R.Chester/1,825,778
●1931/11/7 Game/N.Robin/1,849,956(ビンゴ)

●1922/11/30 Inprovements in or Connected with Miniature Billiard Tables/L.F.Gardner/イギリス特許189,347
●1921 (名称不明)/(申請者不明)/ドイツ特許354,198


 ケイリー兄弟社ジョージ・マイナーの発明品の他、なんとパテント泥棒爺さんネイサン・ロビン特許取得の品まで入っていた。
 この一覧を法廷へ叩きつけたのである。さすがは大手13社結託弁護士団だ。

 対する、コインマシン最大手ミルズ側にとってもこの裁判はとてつもなく大掛かりで、捻出する費用も巨額だった。

 フレッド・ミルズがこの訴訟に投じた費用は8万$にまでのぼった。現在の日本円で1億数千万以上だ。

 しかし勝訴によって見込まれる権益は莫大で、それだけ価値のあるものだった。
 1937年のピンボール業界全体の売上高を4000万ドルと推算し、そのうちの200万ドルが利権として転がり込んでくる。
 ヒグビーには分け前はあるが、フルームやポーリンの取り分はそれに比べれば微々たるもの。

 1936年末には双方の主張も反証もまとまり、業界の者たちも裁判の行方を固唾をのんで見守っていた。

 その判決は。

 『先行技術を考慮すると、パテント権利者の開発は発明には至らず、むしろ単なる機械的技術の行使に過ぎない。なぜなら、すべての要素は古くから既存している。それぞれの先行技術が、受け継がれているものと同じ機能を果たしており、それらを新しい方法で組み合わせただけ。そこから新しい機能は生まれていない。』

 1937年に連邦判事は原告ヒグビーらの主張を退け、ホイッフル特許は一連の商品に勝るほど強力なものではない―――という判決を下した。

 ヒグビー達は一敗地に塗れ、ABTやゴットリーブをはじめとするピンボール大手メーカーやオペレーターらは、この判決結果にホッと胸を撫で下ろした。

 実質、ミルズ側の大敗である。


 実を言うとこの特許戦争裁判のふしに、もう一組の“パテントたかり屋”が業界にオダを上げてゴットリーブに無心した挙句、つまみ出されている

 オクラホマ州タルサ市のディーン・ノヴェルティー社のピンゲーム「ハイスコア」が1932年2月、特許侵害のかどで訴訟を起こされた。

 ケンカを売った原告は同州同市ウィリアム・エドワード・カリソン

 彼は'20年代を代表するABT社製コインオペマーブルガンゲーム「ターゲットスキル」のオプション改造キットを発明して特許を取得していた。

 “発射されたボールが基盤の傾斜面を転がって、戻ってきた際にスコアをカウント。次のコイン挿入で持ち上げられて、ボールが銃に装填されてまた発射出来る”
 ……という、それなりの優れものではあったが、これが特許侵害されているとの主張が彼の言い分だった。

 実はそんなボールリセット機能、「ターゲット・スキル」で初めからABTが設計している

 ウィリアムEカリソンは元々菓子職人。お菓子が当たるウォールマシンやカウンターゲームの流行を機に、1920年代後半からコインマシン業界に参入したキャンディー自販機屋だ。

 1927年7月12日、彼は、シカゴのABT社ウォルター.A.トラッチが開発したカウンターガンゲーム「ターゲット・スキル」の土台として取り付けられるオプション機、[型押し金属製ポイント・スコアリング・インサート]と[改造リフティング]の特許を申請、受理させていた

 本家ABTウォルター・トラッチも銃やボールを再装填して発射する機構と部品を手掛けていたのに、出願書類でその主張を怠っていた。

 当時まだ特許法律は新しく、そのシステムは未熟。コインマシンゲーム産業自体、19世紀末に生まれてから間もない。
 当たるかどうかも分からぬ商品の、メカニクス特許+デザイン特許、膨大な項目を両方押さえる連携パテント武装なんて、経験豊富な大手メーカー及び専門の法律家でも手間も費用も割を食う。

 その脇の甘さに付けこんで『俺の発明!今大流行のピンボールも全部俺の発明の侵害!』と触れ周り始めた面の皮千枚張りの輩がカリソンだった。
 はっきり言ってヒグビーらよりタチが悪い。

 さすがに地元の地方裁判所はこの訴えを退けた

 カリソンは懲りずに1933年4月、今度はゴットリーブに言いがかりをつけた。

 同社製「ミニチュア・プレイボーイ」「マスター・プレイボーイ('32)」「クローバーリーフ('32)」「ファイヴスター・ファイナル('32)」「ビッグ・ブロードキャスト('33)」のすべてが自分の1927年の特許を侵害していると主張し、ロイヤリティーの支払いを無心。
 書留の手紙には特許を侵害しているという証拠らや図面やら写真などが同封されていたという。

 デヴィッド・ゴットリーブは辟易しつつも、当時は珍しかったコインマシン専門の弁護士 スリーディー&キャノン法律事務所クラレンス.E.スリーディーに撃退を依頼した。

 スリーディーはシカゴのみならず全米で名を馳せる“特許法にも強い敏腕弁護士”で、くだんのミルズとABTが争った裁判にも、ゲンコとロックオーラが対立した裁判にも関わっている。

 スリーディーは6月に、テキサス州ダラスのオペレーター アール.J.レイノルズと連絡を取り、自分の声明をメディアに掲載させた。

 『ピンゲーム業界の皆さま、産業の未来は安泰です。我々は“カリソン特許言いがかり事件”の被害に遭っているゴットリーブ様を弁護している真っ最中です。この判決は間もなくバーンズ判事から正しき判決が下されるでしょう。オペレーター各位は勿論、ピンゲームやマーブルゲームを扱う会社の皆様は、どうぞご安心下さいませ。』

 下った判決は予想通り。

 『1934年7月5日、イリノイ州北部地区連邦地方裁判所東部支部のジョン.P.バーンズ判事は、ウィリアム・エドワード・カリソン対デヴィッド・ゴットリーブの訴訟で、被告側の非侵害の抗弁を支持。裁判所は被告がカリソン特許第1,645,370号を侵害していないとの判決を下した。』

 スリーディーの声明そのままに、ゴットリーブ側の勝訴となったのだ。

 諦め切れぬカリソンは1934年8月17日、テキサス州ダラスのエレクトロ・ボール社(社長S.H.リンチ)を訴えた。

 今度は小規模メーカーを狙い撃ちして判例を勝ち取る目論見だったが、同社は大手メーカーのディストリでもあった。
 すかさずエレクトロ側を援護すべくABT,イグジビット,ロックオーラ……という誰もが恐れ入る強力な大手三社弁護士連名の頼もしい嘆願書がエレクトロ側弁護士事務所ローゼンフィールド&バーウッドの元に届く。

 結果、エレクトロボール社側の勝訴

 ゴットリーブに負けた時の判例が持ち出され、
 『被告側の製品はカリソン特許第1,645,370号に似ていない。似ているとするならば、(既に原告が敗訴した)ゴットリーブの製品に似ている』
 ……との判決が下され、カリソン側の訴えを退けた。

 既にべらぼうな資金をつぎ込んで船から降りられぬカリソンは、次の一手としてタルサ市のウェスタン・セールス社を標的にした。
 しかしここでもスリーディー&キャノン法律事務所が相手側につき、カリソンが敗訴。裁判所の判決は、原告の請求は公平性を欠くという判決を下した。

 引くに引けないカリソンの乱心は止まらず、彼はワシントンの最高裁へ上訴するが、1935年10月14日、米国最高裁判所に棄却された。


 ―――かように、ピンボールのボールリセットやボールリフトの装置は、既にパブリックな機構である……という判例が累積していたのだ。

 カリソン一味の敗訴とミルズ&ヒグビーチームの敗訴により、ピンボール特許戦争は1937年頃に終局を迎えた。

 業界を牽引すべきコインオペ会社の老舗最大手が、自分1社だけ抜け駆けて利権の独り占めを企み、ピンボール産業を危機に晒した。

 ミルズ・ノヴェルティー社の威厳と信頼の失墜は、業界において甚だしいものだったろう。


 ホイッフルパテント騒動の終結後、関わった各社の明暗を分かる限り辿ってみよう。


 ホイッフル特許戦争で最たる貧乏くじを引いて一人負けしたミルズ社はこの後、傾き始めた自社の社運をかけて開発した16mm映写機能つきミュージカルジュークボックス[サウンディーズ]を発表するが、売り上げは全く振るわず。

 心労が祟ったフレッド・ミルズは1944年に腸炎で没している。享年49歳。
 この後ミルズ社は急速に衰退してゆく。

 あれほど栄華を誇ったコインオペ産業の巨人ミルズ・ノヴェルティーは1948年1月、財政難により連邦裁判所に債務返済の猶予を申請。
 各部門や資材は売却され、実質1954年にはブランド名もろとも消滅した。


 ピンゲーム盗作爺さんネイサン・ロビンらビンゴノヴェルティー社はその後、懲りずにゴットリーブ社ヒット作「ビッグブロードキャスト」の悪質なコピー機種や、「ファイヴスターファイナル」の類似品「シックススターズ」を出し続けて潤っていたが、仏の顔も三度まで。ついぞデヴィッド・ゴットリーブから怒りの鉄槌が下る。

 1933年3月22日、ビンゴノヴェルティー社はイリノイ州クック群巡回区のヒューゴ.M.フレンド判事(事件番号B.265809)より製造と販売の指し止め命令をくらった。

 ビンゴ・ノヴェルティー社、これにて廃業。


 錠前職人チャールズ・チゼワーはその後もヘラクレス社代表として何作か高性能ピンボールを開発するが、機械工の自分が柄でもないゲームデザインの仕事を続けることに疲弊してゆく。

 その矢先、'33年に発表した「ダブルシャッフル」「ジャッグルボール」が似ていることでロックオーラとトラブルになったのを機に、ピンボールの制作から撤退した。

 暫くして彼はゴットリーブ製「ビッグブロードキャスト」の下請け部品生産を開始。以降大手ピンメーカーの下請け製造に操業を絞る。
 キーニー、シカゴコイン、ゲンコ、ウェスタンイクイプメント、そして和睦したロックオーラからの依頼も受け、'30年代〜'40年代までのピンボール産業の頼もしき下支えとなっていった。

 “特に搬出に来る度に話が弾むネイサン・ゴットリーブとはウマが合って懇意にしてもらってた。父の勤勉さと人柄、腕前の良さがすぐに業界に伝わって、様々なピンボールメーカーとの契約が進んだよ。父の人間的な評判はとても良かったんだ”

 後年、息子のジャック・チゼワーは誇らしげに語った。


 一時期ミルズから矛先を向けられたバリー社レイ・モロニーは、この騒動により自社と自社製品ピンボールの特許武装が無防備である現状に危機感を抱いた。

 ホイッフル以前にボールリセットや再装填の野球ゲーム特許を保有していた西海岸の売れっ子ゲームデザイナー ジョージ・マイナーに三顧の礼を尽くして高禄を積み、特許ごと抱き込んでデザインチーフへ迎い入れた。


 大手他社と同様に特許対策委員会に所属していたウェスタン・イクイプメントの社長ジミー・ジョンソンは、この特許騒動で知恵が付いたらしい。

 精緻なリプレイ機構を社内で発明した17歳の新人天才少年ウェイン・ナイアンズを篭絡し、臨時ボーナスと昇進を条件に、特許の権利をうまいこと会社側へ譲渡させた。


 アール・フルームの新会社フルーム・ラボラトリーズのその後の動向は明かされていないが、傍で父の奮闘の全てを見つめていた息子ロバート・フルームは、コインマシン史研究家リチャード・ビュッシェルに大量の写真と書類資料を託し、“ピンボール第1号機はバッフルボールまたはバリーフーである”というそれまでのピンボール史通説に一石を投じる機縁とした。

 ロバート・フルームは第2次世界大戦の英雄でもあり、空軍のパイロットとしてインドと中国間の補給路“パンプ”を飛行していたという。

 生涯オハイオ州ヤングスタウンで過ごし、1995年頃に亡くなっている。


 1950年12月6日。有効期間が満了となり、米特許番号1,938,495のホイッフルパテントはパブリックとなった。



 最後にもう一人だけ思い出して頂きたい女性の名前がある。ロイス・ポーリン

 ……そう、失業中の大工アーサー・ポーリンが、ホイッフルの原盤オールドジェニーを手作りし、幼い愛娘にプレゼントした、全ての始まり。その時の少女の名前である。


 2009年1月。その時の少女ロイス・ポーリン・ホーラーマン(2009年当時82歳)と、彼女の娘であるカレン・ホーラーマン・ケッターリングの連名で、ゲーム史探求サイト運営者宛として声明が開陳されている。
 その趣旨を撮要する。

 『ピンボールの発明は紛れもなく1947年に死去した父アーサー・ポーリンです。その後に知れ渡った大手メーカーでもないし、ましてやコイン装置を作ったに過ぎないアール・フルームでもありません。』

 『なのに、大量のコピー業者が父の発明を踏みにじり、父の会社を陥れ、賭博化し、ギャングの資金源へと堕してしまいました。その挙句1937年に連邦判事は、ホイッフル特許は一連の商品に勝るほど強力なものではない―――という判決を下し、余りにも多額の裁判費用が磨り潰されてしまったのです。』


 声明からは彼女と父アーサー・ポーリンの無念が察せられる。

 自慢の父の逸品が一人歩きし始め、手に負えない化け物産業と化した果て、ニューヨーク市長らから激しい批難を浴びて違法品へと落ちぶれ、再び街から一斉に消えていった。

 多感な御幼少期の瞳に映ったその光景のやるせなさは、いかばかりか。


 ただ、孫娘さんによる、悪戯に微笑むような愛らしい追伸が、こう添えられている。

 “P.S. ホイッフルボードが流行らなかった、と書かれているのには笑ってしまったわ。だって私の祖父は退いた後、大金持ちになってましたもの。”


【執筆後記】

(最終更新日2021年11月17日)