グラフィックデザイナー・長久雅行のウェブサイトです。

(1)秀英初号明朝と写研の秀英明朝(SHM)を比較してみる

2010年9月、私の手元にも「モリサワパスポート アップグレードキット2010」が届きました。今回、大日本スクリーン製造のヒラギノ、こぶりなゴシックなども追加された、かなり強力なバージョンアップとなっています。
中でも最大の目玉は、「秀英初号明朝」でしょう。大日本印刷の前身、「秀英舎」の時代から、築地体と共に明朝体の二大活字といわれ、1980年代には写研から秀英明朝(SHM)として文字盤化された書体です。さっそく、私もインストールして使ってみました。

さて、私は写植オペ時代、活字ではなく写植の「SHM」を多く印字し、なじんできました。
写研から発売された秀英明朝(SHM)の制作裏話に関しては、字游工房『鈴木勉の本』に記述があります。鈴木勉氏はスーボ、スーシャ、ゴーシャなどの写研書体のデザインで名を知られた方で、字游工房の創始者でもあります。1998年に49歳の若さで世を去りました。それによると、原字の制作は初号の清刷(一辺が約15ミリ)を約5センチに拡大して修正するのですが、単なる復刻ではなく、文字の形を読み取り、消化しながら自分のものにすることが求められる作業だったようです。
また、「SHM」の写植文字盤化には、杉浦康平さんがご尽力されたようです。氏のデザインされた書籍、雑誌の多くにこの書体が用いられており、その後の日本の出版物の装幀の多くに「SHM」が使われています。力強く、しかし優美、他にも「特太明朝体」は数多くありますが、他を寄せ付けない気品と緊張感がみなぎる書体です。
写植を打っていた頃は、この書体を打たなかった日はなかったと記憶しているほどの人気書体でした。

しかし、今回のモリサワパスポート版「秀英初号明朝」を見たとき、何か、引っかかるというか違和感のようなものを感じました。もちろん、写研の「SHM」は活字見本帳を参考にして制作されたとはいえ、両者は完全に同一ではありません。まして今回の「秀英初号明朝 平成の大改刻」プロジェクトで、原字をデザインするにあたり写研版の「SHM」を参考にしているはずがありません。ですから、両者が異なるのは当然のことなのですが、私の違和感がどのあたりに起因しているのか、手動写植文字盤の「SHM」とモリサワパスポート版「秀英初号明朝」の同じ文字を並べて比較検証してみようかと考えました。

なお、写研版「SHM」の画像は、印画紙に印字後フラットベッドスキャナでスキャンしたものですから、完全に写研の原字そのものではないことをご了承下さい。また、文字盤製造上、あるいは写植機レンズの微妙なズレによる文字の寄り引き(天地、左右方向のズレ)が、ごくわずかですが発生している可能性があります。

(2)ひらがな、カタカナ、字形の違う漢字の比較

私は、おもに、「秀英初号明朝」の漢字の部分で「SHM」との違い、違和感を感じているようです。
まず、普通に文章をそれぞれの書体で打ったもの[1][2]、そしてその二つを重ね合わせたもの[3]を掲示します。
まず、誰でも気がつくと思いますが、4行目「文」の字体が異なります。いわゆる「ヒゲ」が「SHM」にはついています。これは、「秀英初号明朝」がAdobe-Japan1-3準拠のStd書体であるがゆえの仕様のようです。将来的に、Pro書体やPr5書体にバージョンアップされたときには字形メニューから「ヒゲ付き」も選択できるようになるのかも知れませんが、現状ではヒゲなし字形しか選べません。同様のものに、[4]で示した文字群があります。左がSHM、右が秀英初号明朝です。

ひらがな、カタカナについても比較しておきます。[5]
ほとんど変わらないもの、字形が少し異なるもの(い)、位置がかなり異なるもの(び ぶ)などあります。ただ、これは個人的な感想ですが、私自身はひらがな、カタカナに関してはあまり違和感を感じません。ひらがな、カタカナは曲線で構成されており、先端部分の処理なども両者では大きく異なっていないことが原因かなと分析しております。それに対して漢字は……

(3)字形が同じ漢字の比較

任意にいくつかの漢字を並べ、比較してみました。[6]
同じ骨格、印象を持つ漢字であり差異は少ない、と見るか、差異は大きい、と見るか、難しいところですが、更に拡大して比較してみます。(なお「奇」の三画目は異なっていますが、SHMの形にデザインされている明朝体は、私の調べた限りではありません)。

以下は写植のプロではあっても、書体製作のプロではない一個人の感想です。
全体として、SHMの方が野放図というか「何かから、はみ出している部分が多い」ように見えます。
秀英初号明朝のほうが、きちんと仮想ボディの四角内にバランスよく描かれているように思えます。最新の理論とテクニックで描かれている証明でしょう。しかし、それがこの書体に限っては、優美さがごく僅かですがそこなわれる原因になっているような気がします。
前述の『鈴木勉の本』によると、写研のSHMの漢字の復刻は、写研の今田欣一氏(写植書体のボカッシイ・いまりゅう・今宋、等を制作)がチーフとなってまとめ上げたそうですが、その作業は当時の書体製作で常識とされた三角定規を用いずに、全てフリーハンドで描かれたそうです。
確かに、SHMの漢字の直線は完全な直線でなく微妙に曲がっています。
また、直線の交差部分などの輪郭は丸くなっています。これは、光学式手動写植で印字された印字物ゆえの「ぼけ足」の可能性もあり、写研の原字はここまで丸くなっていないのかも知れませんが、しかし、明らかにそう意識して描かれた形跡も見られます。
いくつかの文字を大きく拡大した見本を掲載しておきます。

DTP黎明期にリリースされた書体は、明朝体でも直線的で、先端部分の処理もパスの数を少なくするためか、丁寧に丸く描くのではなく直線で折れたように描かれていました。
その後、やわらかい性格を持つデジタルフォント(フォントワークス筑紫明朝、モリサワA1明朝など)がリリースされるようになり、暖かみのある書体(陳腐な表現ですが…)が増えてきたように感じます。
今回のモリサワの「秀英初号明朝」も、全体のバランスを重視しつつ、細部にわたって非常に丁寧に作られていると思います。しかし、私は全体のバランスが「秀英初号明朝」よりも劣る(ように私には見える)SHMに惹かれます。さらに、フリーハンドで描かれた直線のかすかな歪みに魅力を感じます。

しかし、いうまでもなくこれは個人的な感想です。私は前述したように10年以上に渡って毎日のようにSHMを印字し続けてきたわけですから、「好み」の問題でしかないのかも知れません。皆さんは、いかがでしょうか?

上で検証したように、SHMの一部の漢字の字体はJISの例示字形に従っていません。幸い、私のクライアントは些細な字体の違いに寛容な方が多く、「漢字のデザイン差です」と言い訳すれば納得してもらえます。しかし、過去には楷書体特有のデザインにも赤字を入れて、明朝体のデザインを要求する出版社の校閲部と仕事をした経験もあります。今後、SHMのような「JISの例示字形」から外れている書体はやはり淘汰されていくのかも知れません。また、私が「味わいがある」と積極的に評価しているフリーハンドゆえの歪み、「ぼけ足」も、それを良しとしない立場から見たら単なる不整合、ノイズでしかありません。
しかし、私自身は、そういう困難、また製作上の面倒な行程があるとはいえ、今後もSHMを装幀の一部にでも使っていきたいと考えています。

2010年11月 記

手動写植機 PAVO-KY

[1]写研 秀英明朝(SHM)
(画像をクリックすると拡大されます)

手動写植機 PAVO-KY 正面パネル

[2]モリサワパスポート版「秀英初号明朝」
(画像をクリックすると拡大されます)

文字盤 秀英明朝 SHM

[3]二つを重ね合わせたもの
(画像をクリックすると拡大されます)

文字盤 秀英明朝 SHM

[4]右は写研「SHM」(ヒゲ付き)
左はモリサワ版「秀英初号明朝」(ヒゲなし)
(画像をクリックすると拡大されます)


文字盤 秀英明朝 SHM

[5]上は写研「SHM」
下はモリサワ版「秀英初号明朝」
(画像をクリックすると拡大されます)


文字盤 秀英明朝 SHM

[6]上は写研「SHM」
下はモリサワ版「秀英初号明朝」
(画像をクリックすると拡大されます)