Williams/1980ブラックアウト | ||
原題 | Blackout | |
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製作年度 | 1980年 | |
ブランド名 | ウィリアムス | |
メーカー | ウィリアムス・エレクトロニクス・ゲームズ | |
スタッフ | プレイフィールドデザイン:クロード・フェルナンデス/美術:コンスタンティーノ・ミッチェル、ジャニーヌ・ミッチェル/ソフトウェア:ポール・デュソー | |
標準リプレイ点数 | ファースト44万点/セカンド59万点 | |
備考 | 製造台数:7,050台 |
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●ウィリアムス'80年製「ブラックアウト('80/6)」は当時、才覚溢れるゲームデザイナーやエンジニア達が犇めき、漲るウィリアムスの社風を正に象徴する一機種。 高名な大ヒット作「ファイヤーパワー('80/2)」「ブラックナイト('80/11)」の陰に隠れる形となったものの、そのゲーム性の高さはこの2機種に比肩する秀作である。 スピナーループ及びリエントリーレーンを多用したプレイフィールド構成。酩酊的なサウンドとヴォイス。レーンチェンジや筐体及びプレイフィールドライティング制御。 同時期のバリーが'70年代後半の路線に拘泥したままだったの対し、ウィリアムスは新しい才能の発掘、新しい性能の機構、新時代たるゲーム性の開拓を、恐れなく邁進している。 例えばこの「ブラックアウト」をプレイしてみれば自明の理。 同社前作「ファイヤーパワー」で業界初採用となった右フリッパーボタン操作レーンチェンジが益々小気味よい。スピナー付きリエントリーが左右に儲けられているのみならず、もう1本、まさかのミニサイドループ迂回突入コースがしつらえてあるので、尚更完成し甲斐がある。 トップレーン完成は勿論ボーナスXマルチプライアで、最高値5X到達後、ギュルルルルーゥ!!と先鋭なカウントサウンドと共に5回分雪崩れ込むアウトホールボーナスには万感ひとしお。 '79年製「フラッシュ」で驚愕させたバックグラウンドサウンドも、ここでは更に洗練されている。 酩酊的に繰り返される音の模様は役が進むたびにはやらせられ、緊迫感が否応無しに増してゆく。なんだか機械に囲まれた宇宙船の中に居るような気分だ。ノイジーで雰囲気満点のヴォイススピーチなど、船外活動の宇宙飛行士とやりとりする無線機の声のよう。 白眉は、5枚バンクスタンダップ+3枚ドロップバンク×2の全てをクリアしてからキックアウトホール突入で巻き起こる“ブラックアウトタイム”。 プレイフィールドとバックボックスのライティングが一斉に落とされる。一瞬の暗闇の中、高額のキックアウトホールヴァリューは2倍。ここではエキストラボールも獲れる。SF感に満ちたこの演出は実にクールだ。 他、役の完成でリエントリーのヴァリューが徐々にのし上がっていく到達感や、高額点灯が巡回するスピナーヴァリューなど、定番のフィーチャーも各所に押さえられている。 前述の様にマルチボール演出がダイナミックな「ファイヤーパワー」1万7千台以上のメガヒットの影に隠れ、7千ユニット程度のセールスにとどまったが、ビデオゲーム新興勢力急進の最中、7千台も世に送ったのだからブラックアウトだって大したものである。 本機種のデザイナーはクロード・フェルナンデス。 ピンボール産業でのキャリアスタートは1976年。4年勤めあげた海軍を除隊後、かのアタリ社にエンジニアとして入社している。 勿論アタリ創業者ノーラン・ブッシュネルと面識があり、スティーヴ・リッチー、マーク・リッチー兄弟とも友人関係となった。 しかしスティーヴ・リッチーは「スーパーマン」で実現化させようと開発したサウンドシステムを、既にブッシュネルを追い出していたマネージメント連中に却下されたことに怒り、ウィリアムスへ移籍。 そこで彼は二重不協和音サウンドBGM及びストロボフラッシュ機能を搭載した1万9千5百台セールスの大ヒット作「フラッシュ」を生み、スペースインベーダーブームにまんまと楔を打ち込んでいる。 そんな先達スティーヴの背中を追うように、クロードもウィリアムス社へと移籍。 スティーヴは既に開発チーム最前線のデザインチーフへ就任しており、クロードはメカニカルエンジニアとして2,3年ほどスティーヴと共にゲーム開発に勤しんだ。 前述の「フラッシュ」でもクロードはスティーヴのアシスタント的な役割を果たしている。バリー・オースラーの開発機でもエンジニアとして底を支えた。 そんな彼のプレイフィールドデザインデビュー作が本機種「ブラックアウト」だった。 ウィリアムスからはまだ正式な肩書きやチーフデザイナーのポジションを貰えていなかったが、試作ホワイトウッドとアイディアが採用された。 レーンチェンジ機能、音声合成、そして拍動するライティングやブラックアウトタイム突入でフィールドが暗くなる照明制御機能。 レーンチェンジと音声はウィリアムスピンボールにとって初めての搭載ではないし、筐体全箇所照明制御も旧スターン製「ギャラクシー('80/1)」に僅か数か月先を越されてはいるが、十分画期的な商品となった。 尚プレイフィールドが暗澹に包まれるブラックアウト演出は、1977年に起こったニューヨークの大停電がヒントになっている。 しかし完成直後、フェルナンデスは最高の開発環境を享受できていたはずのウィリアムスを去り、バリー社へと移籍してしまった。 理由は「ブラックアウト」制作時も完成後も会社から一流デザイナーとしての厚遇を得られなかったことと、スティーヴが開発を始めた「ブラックナイト」のバイレベル構造が好きになれなかったこと。 そして倍額の給料……というヘッドハントのオファーを、バリー社のマネージメントから直々にもらえたことが要因だった(話を持ち掛けて面談したのはビリー・オドネルではなく、奥さんを連れたマイク・オドネルだったそうだ)。 尚バリーは「ブラックナイト」の絵描き屋トニー・ラムンニまでウィリアムスから引き抜き、「エンブリヨン('81/6)」でフェルナンデスと仕事をさせている。 一流のゲームデザインチーフとしてバリーに迎い入れられ、“ゲームデザイナー”と打たれた自分の名刺の束を渡して貰えた待遇にフェルナンデスはいっときは喜んだが、すぐに懊悩の日々を送ることとなった。 入社後、バリー社二代目社長ビリー・オドネルに呼び出され、“ウィリアムスは今どんなピンボールを作っている?”と質された。 クロードはスティーヴが開発中の「ブラックナイト」の詳細を、まるで内通者の如くあけすけに明かさねばならなかった。 そのスロープ渡しの2階建てプレイフィールドの詳細を話すと、 “ショーまであと4ヵ月。それまでに2階建てフィールドの「フラッシュ・ゴードン」を作れ”と非道の開発計画をオドネルに命じらてしまった。 1年はかかるような仕事を4ヵ月で。しかもスティーヴたちの身も心も完全に裏切る仕事をここでこなさなければならない。 しかもバリーはバイレベルフィールドを製造したことが無い為、プランジャーひとつ互換できない。スプリングを強力にしたら今度は球がガラスに激突するありさまで、プランジャーの打ち出しすら満足に叶えられない。時間もない。 しかしバリー社にはケヴィン・オコンナーら優秀なスタッフも多く、周りの力を借りてどうにか完成にまでこじつけることが出来たという。 せめてものオリジナリティーを出そうと、下段バンパー地帯キックアウトホールから上段フィールドへ打ち上げる―――という、ブラックナイトには無い独自開発の優れた機構も備え付けた。 フェルナンデスらの血の滲む努力により「フラッシュ・ゴードン」の完成は予定通りトレードショーにも映画公開の機運にも間に合ったが、当然ウィリアムスやスティーヴ・リッチーとの仲は険悪になった。 人気コミック及び映画ライセンスでブラックナイトのゲーム内容をコピーキャットし、1万台も売り捌いたのだから。 まるで'90年代のデータイーストである。 時間軸は前後するがフェルナンデスはフラッシュゴードンの前にスティーヴの「フラッシュ」とゲーム性もプレイフィールドもそっくりな「スケートボール('80/9)」を発表している。尚更スティーヴらに合わせる顔が無かった。 のちのピンボールエキスポでの講演でフェルナンデスは、 『給料2倍の甘言に目が眩んだことを後悔した。あの頃の自分はまだ若かったし……』 と後顧している。今もスティーヴと完全には和睦できていないようだ。 その後のクロード・フェルナンデスの軌跡も追ってみると、初期のデータイーストピンボールに参画してジョー・カミンコウらと共に「トルピード・アレー('88)」を開発したり、マーク・リッチーの誘いに乗ってカプコンコインオップ社で「エアボーン('95)」の開発に勤しんだりもしていたが、大きな成果は出せていない。 ピンボール産業ですっかり疲弊したフェルナンデスは斯界から足を洗い、1930年創業の集積回路・DLP製造会社テキサス・インスツルメンツ社へ入社。エンジニアのベテランとして20年間務めた。 ところが。2010年代も末頃に入り、彼はなんとHOMEPIN社で「スパイナル・タップ」のデザインチーフへと就任。 デザインにもエンジニアリングにもファクトリーにも苦戦する同社へ采配を揮いながら、同作を完成へとこじつけたのだから恐れ入る。 一度その業界で育った者は皆鮭の如く、ピンボール産業の激流へと還ってくるのだ。 |
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