各名門ブランド ピンボール・リスト

Bally/1979

キッス

原題Kiss
製作年度1979年
ブランド名バリー
メーカーバリー・マニュファクチュアリング・コーポレーション
スタッフデザイン:ジム・パトラ/美術:ケヴィン・オコンナー
標準リプレイ点数ファーストリプレイ28万/セカンド52万
備考製造台数:17,000台/ようつべに動画あるよ!⇒GO!
▲ドロップターゲット4枚バンク。全て落とすとKISSライン一発完成 ▲アートワークは「クリーチャーフロムザブラックラグーン」「モンスターバッシュ」のケヴィン・オコンナー。当時はバリー専属の絵描き屋だった
▲フィールド下部。炎が吹き荒れ、アウトホールボーナスヴァリューが突き出る荒々しいアート。 ▲4枚バンクのA-B-C-Dスポットターゲット。完成で得られるアウォードはボーナス2X、エキストラボール、スペシャル点灯。
▲キャビネットフロント。当時のバリー台のスタートボタンはキャビネ扉表面右上角にあった ▲KISSレターが一発完成させられる重要ポイントのトップレーンセンターに“LIGHT A LINE”と表記があるが、実はコレが本当のゲーム名だった

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その数、17,000台!……という驚愕のユニット製造数を記録したバリー'79年製「キッス」は、当時同社が猪突猛進していたライセンス戦略が最高潮の形で結実した一機種。
 その機種名やアートワークからして何をか言わんや、当時ロックシーンで隆盛を極めていた同名アーティストの肖像及びキャラクターの究極的なコピライトモデルです。

 フィーチャー内容と言えば、トップレーンとスポットターゲットが連動したKISSレターを1列・2列と次々完成させてゆく……という、比較的'70年代後半によく見られる王道的なスタイル。

 スピナーショットがスカッとするような左右リエントリーレーンの存在。
 トップレーンセンター狙いでKISS一発完成&ボールセーヴァー稼働というアウォードがあるプランジャースキル成否の重要性。
 そしてKISS全列完成毎に4万のアウトホールボーナス・次に8万ボーナス・そして無限スペシャル!……と、ヴァリューが続々とのしあがってゆく豪胆フィーチャーの手応え。しかも4万・8万ヴァリューは次ボール以降もホールドという重要さ。
 列完成ごとにバックグラスのKISSロゴがストロボフラッシュで一閃するという粋な演出も。

 そういった'70年代フィーチャーの王道を踏襲したゲーム性の高さに加え、ステージで火を噴くジーン・シモンズを初めとした当時のキッス黄金メンバー4人が“ペルソナ”メイクと衣装姿で所狭しと描破されたアートワークインパクトの高圧感たるや。
 これらの強力な訴求性は、決して名前負けしない当時のバリーならではな豪華さと存在感を、如実に表していると言えそうです。

 '79年リアルタイムでは幼少期だった筆者もゲームコーナーやボウリング場でよくよく見かけたことを記憶していますが、スピナーを狙いたくてもバンパーすれすれの位置関係に肝を焼き、リエントリーシュートの難しさに臍を噛んだことをよく覚えています。

 そんなマシンの現役時代からやや暦日を重ねた'87年頃のこと。

 当時ウィリアムスの「ハイスピード('85)」とナムコの「ドラゴンスピリット」目当てで通っていたアイレムの直営ロケーションで、突如下げられたハイスピードの代わりに上げられたのが、なんとこのバリー製KISS
 新入荷なのに時代が8年も退行!?
 この時期の8年は業界にとってもティーンの青春にとってもカルチャーにおいても懸隔は深く、色々な意味でソレがかなり痛い存在に感じる時節でした。

 “ちょっとちょっと、ハイスピードの後釜がコレ!? 今頃KISSなんて冗談よしてよ!!”

 ……と半ば落胆しつつも、最低限の調整はされていただけあって数年ぶりの再会を噛みしめた記憶が甦ります。
 しかしまぁ、あの店はあの時、なぜピンボットやトムキャットでなく、キッスなんかわざわざ入れたんだろう?
 そんな疑問も、30年を経た今となっては往時茫々。

 そして幾星霜の現在、大阪SBPにてピカピカなフルレストア状態で召喚されたバリーKISSの御姿の、何と神々しいことか。
 当時とは比べ物にならない程熟達したフリッパー捌き、及びプランジショット&ナッジングの腕前により、あんなに苦労した8万×2倍もスペシャル連取もてきぱきと容易く取り進められ、90万点台のスコアと溢れかえるクレジットを前に、プレイヤーとして満足しきりの捲土重来を果たすことが出来ました。
 まさかこんな時代が来るなんて。

 それにしても、「イーヴルクニーヴル」やら「プレイボーイ」やら「スタートレック」やら。
 当時のピンボール好景気の奔流に更なる掉を挿すようなバリー社怒涛のライセンス戦略は、今振り返っても圧倒的な凄味を感じます。
 '70年代前半にはウィリアムスにもシェアを抜かれて三番手に甘んじていたはずのバリーが、なぜこれ程にまで次々とコピライトの買い付けを完遂させ、多くのマシンのセールスを大成へと導けたのでしょうか。

 それは伝説のライセンスマネージメント、トム・ニーマンという裏方人物によるバリーへの献身と八面六臂の大活躍が、その栄光の背景に秘められていました。


 トム・二ーマンは、ポール・キャラメーリというこちらも伝説のセールスマネージャーだった人物と共に、1972年バリーへ入社。

 同社ピンボールのマーケティング担当として仕事を任されますが、当時のバリーはゴットリーブの圧倒的プレイヤー人気を前に、売り上げが沈滞気味。
 何の強みもなければ良いアイディアも閃かずに煮詰まっていた矢先、彼はザ・フーのコンセプトアルバム「トミー」のLPレコードに出会います。
 この邂逅が後々ニーマンとバリーの運命を大きく変えることになるとは知る由もせずに。

 『……これだ!ピンボールのテーマ性にうってつけだ。しかも今まさにトミーの映画化が進行してるって?』

 しかし当時ニーマンにはライセンス購入のノウハウは無く、一体どうすべきか見当もつかない。
 よってダメ元で恐る恐るコロンビア映画社へ連絡を取ったところ、該当社本部のニューオリンズへ即座に呼び出され、誠心誠意ゲームのプランとアイディアを語るニーマンの好印象もあってか、あれよあれよのトントン拍子で契約成立

 結果出来上がったバリーのピンボール「ウィザード!('75)」はアートもゲームの出来も優秀だったこともあり、フリッパー搭載台としては当時の同社最高記録である、1万台という著大なセールスを引き出します。
 当時幼少だった彼の息子の名がトミーだったこともあり、ニーマンにとって非常に感慨深い仕事となったようです。

 さてその後。ニーマンがメカやプレイフィールドのゲーム性に凝ったオリジナルマシンを次作としてプランニングしていたその矢先。

 “おい、次は何だ。次のライセンス企画が何かを聞いてるんだ。今後はこのウィザードのセールスを水準とし、ライセンス戦略を常套とするんだ。いいな”

 上役のロス・シーラーからそう高圧され、着手しかけていたプランを流す羽目となったニーマンは大いに頭を抱えたそうです。

 『トミーのライセンスが取れたのは単に運が良かっただけなのに。一体どうしたものか……』

 ニーマンは苦し紛れに、映画「トミー」の節に出来た伝手を頼ってエルトン・ジョンの事務所へ、これまたダメ元でオファーを申し入れます。
 こうして出来上がったのが「キャプテン・ファンタスティック('76)」だった訳ですが、これまた16,000台以上!という恐ろしいほどの遠大なセールス結果を招くことになりました。

 結果、これらの業績が認められたニーマンはライセンスマネージャーへと昇格。
 こうしてバリー及びニーマンのライセンス政略による連続メガヒットの快進撃が始まります。

 ニーマンはリーガルパッドを前に腹を据えて座り込み、イーヴルクニーヴル、プレイボーイwithヒュー・ヘフナー、エルヴィス・プレスリー、スタートレック、そしてKISS!
 当時世間で耳目を集めていたセレブリティをリストアップ。ライセンス契約の交渉人としてバリーピンボールの前途を敢為邁往と切り開いてゆくことになるのです。


 “KISSをを題材に選んだのはなぜかって?彼らこそ正に生きたカートゥーンだ!ピンボールのコンセプトにぴったりだと思ったんだ。”

 ニーマンは早速ライセンス契約を交わすべく、彼らのエージェントであるロン・バウトウェル、及びマネージャーのリー・フリードマンへ契約交渉をオファー。
 折も折、地元シカゴでKISSコンサートが開幕という絶好のタイミングです。

 “じゃあライヴも見てもらいたい。最終的にライセンス契約を交わして本当にピンボールを製品化するなら、彼らとも直に会って許可を得てもらうよ”

 そう話すフリードマンの案内で通された部屋にやってきたのは、ブーツ着用でフルメイク姿のジーン・シモンズ!
 2メートル以上はあろうかという、とてつもない長身と偉丈夫の肉体美。その気圧されるような高圧感は今も忘れられないそう。
 実はこの時、キッスメンバーに会えるかも知れない…と期待して、例の幼少の息子トミーくんがその場に付いてきてしまっており、そんな子供をがっかりさせないよう、シモンズはわざわざフルメイク姿で席に現れてくれたのでした。
 そしてニーマンはこの時確信します。彼らこそピンボールのキャラクタライズに完璧な存在だ。ライセンス購入は絶対に実現すべきだ!と。

 バウトウェルとの正式な契約が成立し、ついにKISSピンボールプロジェクトが本格始動。
 バリー社に戻ったニーマンは美術班チーフのポール・ファリスを呼び出し、制作に着手するよう資料を提供。
 しかしファリスの判断により、今作の美術担当は後輩のケヴィン・オコンナーに託されることになります。

 オコンナーは配布されたチケットを手に、実際にKISSのライヴへと入場。彼らの歌唱力と演奏力には勿論、その壮絶過ぎる演出とパフォーマンスに圧倒されます。
 さらに2枚組LP「地獄の狂獣 キッス・ライヴ」を観賞の上、そのアルバムに掲載されていたステージコンサートフォトを元に、バックグラス及びプレイフィールドのアートワークに取り掛かることとなりました。
 更にKISS一人一人の個性を正確に表現すべく、4人全員のソロアルバムまでチェックするという念の入れようです。

 こうして珠玉のバックグラスアートワークの初号が完成。

 トム・ニーマンとポール・ファリス達バリー陣営が人気絶頂の彼ら4人と一堂に会するのは極めて難しかったはずです。
 しかし当人たちに直接OKを貰うべく、フリードマンとバウトウェルの仲介により、カリフォルニア州マジックマウンテンのTV番組ロケにおいて、ついにバックステージからリムジンに乗り込む直前のメンバー全員と顔を合わせる好機に恵まれます。
 間近で見る長身フルメイク4人組の圧迫感と迫力は、それはそれは凄まじかったとか。

 しかし、KISSメンバー4人に出来たばかりのバックグラス用アートワークを広げて見せたところ、こんな意外な返答が。

 “俺達の胸板は、もっとデケェはずだぜ”

 ……!? いやいや?ンなこたねぇだろう、と絵の彼らと本物の彼らと見比べては内心思いつつも、『OKOK!バッチリ描き直しときますぜ旦那!』と、ニーマンとファリスは二つ返事で修正を快諾。

 “そうだ、エルトン・ジョンのピンボール(キャプテンファンタスティックのこと)ってあるだろ。ゲーム内容はアレよりもっとスゲェ奴にしてくれよな!”

 そう言い残し、メンバーたちはリムジンに乗り込んで会場を後にしたという……。

 かくして、バックグラスを描いていたケヴィン・オコンナーは、十分筋骨隆々に描いたはずの4人の体躯を、更に盛るように手直しが命ぜられることになりました。

 だからと言ってニーマンやオコンナー達にとって彼らとのコラボレーションは決して苦ではなく、むしろやり易いくらいで、毎日がお祭り気分でワクワク楽しかったことを後顧しています。

 メンバー達の要求は筋が一本通っていたし、レーベルやマネージメント側も協力的。
 プロモーションやパブリシティのコラボは勿論、その時のニューアルバム「地獄からの脱出」においてはKISSピンボールのブローシャー挿入まで引き受けてくれたのですから。
 その後メディア向け取材や写真撮影にも協力的で毎回頼もしいKISS達に、ニーマンは会う度に勇気づけらたそう。

 むしろ、当時“大佐”と呼ばれた鬼マネージャー トム・パーカーに散々振り回されたあげく、アルバム・映画・TVショー等々のバリー側全ての提案や折衝案を撥ね付け、最終的にライセンス取得が頓挫に終わったエルヴィス・プレスリーのピンボール化蹉跌譚とか。
 当初事務所側が難色を示した上本人も警戒したため、アルバム「キャプテンファンタスティック」挿絵アートワークそっくりのホーム仕様ピンボールを1台丸々作って本人様に献呈して誠意を示し、ようやくライセンス取得がスタートしたエルトン・ジョンとの提携など。

 そういった苦難の数々を経験してきたコピライト台での苦労に比べれば、KISS達には何の問題も滞りもなく、ぶっしん共々最良の仕事の一つとなった……と後年にニーマンは語っています。


 いよいよ完成したKISSのピンボールマシンがリリースとなった訳ですが、ロケットスタートを切るセールスの勢いと評判高さにより、その後バリーの工場ではひたすら6か月間に渡って17,000台がラインに乗り続ける……という、抜群の戦績をもたらしました。

 10万人のKISSフリークたちがロケーション各地でバリーピンボールの熱烈セールスマンと化した訳で、
 “シッピングはまだか!通常の2台じゃ困る。5台購入させてくれ!”
 と怒号交じりの問い合わせを入れてきたあるオペレーターなんか、最終的にKISSを10台入荷していたくらい。

 殊に、アメリカのピンボールメーカーにとって優良貿易国のひとつであるドイツでは、このKISSピンボールが本国以上の高セールスを記録。ドイツ法人バリーヴルッフ社がこのディストリで大成すらしたくらい。

 実はバリーヴルッフ側の要請で、ナチスドイツを彷彿しないよう、傾いているのがトレードマークであるキッスのロゴ“SS”を手直しした上で出荷する……という、やるせない処置を施す経緯がありました。
 するとそれを知ったドイツのKISSファン、オペレーター、ピンボールマニアがこぞってオリジナル版キッスを欲しがったのだとか。
 結果、1万7千の製造ユニットのうち、その半数近くがドイツ国でのセールスだったというから驚きです。


 一方、前作「プレイボーイ」を大ヒットさせ、今作でも礼讃に浴すべき偉業を残したはずのプレイフィールドデザイナー ジム・パトラは、意外やKISSへの思い入れは当時も今も殆ど無いようです。

 彼はKISSのキャラクター性やアーティストとしての魅力と偉大さ、及びニーマン達の大車輪の奔走ぶりを心から絶賛していることを前置きした上で、同機種の心象を以下のように述懐しています。

 “あのプレイフィールドは元々、'70年代にエレメカ仕様前提で試作した「ライト・ア・ライン」というホワイトウッドが原盤なんだ。5×5のラインを完成させるトランプカードがテーマの内容でね。でも「フォー・クイーンズ('70)」「ハイ・ロー・エース('73)」でトランプネタは既に飽和していたから、カウボーイが主人公で冒険活劇タッチのアートにして商品化する方向で話が進んでいた。けどその矢先、突然バリーがライセンス政策への急な舵を切った為、そのライトアラインのフィールドは棚に上げられてしまった。しかしノーム・クラークの判断でそのフィールドが商品化候補として再浮上。5列ライトを4列のKISSレターに変更し、それでキッスのピンボールとして新たにリワークされたんだよ。”

 確かにKISSのゲーム性は高いものの、フィーチャー編成とフィールドデザインは、ワイドキャビネットやヴォイススピーチ、マルチボール、バイレヴェルがそろそろ現れ出す'79年という時節を考えると、あまりに定番且つ王道過ぎる仕上がりでした。

 やがて'80年代に入り、まるで本家KISSの人気下降に呼応するが如く、ピークの過ぎたバリー台のセールスは低減の一途をたどり始めます。
 この時節ウィリアムス社がビデオゲームの席捲に徹底対抗すべく、「ゴーガー」「ファイヤーパワー」「ブラックナイト」等々、ノンコピライトなオリジナルプロットでゲーム性に磨きをかけたピンボールの秀作を次々に発表。そんな同社の急追により、バリー社もオリジナル路線への方向転換を示します。

 トム・ニーマンも同社ロト部門へと異動することとなり、あれ程気炎を上げていたバリーピンボールのライセンス戦略も、嘘だったようにすっかり鳴りを潜めてしまうことになりました。

 その後バリーがマネージメントの変遷を経てバリーミッドウェイ社となった後、とうとうトム・ニーマンは同社を去ってしまいますが、その直前にディズニー映画とライセンス契約と果たし、映画「トロン」のビデオゲームをプロデュースするという功績を残しています。

 尚そのバリーミッドウェイ'82年製アーケードテレビゲーム「トロン」は、現在大阪SBP内スターン2012年製トロンピンボールの影で、絶妙な存在感を放ちつつ稼働中。機会があれば是非一プレイの程を。


 さあさあ御立合い。世は2010年代。ジャンルマニア・コレクター向けと化したピンボール市場は、バリー以上に小賢しくライセンス戦略の腕利きを見せるスターンピンボール社による独壇場に。

 「ローリングストーンズ」「AC/DC」「メタリカ」、「エアロスミス」……等々、錚々たるロックアーティスト達のブランド名を冠するモデルの製品化を次々と成し遂げ、「エルヴィス」ではかつてバリーが苦杯をなめたEプレスリーピンボール化の敵討ちまで果たしたスターンから、KISSピンボールのリメイク「キッス('15)」が満を持してリリース!

 その邪悪で禍々しいながらどこか優麗でダイナミックなプレイフィールド。まばゆいLEDフラッシュと共に絶叫爆裂するマルチボール。そしてご機嫌なビートで奏でられる数々のヒットナンバーには血液沸騰必須のモデルとして、国内では大阪SBPにおいて絶唱に猛り狂う暴れよう。

 プレイフィールドデザイナーは「メタリカ」で電気椅子パペットマルチボールの激しいギミックが好評だったジョン・ボーグ
 特筆すべきはケヴィン・オコンナーのアートによる'79年バリー版へのセルフオマージュ!
 近代スターンピンボールらしい仕上がりを見せたこちらのマシンも是非プレイして頂きたい一機種。近いうちにこちらの解説ページもアップさせて頂きたいところです。


 そうそう、先ほどから度々登場するトム・ニーマンの息子トミー君についてですが。

 今や4人の子を持つ立派なお父さんとなっているそうで、その子供たちの元へある日届いたのが、トムおじいちゃんからのプレゼントである「ウィザード!」のフルレストア・ピンボール筐体!

 子供らは皆ソレを教材にリアルTommyパパの英才教育を受けつつ、ピンボールウィザードを目指して日々邁進しているとか、いないとか。


▲デザイナーのジム・パトラにとっては没になったフィールドを使いまわしただけで、KISSとしてのデザインに心血を注いだ想い出は殆ど無かった ▲それよりパトラは他社にIC台商品化の機先を制されたことが非常に悔しかったらしい。当時バリーは'70年代ピンボールIC化に挑んでいた5社のうちの1社だった ▲オコンナーはKISSアートの原案スケッチドローをジョン・ポパデュークに適価で売ってしまったそうだ。彼なら持ち主として一番相応しいだろう、って。
▲左アウト&リターンレーンのアップ。 ▲バックグラスのアップ。KISS本人たちの要望で、元々マッチョなのに更なる筋骨隆々が盛られたという ▲最後はリターンゲートのボールセーヴァー稼働中の右アウト&リターンレーンで。

(2017年3月26日)